合戦が終わった。なんとか勝った。危ないところだったが、兼続や幸村たちに助けられた。三成はもとより、左近も同じ見解だった。お互い言葉にはしなかったが、彼らがいなければ負けていた。一度負けてしまうと、戦というのは連鎖を起こしやすい。とくに彼らの築こうとする義の世は、どことなく平衡感覚を保ちづらい危うさがあった。 しかしそうして二人が安堵していたのもつかの間、突如周囲に殺気が立ちこめる。気づいた瞬間には、敵の忍びが音もなくクナイを投げつけてきた。同時に気づいた二人は、それを寸でのところでかわす。が、立ち位置が悪かった。やばい、と思った瞬間に左近の足元が地を滑った。まっすぐに立っていられなくなり、そのまま崖の下、落ちる―――それを、三成がつかんだ。 が、再び忍びが攻撃してくる。それをかわすことは出来なかった。 その時の三成の判断が、正しかったかはわからない。 が、とにかく三成は地面を蹴った。左近の腕をつかんだまま、二人して崖の下に落ちていった。 「…貴様…!」 兼続が気づき声を上げた。彼らの離れたほんの一瞬の隙をつき、忍びは素早く自分の任務をこなしたのだ。主の負け戦にも関わらず、それは間違いなく彼らの最後の足掻きだった。三成と左近を討て、という主命だったのかもしれない。兼続がそこまで考えた瞬間、その横を凄まじい速さで槍が、空を切って忍びの咽喉を突いた。 「幸村…!」 忍びはすでに事切れている。 「……早く、お二人を助けにいかねば」 「待て、幸村。私たちの動揺が伝われば下の者にも影響が出る」 幸村の妙な冷静さに兼続の中で何か警鐘のようなものが鳴った。こんな状態で家臣たちの前に出れば、士気に関わる。 「慶次、兵を纏められるか」 「出来なくはねぇな。行くのかい」 「ああ、今の幸村は一人に出来ん。頼めるか」 「そりゃあアンタの頼みなら、一も二もないがね。あんまり長くは待てねぇぜ」 慶次の空を見上げる素振りに、兼続もそれにならった。どんよりと薄暗く立ち込める暗雲。雨の含んだにおいがする。たぶん一刻もしないで雨が降るだろう。 「わかった。では、頼む」 「おう」 慶次はやや面倒そうに腰をあげた。幸村は二人でかわされる会話に、耳を傾けていない。放っておけば、そのまま崖に吸い込まれていきそうなほど、その場に立ち尽くして崖下を見つめている。ちょうどそこからは、光が射さない。二人の姿は見えなかった。 「幸村、いくぞ」 「はい」 落ちた。落ちる瞬間、幸村たちの姿を見た気がした。だとしたら、たぶん上は大丈夫だ。兼続と幸村、それから慶次がいる。彼らがいれば、自分たちがなくても兵を動かして城まで戻ることも出来る。 「殿は俺を緩衝材にすることまで計算してやったんですかね」 「いや、さすがにそこまで計算出来なかったな」 「で、怪我は」 「厄介なものはない」 「そうですか、そりゃよかった。左近は足を少し」 挫いたか、と三成は舌打ちした。命の危険からその程度で済んだことは、喜ぶべきことだ。最低限の被害ではあった。が、足というのは問題だ。下手をすると動けない。落ちた先はちょうど陽の射さない場所ではあったが、それでも雨が降ることはわかった。水のにおいが増している。 「動けるのか」 「まぁ、動くしかないですからねぇ」 「…とりあえず、少し待て。辺りを確認してこよう」 「頼みましたよ」 だいぶ高いところから落ちた。落下する感覚が長かったように感じた。見上げても幸村たちの姿は見えない。声を張り上げたところで届きはしないだろう。それよりも出来るだけ近場で、雨をしのげる場所を探す方が利口だ。周囲の地形は決して複雑ではない。待っていれば迎えは来る。上が無事であれば。 「……幸村」 呟いたのは友の一人の名だった。その時は、何故彼の名前を呟いたのかよくわからなかった。一瞬見えた朱の鎧が鮮明だったからかもしれない。 大丈夫だろうか。 幸村が強いことは、すでによく知っている。小田原城で誰よりも戦ったのは他ならぬ彼だったし、今では徳川家康が唯一恐れる男だともいう。 しかし、三成にはどうにもその彼が、弱いように思えた。槍を使えば彼の右に出る者はいないと本気で思うし、その強さにいっそ憧れもするのだ。だが、三成にはただ強いだけではないように思えた。 幸村のことを考えながら、少し下れば近くに洞穴のようなところを見つけた。どうやらどこかに繋がっているようだ。ここならば、と三成は急いでとって返した。今はとにかく、戻ることを考えなければならない。
馬に跨り、二人は左近と三成が落ちた先へ向かう。大きく迂回しなければこの崖下の川辺には辿りつくことが出来ない。さすがにそこから落ちて、無事でいるとは思えなかった。良くても怪我を負っているはず。動けない可能性も高い。兼続はゆっくり幸村を振り返った。何も言わずに馬を駆けさせている姿は、妙な緊迫感があった。 「幸村」 「………」 「あの二人は大丈夫だ」 確たるものなど何もなかったが、兼続はそう言い切った。自分でもあてのない自信だと思う。幸村は、しばし黙っていたが、ようやくぎこちない笑顔を向けた。 「そう、ですね」 兼続はその笑顔に眉を寄せた。彼は少し前に仕えるべき家の終末を見ている。彼自身がその修羅場にいて、生きてかえってきた。その時のことを思い出させるのか、幸村は時々自分や三成に対して、その片鱗を見せる。 三成にも言ったことがある。不安なのかもしれない、と。 だからあんなに必死になるのかもしれない。 (重いな) 彼の心には重い澱がある。それを取り除いてやれるのならば、そうしてやりたい。それが出来るのかを考えると、重い。しかし彼自身、苦しいはずだ。友の苦しみは自分の苦しみとしなければ。その重さも自分のものにしてやらねば。 一人で潰れるようなことには、したくない。 「幸村」 「は、はい」 「三成に会ったら、まず殴ろう」 「…兼続殿」 「心配かけさせた罰だ。それくらいは許される」 生きている。大丈夫。 こんなところで死ぬ男ではないはずだ。だから、大丈夫。 やはり根拠はないのだが、兼続はもうそれ以上心配してやるのをやめた。
「…ッ」 「大丈夫か」 「まぁ、なんとか」 弱音は吐かないだろうが、それでも痛むだろう。そもそも全身を打ち付けている。かくいう自分も多少、身体のあちこちが軋んでいた。 「上は平気ですかね」 「落ちる時、一瞬幸村たちが見えた。…平気だろう」 「だといいんですがねぇ」 「兼続などは俺よりもよほど兵を動かすのはうまい。…幸村が、少し心配だが」 「あいつね。武田の頃から一本気ですからねぇ」 「…そうなのか」 「そうですよ。信玄公も命は粗末にするなと言ってたんですけどね。聞いてんだか聞いてないんだか」 昔の話をする左近に、妙に感情が荒れた。 昔の幸村を知る左近に。 「でもまぁ、強い。あれは大事にしてやらなきゃいけませんよ」 「…無論だ」 「徳川方にでもなられたら、厄介だ」 「……そういう、利益は考えていない」 「へぇ」 「幸村は…大事な友だ」 「そうですか」 「…何か言いたそうだな」 「いや、別に。あいつを見ているとちょっとね、思い出す人がいるんですよ」 「誰だ、信玄公か?」 「……ま、それはちょっと伏せさせてもらいますが」 左近の言葉に、三成は少し考える。幸村を見ていて誰かを思い出すなんていわれて、想像つくのはせいぜい武田信玄くらいしかいない。それとも昔つかえていた主君のことか。あまりそういう話は聞いていない。 「おかげでまぁ、あんまり喋りませんね。向こうは話したいようですが」 「…わかっているなら何故そうしてやらない」 「殿はあいつに甘い。まぁ別に、避けているわけでもありませんから」 左近は薄く笑う。誰のことを考えているのか知らないが、幸村とあまり正面から接したくないのか。その気持ちは、少しわかるところがあった。 「しかし困りましたね」 「全くだ」 気を抜いたつもりはなかった。本当に一瞬の隙をついて忍びが飛び出してきたのだ。死ぬつもりの人間の、帰るべきところのないゆえの恐ろしさにはさすがに舌をまく。 「…幸村は死地を潜り抜けてきた…が」 思い出すあの忍びの目が、戦場に立つ幸村と似ている気がした。そう思うと、妙な寒気が三成を襲う。 「重いですねぇ」 「…何がだ」 「あの御仁はね、おそらくそういう生き方しか出来ないんですよ。指針がなければ動けなくなる。指針がある限り誰よりも強い。殿はちゃんと考えてましたか?友に追い詰められてちゃ割が合わない。義なんて不確かなもので天下を掌握しようとする限り、簡単にはいかないことが多い。切るなら今でしょうな」 左近の言葉に、三成はあからさまに眉を顰めた。普段あまり表情のない三成の、珍しい顔だ。 「左近、さっきも言った。俺は利害で友を決めたわけではない。幸村は大切な…」 「大切な?」 「………」 友だ、と言い切ろうとして、言い切れない何かが自分の口を封じた。 「まぁ我が殿は軍事も苦手ですがそれ以上に苦手なものがありますからねぇ。そんなに急ぐことはないですが」 それ以降、二人は黙った。そうすると周囲の木々が、水が、風に吹かれているのが聞こえてくる。左近は時折三成の様子を窺った。どうやら彼の関心はうまく逸れたようだった。こんなところで自分のことを必要以上にひけらかすのはどうにも抵抗がある。幸村の話題が出たせいで、ついうっかり口を滑らせたが。 双眸を閉じれば、聞こえてくる弓をつがえる音と高い声。 我ながら不毛なことだ。 誰にも言うつもりはないし、この思いを遂げられる日もありえない。 だからこそ、幸村は苦手のまま。武田の頃の話をしても、今は詮無いこと。話すことなどないのだと幸村を拒絶した態度をとっている方が気楽だ。 自分の、不毛な連想から不毛な感情を引っ張り出さなくて済む。 そもそも、あれを覚えているのは今となっては自分だけかもしれないのだし。
一方の三成は、周囲の気配など全く目に入らなくなっていた。 左近が明らかに憎まれ役になって、何かを伝えようとしたことは、理解できた。左近の皮肉な言い回しには慣れていたし、今更どうということはない。 そして自分の、幸村に対する感情にも靄が残った。 幸村は強い。そしてどこかが弱い。左近が言ったのはそういうことだ。 幸村の弱さは自分でも気になっていたことだ。それについては昔、本人にきつい言葉で言ってしまったことがある。 しかし戦場にあれば心強い。彼がいるということが、戦場の士気を上げることだってある。それを自分はいつも嬉しく思う。伝令が伝えてくる前線の様子に、苛立つことも、あった。幸村はいつも前線にいる。いっそ前に出すぎという事もある。しかし、無事に戻ってきた時には、それを言う気になれずに黙り込むことも多い。何を口にするべきかわからずに、じっと黙り込んでしまう。そうすることで、幸村はいつも自分を気にして最初に謝ってくるのだけれど。 「………」 兼続のように、いっそ自分の思うことを正しく伝えられる術を持てばいいが、三成にはそれは逆立ちしたって難しい話だった。 ふと。 三成は何かを感じて顔を上げた。何か来る―――。 「幸村たちだ」 立ち上がり、そこにいろと一言残して三成が外へ出た。耳を澄ませば僅かに響いてくる、蹄の音。三成が出ていった方を見つめて、左近は肩を竦めた。 「あれでわかってないって方が、おかしいんですけどねえ」 三成たちが落ちたあたりを探して、兼続と幸村は馬を走らせる。 しばらくして、兼続が洞窟を見つけた。少し前から雨が降り出している。 まだ雨脚は強くはなかったが、そのうち大振りになるだろう。弱まる気配は感じられない。動けるとしたら雨の防げる場所へ向かうだろう。 そしてすぐに、二人の目の前に三成が現れる。 「三成!無事か!」 「あ、あぁ。左近が足に怪我をしていて動かせん」 「左近殿が?」 反応したのは幸村で、そのまま馬を下りるとすぐに洞窟の中へ踏み込んだ。三成が生きていたことにあまり反応しない。兼続が少し不安を感じた。 「お怪我の状態は」 「あんまり良くはないねぇ」 「雨が止んだら、戻りましょう」 幸村はそういうと、すぐ近くにあった枝を左近の足にそえて、自分のはちまきで保護をする。手馴れた様子で手当てをしていく幸村に、左近は困ったように苦く笑った。 「おそらく怪我が熱を持ち、全身にまわってきます。私は何か食べるものをとってきましょう」 「おい、幸村」 「兼続殿はお二人を見ていてください。それに兼続殿もお疲れでしょう」 兼続の声もあまり聞こえていないのか、幸村はそういうと三成が焚いていた火のそばに三人をおいて、すぐに外へ飛び出していった。おいていかれた三人は、呆然と幸村の背中を見つめるばかり。三成にいたっては、ほぼ完全に無視されていたような状態だ。 「…どうも、制御が出来なくなっているようだな」 兼続は困ったように肩を竦めた。こういう時、慶次の方がおそらく場をおさめるのは上手い。しかしどうしても幸村についていくのは自分がやりたかった。実際のところ、真田幸村と出会ってあまり月日は経っていない。お互いの役割がある中で、毎日顔を合わすわけでもない。だからこそ、ちゃんと理解してやりたかったのだ。 「…悪いんですけどね、殿。追いかけていただけませんか。あのままだと何を食べるものだと持ってくるか想像したくないんですが」 左近の言葉に、三成と兼続は顔を見合わせた。 そうだな、と先に頷いたのは兼続で、三成は多少迷っていたが、兼続は無理やり追い出す。 「…甘い甘いと言ってたが、俺もですかねぇ…」 「気づいていないのは本人ばかり、か」 幸村はほどなくして見つかった。雨はだいぶ酷くなっている。川辺に立ち尽くしてじっとしている。魚でも狙っているのか、と考えた三成は、呼ばれて振り返った幸村の表情に雷に撃たれたような顔で、立ち尽くした。 「………」 三成の声に振り返る。雨ですでに二人ともびしょ濡れだ。 「三成殿、何故ここに…」 「魚でも狙ったか?」 「…すいません。何かしなくては、と…」 幸村の口調がどこか危うい。今まで現実の世界にいなかったような浮遊感。 ちゃんと地に足がつけていないような気がする。 「落ち着きのない奴だ」 「…申し訳ありません」 「……幸村」 「………」 雨のせいだと一概には言い切れない、目の端が少し赤らんでいる。 「…泣いているのか」 「…突然おかしなことを言われますね、三成殿」 笑った幸村に、三成は一歩足が出た。しかし二歩目でそれを止める。俯いて、歯軋りした。抱きしめてやりたい。 「俺はおかしなことなど何も言っていない。隠しても無駄だ」 「………」 「泣きたいなら、泣けばいい。俺は別に…止めん」 「兼続殿と馬を走らせここに着くまで、ずっと恐ろしい想像をしておりました。そうならなければいいと思いながら、ずっと。先程三成殿が出てきて、安堵したのです」 「幸村」 「気が抜けたのです。…が、それではいけない、と」 幸村が顔を上げた。空を仰ぐ。今の空は暗雲の垂れ込める重い色をしている。陽の光が射さない。 「何かをしていないと、叫び出しそうで」 「幸村」 「…はい」 「すまなかった。心配を…かけた」 「三成殿…」 三成がそっと手を伸ばす。空を見つめるその顔を、無理やり自分の方へ向かせた。 「安心して、泣いていい」 そう言った瞬間、幸村が三成の肩へ頭を預けた。最初は嗚咽だけだったのが、次第に大きくなってくる。 左近の言葉を思い出す。 そういう生き方しか出来ない、と。 それを、愛しいと思うのはおかしな話だろうか。友というものには、こんな感情を持つものだろうか。少なくとも、今。 預けられた幸村の頭の重みと、彼の匂いが三成にもたらしたのは、眩暈のしそうなつかみきれない感情だけだ。 ただ一つだけわかっているのは、今この時間が幸せだということだった。
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