いつか太陽に落ちてゆく日々 46




 幸村は、ふと自分が見覚えのある城にいることに気がついた。
 上田城だ。
 そうだ。ここで徳川秀忠の足止めをしたのだ。父、昌幸と共に。
 今頃、兼続たちも戦っているだろう。そして、三成も。
 家康の戦力を分断して―――。
「無駄よ」
「…っ誰だ!?」
 知った声。振り返るとそこに、知らない女が立っていた。
「…誰だ」
「妲己よ。覚えておいてね」
「…妲己?」
 どこかで聞いたような。いや、確かに知っているような―――。
「三成さんは、負けるわ」
「…っ何を!」
「そうよねぇ、三成さん」
「…!?み、三成殿!?」
 何故ここに、と幸村が驚いた様子で三成を凝視する。そこにいるのは確かに三成本人だった。
 その表情は、酷く憔悴していて、幸村のよく知る、自信家の三成は見る影もない。
「…どうされたのです、三成殿」
「負けるからよ」
「…黙れ、妲己」
「…はぁい。遠呂智様」
「…っ俺は遠呂智ではない!」
「だって遠呂智様の力、使ってるじゃない。遠呂智様みたいに。だったら、きっと次はあなたが遠呂智様なんだわ」
「やめろ。勝手なことを言うな」
「三成殿、一体どういうことですか」
「…なんでもない」
「それに…どうしてここに」
「…幸村」
 三成は今にも泣き出しそうだ。そんな弱い表情、はじめて見る。幸村は心臓が高鳴るのを感じた。
 途端に、三成が強く幸村を抱きしめる。
「…っ」
 唐突に抱きすくめられた幸村は、息を詰めた。しかし、抵抗はしない。されるがままに三成の腕の中におさまっている。
「幸村…っ」
「は、はい」
「…俺は…っ」
「………」
 言いたいことがある。言わねばならないことがある。言わないまま、永遠の別れにしたくない。
「…俺は、幸村。言わねばならないことが…ある」
「…三成殿」
「関が原で、勝つことが出来たら、必ず言う」
 負けるかもしれないけれど。
 それでも。あの世界がなくなれば、戻るのは間違いない。関が原だ。
 だから、祈りを込めて、約束をする。
 すると幸村は腕の中でわずかに笑ったようだった。
「…ならば、聞きにいきます」
「…え?」
「三成殿、そう言ってよくはぐらかしてしまいますから。必ず、聞きに行きます」
「…幸村」
「はい」
「…わかった。待っている」
「ええ。…信じていてください。…私も、必ず三成殿が言わねばならないことを、言ってくれると信じていますから」
「…ああ」
―――ああ。
 幸村。信じたい。
「…信じている」
 腕の中、幸村は笑って頷いた。
 言いたい。言いたいことがあるのだ。
 言えるまで、待っているから。
―――だから。




 趙雲ははたと気づくと立派な城の前にいた。
 ものものしい気配だ―――戦をしているのか。
「…なんじゃ、何をしておる」
「うわっ」
 呆然としていた趙雲の横に立ったのは、政宗だった。厳しい表情をしている。
「な、なんで…いや、なんで私はここに」
「最後の仕上げじゃ、趙雲」
 政宗は視線を逸らさない。じっと城の天守を見つめている。そこに一体、何があるというのか。趙雲も自然と、その視線を追いかけた。
「は…」
「あの城じゃ、あの城の天守閣に、ある」
「…何がですか?」
「炎槍素箋鳴」
 その名前は、あの牢の中で聞いた名だった。幸村の、槍の名前。
―――遠呂智を打ち破るという。
「…あそこに」
 何故だか、それを疑わしいと思う心はなかった。
 そして自分が、どうしてここにいるのかという疑問は、もうなかった。いるべくしてここにいる。そんな気がするのだ。
 幸村を助けるために。そして―――他の誰かのために。
「ワシはあそこには行けん」
「…何故です?」
「馬鹿め、ワシは幸村とは敵同士じゃ」
「…そうなのですか」
「そうじゃ。ワシは幸村ほど自由に生きれん。ワシには奥州を守る義務がある。だからじゃ」
「……政宗殿」
「渡してくれぬか、幸村に」
 苦笑する政宗に、趙雲は口ごもるしかなかった。
「……」
「ワシは…あやつの、死ぬ姿も、他の何もかも、もう見たくないのじゃ」
 この人は。
 幸村の死ぬところを知っていて―――そしてそれを見たくなかったのか。
 だから、あの世界に、幸村が生きている世界に希望を見出したのか。
「…わかりました」
 趙雲は走った。周囲はあちこち武装されていて、詰めている雑兵の数も多い。ぼんやりしていれば戦が始まってしまう。
 趙雲は、一つ深呼吸をした。周囲をよく見渡す。風が吹いている。
 そして。
 じゃり、と足場をならす。城の周辺を固めていた雑兵が、趙雲の存在に気づく。
「―――趙子龍、参る」

 騒ぎが起こっている。幸村は何事か、と腰を浮かせた。
 どうやら賊か何かが乱入してきたようだ。戦を前に、一体どんな命知らずだ、と幸村が騒ぎの方へ足を向ければ。
「幸村様!」
 途端に、誰かが危ない、と叫んだ。
 気がつけば、その目の前に、知っているような気がする男がいた。
 自分とほぼ同じくらいの背。異国のもののような装束。長い黒髪を、後ろに一つにして結んでいる。その、整った顔立ちを幸村は知っている気がした。
「…あなたは…」
「幸村殿。…あなたに、渡すものがあってここまで来た」
「…何?」
 そう言って差し出したのは、赤い槍だった。炎のような、強い力を宿したそれを目の前の男が差し出している。
 それの名を、幸村は何故か知っていた。
―――炎槍素箋鳴。
「……あなたは」
「私は、趙子龍」
 その名に、幸村は既視感を覚えた。
「…ちょううん、どの?」
「はい」
 名を呼べば、酷く嬉しそうにその男が―――趙雲が微笑む。
「…え?なぜ私はあなたの名前を…」
 知らないはず。いや、でもよく知っている気がする。何故だろう。
「細かいことはいい。…受け取ってくれぬか」
「…は、い」
 炎槍素箋鳴を受け取ると、幸村は心臓が高鳴るのを感じた。
 何か大切なことを思い出せそうな、そんな気がする。
「幸村殿、信じてほしい」
「……」
「私とあなたは似ていると、三成殿が言っていた。だから、あなたにも出来る」
「…なに、を。三成殿、とは…」
 三成の名が出たことに驚いて、幸村は酷く困惑した。当然だ。三成は、関が原で敗北し、とうに処刑されていたのだ。
「あなたを、待っている人ですよ」
「…どういう意味ですか!三成殿は…もう、」
「あなたを信じる人を信じてほしい」
「…趙雲殿」
「三成殿も、兼続殿も…慶次殿も政宗殿も。それにくのいち殿も。皆、あなたを信じています」
「………」
 知っている名。その名が、趙雲の口から紡がれることに、幸村は言いようのない気持ちにさせられていた。ああ、そうだ。知っているのだこの人は。
「遠呂智を倒してください。その槍で。終わらせましょう、全て」
―――遠呂智。
 笑った趙雲が、ゆらり、と陽炎のように揺らめく。
 幸村は息を呑んだ。
「待ってください!趙雲殿、まだ…っ」
「あなたが挫けそうになったら、思い出してほしい。共に、戦いましょう」
 その言葉が最後だった。
 ぐらり、と世界が傾いだ。
 途端に、見えるのはあらゆる光景、あらゆる場面。その一枚絵。
 趙雲の姿は、もうなかった。
 幸村は、槍を握る。そして、顔を上げた。
―――待っている人がいる。
 その槍で、その中の一枚を貫いた。途端に、世界が変わる。
 城の中から、外へ。めまぐるしく変わる世界。馬に乗り、幸村はある場所へ向かっていた。背後には、真田の旗印の六文銭をはためかせて。
(関が原…!)
 気がついた。
 向かうは関が原。三成の援軍として、なんとしてもこの行軍を成功させ、間に合わせる。
 幸村は、手綱を強く掴んだ。そして馬の腹を蹴る。
 急げ。間に合わせろ。三成の、待つあの場所へ。
―――共に、戦いましょう。
 趙雲の言葉が蘇る。
 そうだ。自分は一人ではない。だから必ず間に合う。
 間に合わせてみせる―――!




 三成は、劣勢の続く報の中、じっと援軍が来るのを待っていた。
 幸村が来る、と。
 そう言った。
 言わなければならない言葉がある。
 何と言えばいいだろう。ありがとう、か。それともすまなかった、だろうか。
 いや、そんなものではない。そんな言葉たちでは、自分の気持ちのひとかけらも伝えられない。そうではなくて―――。
「幸村…」
 ふと空を見上げた。だいぶ陽射しが西に傾いている。赤い太陽が、その色がまるで幸村の鎧のように思えた。
(だが…耐えられるか)
 三成は拳を強く握った。今の戦況では、あとどれほど耐えられるか。三成にはわからない。
 だが、来ると言っていた。そして、聞くのだと言っていた。
 それを、信じたい。
 三成は歯を食いしばった。言いたい言葉がある。だから。
 言わせてほしい。
 そんな三成の耳に、届く声―――。

「三成殿―ッ!!」

「…っ幸村…っ」
「報告します!真田の援軍が到着…!」
「知っている!」
 三成は叫ぶと、本陣を飛び出した。
 そして、戦場の真ん中に、あの赤い鎧を見る。
 生きている。
(当然だ)
 だがそれが酷く嬉しくて。そしてその目で、また幸村を見つめることが出来て。
 耐え切れずに名を呼んだ。
「幸村…っ!」
「三成殿…!」
 待っていた。焦がれるほどに。
「間に合って、よかった…!…とても、たくさんの方に助けていただいた気がします…」
「…あぁ」
 ああ。
 三成は大きく息を吸い込んだ。そうすると見える、空の色。茜の空。
 あの大きな太陽。
 全てに、感謝したい気持ちだった。全てが愛おしいものに見える。世界はこんな色だったろうか。こんなに鮮やかだったろうか。こんなに。

 嬉しいものだったろうか―――。

(遠呂智。おまえもこれを…この気持ちを知れば、変わったかもしれん)
 遠呂智。
 蛇の毒は人の欲。
 だけれども、そんなものどうでもよくなるほどに。
 今、三成は清々しい気持ちだった。隣に幸村がいるという、それだけで。
「…返してやる、妲己」
 そんな哀しい力はもういらない。
 そう呟いただけだったが、身が軽くなったような気がした。
「…行くぞ、幸村。一気に巻き返す…!」
「はい!」
 ただの人の力。それだけで十分だ。
―――それだけで、運命を覆すことだって出来るのだ。
 幸村の槍が一閃し、周囲の敵を薙ぎ払う。炎のような力を感じる。
 それが酷く頼もしくて、三成は満面の笑みを浮かべた。幸村がそれを見て、驚いたように頬を染める。
 全てが終わったら、言おう。

 好きだと。
 愛していると。
 この世界の全てと、そして。
 幸村。
 何にもかえられない、あの空に浮かぶ、眩しい光のように。
 世界が変わっても、この想いは変わらない。
 いつかあの太陽が落ちても、この心は変わらない、と。



いつか太陽に落ちてゆく日々


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