馬超は届いた書簡を長いこと睨んでいた。 そしてようやく顔を上げた時、その眉間には深い深い皺が刻まれていた。 「おまえさん、相変わらず何やるでも一生懸命じゃなぁ」 そう言ったのは、秀吉だった。どうやらずっと馬超を見ていたようだった。 「…何を突然」 「馬超殿、気にすることはないのですよ。秀吉殿は人間観察が好きなのです」 馬超が機嫌を悪くしたと思ったか、妙なフォローが入った。光秀だ。 秀吉は頭を掻いて、苦笑いする。 「ま、なんじゃな。どんな恋文だとそんな顔するんかと思うてな」 「こっ恋!?勘違いも甚だしい!!」 猛烈な勢いで否定されて、驚いたのは秀吉も光秀も、同じようだった。とはいえ、二人はそういう相手の対応になれている―――なにせ近くに、普段から何を考えているかわからない人がいるので、こういう相手はむしろしやすいと言えた。秀吉がすまんすまん、と謝ると、何故だか光秀までもが謝った。 「これは…昔、私と縁のあった人が今いる場所を報せてくれたものだ!」 「ほう?その縁があったのが、じゃあ女か?」 「違う!!」 「すいません馬超殿。秀吉殿は女性が大好きなので…」 「おまえさんみたく信長様大好きよりいいじゃろうが」 「勘違いを招くような言い方はなさらないでいただきたい」 放っておけばどんどん続きそうだった二人の遣り取りに、馬超は知らずため息をもらした。別段二人のことでため息をもらしたのではなかったが、案外に大きなため息だったようだ。 もう一度、二人が謝ってくる。 「…これは…昔は俺の下で働いていてくれた人で、元は父の部下だった人の所在だ」 「へぇ、なんて名前なんじゃ」 「…ホウ徳」 名を名乗る声が、戦場に轟くのを聞くといつも武者震いした。おそろしく強い、鬼神のような男だった。 あの人を、いつか超える。それが目標だった。 「ああ、知っています。遠呂智軍にいるわりに、随分と所在なさげな目をされていた」 光秀の言葉に、馬超が驚く。ホウ徳が、所在なさげな目をしているところを想像できない。 「…ホウ徳殿がそんな目を?」 「一瞬ですよ」 予想以上の反応だったのだろう。光秀が慌てて訂正する。しかし馬超の記憶にある限り、ホウ徳という人はいつだって真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐに、愚直と思えるほど強く。 ―――そういう人が。 「…ま、遠呂智軍におって、自分を見失うなんてありがちな話じゃなぁ」 ホウ徳は魏軍にいる。魏軍は曹丕が曹操のかわりに立ち、遠呂智と同等な形で同盟を組んでいた。自然、自分たちの前に敵として立つことも多かった。 そして、そんな魏の武将たちは、それぞれが皆状況に困惑し、自分の立場に膿んでいた。 「……ホウ徳殿が…」 「所在がわかったのなら、一度お会いしてきたらどうです」 「…しかし、ここで世話になったものを」 「いつか返していただけれは結構。馬超殿はとても真面目な方ですし、恩を仇で返すようなことはないでしょう」 「そうじゃなぁ。いーつも一生懸命で大真面目じゃからなぁ」 「………しかし、敵同士になったのだ」 「ここでもそうなのですか?」 「え?」 「ここでは違うではないですか。ならばそれでいいのでは。あまり難しく考えないでいいと思いますよ」 光秀の言葉に、秀吉が黙る。理由は馬超にはわからない。だが、光秀の言葉も、唐突に言葉少なになった秀吉も、どちらもとても真剣だった。 「…そう、だろうか」 「少なくとも、お会いできれば嬉しいと思いますよ。私だったら、ですが」 「……そうじゃな」 「………そうか」 逢いたいか、違うのか。そう自問すれば答えは簡単に転がり落ちてくる。 馬超は少し考え、頷いた。 「ありがとう、光秀殿、秀吉殿。行ってこようと思う」 「ええ」 頷いた光秀は穏やかに微笑んでいる。そして、馬超が行ってしまった後、残された二人の会話は僅かに続いた。 「ええんかのぅ、あんなこと言って」 「馬超殿のことですか?」 「行かせてよかったんかのぅ」 「信長様に確認せずに行かせたことですか?…遠呂智が消えたのだから、構わないはずです」 「…まぁ、ええんじゃがな」 (なんじゃか、人が減っていってる気がするんじゃがな…) しかし秀吉は何も言わなかった。 遠呂智との戦いは終わり平穏が来た。ならばどれだけ元の鞘におさまろうとも、構うことはない。 だが、なんだか妙な力が働いているように感じるのは、何故だろう。 わからぬまま、秀吉はもう一度頭を掻いた。
馬に跨り、走らせる―――。 これから逢う人が、ホウ徳だと思うと馬超の心は震えた。 幼い頃から父と共に戦場を駆けた人だ。そしてその強さと、真面目な性格から、とても父に信頼されていた人。 その人と、紆余曲折あって敵国同士に身を預けた時に、もう逢うこともないだろうと思っていた。 それからの戦にはがむしゃらに戦った。以前からもそうだったのだけれども、特に強くありたいとそればかり願って、槍を振るった気がする。 しかしどれだけ鍛錬を積もうが、名のある武将の首をとろうが、勝てる気がしない。 ―――何故か。 (父の信頼の眼差し) 今はもういないその人の、眼差しの印象的なこと。そしてそれを裏切らない強さ。 そんなものを見ていたからかもしれない。 馬超はそんな風に見られたことはない、と思う。そんな風に、絶対的信頼を得たことがない。もちろん、ひとたび味方となれば、決して裏切りを働くことなどない。武功だとて立てよう。だが、それでも。 あの全幅の信頼と、そしてそれに当たり前のようにこたえるその人のようには、出来ない。 だからいつからか、馬超はホウ徳に勝ちたいと思うようになっていた。 あの男に勝ちたい。そうすれば、もしかしたら過去のわだかまりと手を切ることが出来るかもしれない、と。 そうしてどれほどひた走った頃だったか。 馬超は江戸城にたどり着いた。その頃、江戸城は政宗が遠呂智の力に目覚め、関羽や関平たちがその被害に遭っていた。 趙雲から話を聞いた諸葛亮は、曹魏に対して書状を送り、そしてそれをホウ徳に持たせようとしていたのだった。 ―――だから。 それは、必然だったのかはわからない。 馬超がたどり着いた時、ちょうどホウ徳は馬に跨ったところだった。馬上で互いの存在を認識する―――。 ホウ徳が、少しばかり驚いたように目を見開いた。 自分は、どんな顔をしているだろう。 そんなことを思ったが、馬超は声高らかに、叫んだ。
「ホウ徳殿!手合わせ願う!!」 その声に、近くにいた者たちがアッと声をあげた。 馬超が馬の腹を蹴る。そして、その手の槍が閃く。 誰かが待て、と叫んでいたようだったが馬超の耳には届かない。 槍の一閃。そしてそれが、ホウ徳の双戟によって受け止められた。 鈍い震動が、馬超の指先にまで響く。そのまま、じりじりと強く押し込もうとすると、ホウ徳はその力を一声あげて跳ね飛ばした。 「…っ」 馬が嘶き、数歩あとずさる。ホウ徳の闘気にあてられたのかもしれない。興奮気味だ。 「…馬超殿。某、諸葛亮殿に使いを頼まれている身ゆえ」 「逃げる気か!」 「…逃げる、とは安易な挑発…。馬超殿、そう血気を逸らせていかがする」 ホウ徳は何も感じていないのだろうか。馬超の掌は相変わらずじんじんと痛むのだが、ホウ徳からはそれを一切感じない。 この人は、こんなにも強いのか。 (勝ちたい) 元の世界では成しえないことだった。ホウ徳とこんな風に向き合うことも、打ち合うことも。 それは、遠呂智がこの世界を創ったからこそ実現したことだ。遠呂智のような、民にまで手を出そうとする悪逆の徒に、僅かな感謝もしたくはなかったが、それでもこの場をつくりあげることが出来た、それだけを馬超は感謝したい気持ちになる。 「…戦う気は削がれぬということか…仕方がない」 ホウ徳は一つため息をつくと、強く双戟を握りなおした。そして、強い眼差しが正面から、馬超を射抜く。 それだけで、びり、と感じる強者の気配。 馬超の中で、喜びのようなものと、恐れと、それが混在していて不思議な気分だ。高揚している。ぺろりと馬超は唇をなめた。 息を一つ、それすらも恐怖。 そして。 「―――…いざ!」 もう一度、馬超は馬の腹を蹴った。そして、そのまま勢いよく突っ込む。 ホウ徳はそれを避けようとせず、そのまま。 何度か、打ち合いが続く。 その猛烈な勢いに、何事か、と何人かが顔を覗かせた。 その中には劉備と張飛がいた。二人はおろおろとする周囲に待ったをかける。やらせてやりゃいい、と張飛が言うと、劉備も頷いた。 ―――どれほどそうしていたか。 ようやく決着がついたのは、馬超が馬から落とされたからだった。 ホウ徳はすぐに馬から降りる。その頃には、劉備と張飛が馬超のそばまで来ていた。 大丈夫か、と声をかける劉備に馬超はこたえない。 むくりと無言で起き上がり、兜をとった。明るい色の髪がこぼれる。 ホウ徳には、背を向けたままだった。 何も言わない。 しばし無言だった二人だったが、ホウ徳が先に口を開いた。 「お強くなられた」 その言葉に、馬超はぴくりと肩を震わせた。 「その強さに…西涼の夢を見申した」 馬超は相変わらず何も言わない。 「馬超殿。お仲間、大事にされよ。窮地に立たされた時、その時こそが人が試される時。あなたは、間違えぬよう」 劉備がそう言ったホウ徳に、微笑む。 馬超からはそれがよく見えた。そんな、僅かな間にこんな微笑みを勝ち取るくらいに、この人は。―――ホウ徳は。 「勝てないな!」 背を向けたまま、馬超は大きな声で言った。 「勝てない。ホウ徳殿は強すぎる!…大きすぎる」 その声が、震えた。 「…何故、勝てぬのか…っ」 ぼたぼた、と大粒の涙が零れていく。みっともないにもほどがある。しかし止めようとは思わなかった。 流し放題、流してしまおう。 「………ありがとう、ホウ徳殿」 小さな、震えた声で言った言葉に、ホウ徳は頷いた。 「…では、御免」 馬に跨り、走り去る。いなくなった途端に、馬超はまたごろりと地面に転がった。打ち付けたところが痛む。掌がじんじんと痺れている。背には大量の汗をかいた。僅かな間の打ち合いで、こんなにも。 勝てない。勝ちようがない。いつだってあの人は。 「よかったな、馬超」 劉備が笑った。 何も良いものか、と思ったが、否定はしない。そして、こくりと頷いた。 ―――よかった。 あの人が、変わらず強いままでよかった。真正面から、自分に対してくれる人でよかった。何も変わらずにいてくれた、それだけで―――。 嬉しかった。 頬に触れる土が冷たい。気持ちいい。馬超は、もうしばらくそこでそうしていた。そして、その間ずっと張飛と劉備がそこにいてくれたのだった。
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