天上の 9




 手に入らないと思うと余計苦しい。
 欲しくて欲しくてたまらなくなる。
 でも無理にそれを手に入れたとして、どんな意味があるのか。
 幸村は所詮幸村で誰かのものではない。
 彼は彼のまま、それは変わりようもないのに手を伸ばす。
 まるで病のように。
 頭では理解しているのに、溢れてくる想いは堰き止められない。
 一方的に押し付けて、傷つけて、それでもまだこの心は。

 恐ろしいほど同じことを想っている。

 幸村。

「それが色恋ってもんですよ、殿」
 左近がやれやれと言った様子で盃をあおった。しかしまったく酒に酔う気配はない。
 実際酔えるような話でもない。かといって呑まずにもいられない、実に複雑な気分だった。
 幸村と三成の間に何かあったろうことは、翌日の昼には左近にはわかっていたことだった。三成の目尻は涙で赤く腫れていたし、いつになく落ち込んでいる。幸村はあえていうならば普段通りに見えたが、明らかに三成を避けていた。それに唇の端に自分で噛んだような傷があった。赤黒くなっていて、少し膿んでいたかもしれない。さらにその幸村の、首筋に嫌でも目立つ痣がいくつか。
 それを見た時、左近は嫌なもんを見たと思ったが、それにしても随分急展開だと左近は逆に三成を見る目をかえた。この口が悪くて口を開けばいつも裏目に出る、それをひそかに気にしている男が、なりふり構わずとは。
「幸村だって男でしょう。さして気にする必要などないのでは?現に、普通にしてましたよ幸村は」
 三成はすでに悪酔いの域に達しそうな酒量をあおっていた。
 止めるべきかと思ってみているが、酒が入っていなくとも、今の三成は悪酔いしている状態と同じだ。だったら普段は言えないようなことを、酒の力を借りて言わせてしまうのも手かもしれない。
「…俺はもう駄目だ左近。…心の臓のあたりが痛くて、死ぬ」
「だからそれが恋の病ってやつでして」
「いいや、もう駄目だ」
 そもそもこういう酒の場をもったのも、三成がいかにも落ち込んでいて、なんだか見るに耐えなかったからだ。
「俺は幸村が欲しい。なんなんだ、くそ…っ」
「…殿。幸村は一度死の淵を見たんですよ」
「……?」
「その目に死を焼き付けた。あれはまだこだわってんじゃないですか」
「…何に、だ」
「死に場所に」
 銃声のこだまする戦場。火薬のにおいと血のにおいが混ざり合って、吐き気のするような酷い有様だった。空は灰色に覆われ、何もかもが泥にまみれた。左近はその戦を見ていない。ただ、話には聞いていた。武田滅亡の報せは、武田信玄という人の偉大さに比例して素早く知れ渡ることになった。
 その凄絶さだけは、信玄を知っているがために、左近にも容易に想像がついた。そして僅かに胸をいためた。
「だから殿は、こんなとこで管巻いてる場合じゃないでしょう」
「…どうしろというんだ、左近」
「我が殿はそこまで愚かでございますか?」
 大事なところはあえて言葉を濁した。左近の物言いに、三成は僅かに鼻白んだが、すぐにわざとらしい左近の挑発に笑う。
「ふん。わかっている」
 幸村が囚われているのはあの時の死の香り。あの時見えた、死の淵の、血の色さえも泥にまみれたあの阿鼻叫喚。
 もしもまた、ああいう戦が起こったら、幸村は今度こそ死に向かうだろう。左近はそう思う。
 突然立ち上がった三成に、左近は苦く笑った。
「大丈夫ですかい、殿」
「大丈夫、だ!」
 とてもそうは見えないんですけどね、と笑いながら左近は千鳥足の三成を追わなかった。
 恋に狂ったら誰もがそうなるのだ。顔色一つ変えずに睦言を言いそうだと思っていたこの男ですらそうなのだから。誰があれを止められようか。


 

 秀吉は、自室に一人でいた。最近妙に疲れている。特に今回はこたえた。
 孫市はまだ屋敷に留まっているが、それは秀吉が出ていくことを許さないだけで、許せば飛び出すようにいなくなる気がしていた。
 ねねも心配している。三成は幸村が傷を負ったことを相当辛く思ったようだったし、秀吉が望む「みんなが笑って暮らせる世」はなかなかたどり着くのが難しい。
 まだ信長が健在で、この国は戦乱に満ちていて、いつもどこかで誰かが策を弄し、人を大量に殺すことを考えていた、その頃に戻りたいと時折思う。天下をこの手にしたのに、だ。
 しかし手にした天下は今は一応、力でもって押しこめている状況だ。
「おまえさま、大丈夫かい」
「…おう、ねねか。やれやれ困ったことはまだまだ山積みじゃな」
 そう言うと、秀吉はごろりと畳の上に大の字に転がった。最近ではこんな風に畳の上、はしたなく寝ることも許されない。
 そうするとねねも秀吉の横で転がった。
「わしのせいじゃな、今回のことは」
「…おまえさま」
「孫市には悪いことをした。…どうすればええと思う、ねね」
 秀吉の横で同じように横になっているねねは、少し考える。出来るだけ、何もかもが大団円になるように。みんなが笑って暮らせるように。
 それは何も孫市との約束だけではない。苦しかった頃、ねねともかわした約束だ。
「そうだねぇ…。孫市は、ずっと辛かったんだろうね。ねぇおまえさま。もういっそみんなで泣こうか」
「泣く?」
「大声出してね、赤ん坊みたいに泣くんだよ。そうすると、わだかまりも全部、涙が洗い流してくれるよ」
 二人がそうして泣いているのを想像すると、それは面白い光景だった。思わず肩を竦めて笑う。秀吉も同じように考えたらしい。二人の笑い声がしばらく部屋に響いた。
「…そうか、さすがねねじゃな」
「やぁだ、そんなに褒めちゃ駄目だよおまえさま!」
 ふと、笑うのをやめて、秀吉が呟く。今までを思い出すように。
「…孫市はな、いい奴なんじゃ。…時々ぐだぐだになって、どうしようもなくなっちまうが、ありゃいい奴じゃ。いろんなことが、あった」
「…おまえさま」
「それがな。…なんじゃ、全部なくなっちまうような気がしてなぁ…」
「大丈夫だよ、おまえさま」
「そうか」
「そうだよ」
「そうか…ねねに大丈夫だと言われると、安心するのぅ」
 そう言うと、秀吉は目を閉じた。そうすると本当に、たくさんのことを思い出す。
「そうじゃねね、知っとるか?出雲の勧進巫女」
「ん?」
「孫市がいる間に呼ぼうと思ってな。招いているんじゃ。おそらくもうすぐ着くはずじゃ」
「うん」
「桜の大木のように、儚く美しく堂に入った舞を見せてもらえるそうじゃ。ねねも、戦ばかりであまり目を楽しませてこなかったじゃろ」
「おまえさま、浮気は駄目だよ?」
「だぁいじょうぶじゃ。ありゃ孫市の…」
 途中で言葉が途切れる。どうも眠ってしまったようだ。あら、と思ったがねねは静かに立ち上がって、自分のあまり着ない上掛けをかけてやる。
「おやすみ、おまえさま」


 勇んで出てきた三成だったが、思うように足が運べず、もつれもつれに廊下を不恰好に歩く。視界は歪むし頭は中身がひっくり返されたかのようだ。
 どうにか幸村にあてがわれた部屋にたどり着いた頃には、すでに確認をとるような余裕などなく、襖を開け放った。がた、とやかましい音がして、三成が今度こそ平衡感覚を保てなくなりかけた、一瞬。
 部屋の中、座している幸村の、視線を真正面から受け止めて、酔いが音を立てて引いていった。幸村は瞬き一つせずに三成を見つめている。何も言わず、何もせず、ただ瞑想するように三成を見上げている。
「…すまん、突然」
「―――…いいえ」
 酒を飲み始めた時に左近が言っていた、幸村の首筋の痣が生々しいという言葉を思い出す。あれは三成が、自分でつけたものだ。そう思うとやはり酷く生々しい気持ちにさせられた。
「…その。…少し、いいか」
「はい」
 声音は酷く緊張しているように感じられた。今まで無造作に向けられていた笑顔はもう見れないのだろうか。そう思うと痛い。
「…昨夜は、すまなかった」
「いいえ」
「幸村、俺は」
「何もありませんでしたよ、三成殿」
「…何?」
「昨夜は、何もなかった」
「何を言っている、幸村」
 幸村は笑わない。無表情に、それを繰り返す。三成の中で心臓が早鐘を打った。昨夜のことは何もなかったのだと言われてしまったら、どうすればいいのだ。幸村の首筋に生々しく残るそれが、幸村の言葉によってなかったことになるなど、考えることも恐ろしい。
「何もございませんでした。三成殿、そういうことに」
「幸村、おまえ」
「私如きに惑わされたなど」
 だから必死に否定する。
「違う幸村、おまえだから惑わされたのだ。だから、なかったことにはしないし、出来ない」
「………」
 黙り込む幸村の、瞳の奥に漠然と見えている、あれはどんな火だろうか。
 何を思って、どう考えて、なかった事にしようというのだろうか。それとも、幸村はこの気持ちを知りながら、生殺しにしようと言うのだろうか。
「幸村、おまえは何を怖がっている」
 思わず、ぽろりと口をついて出た。一瞬の沈黙の後、幸村が首を傾げる。
「…さぁ、三成殿の仰られることは私には難しい…」
 言葉を遮るように、三成は必死に訴える。伝われ、伝わってくれ。
「幸村、おまえは自分が考えるほど武勇一辺倒の男ではない。他人がそう言うのであれば、俺が否定しよう。おまえはそれだけではないと」
「三成殿は私を買いかぶりすぎです」
「そんなことはない」
「…困りましたね」
「勝手に困っていろ。俺はおまえを過小評価しない」
「…三成殿…」
 どうして引き出せないのだろう。
「幸村。言ってくれ」
「…何も、怖がってなど」
 すっと視線が逸れるのを、三成が制した。
「逸らすな」
「……」
「俺はおまえが何を恐れているか、おまえの口から聞きたいのだ」
 何故幸村の口から、それを言わせることが出来ないのだろう。ただ言ってほしいだけだ。それは、そんなにも幸村の中で恐ろしいことなのか。口に出すのも憚られるほどの、辛いことなのか。わけもわからずそう思う。彼が本当に何を恐れているのか、何を求めているのか。
「……三成殿は、恐いお方だ」
「幸村」
 三成の眼差しはただひたすらに幸村を見つめている。おそろしいほど一直線に、何もかも見透かすように。しかし実際は、何も見透かせずにいるだけで、だから必死に見つめるしかなかった。
「…俺は、その…こんなことを、言えた男ではないが。そんなに頼りないか」
「そのようなこと、ございませぬ」
 素早い否定に、思わず自嘲する。
「いや、それも嘘だな幸村」
「私の言葉は何もかも信じていただけませんか?」
 少し悲しそうな幸村の顔に、胸が痛む。信じたい。信じたいが、自分が自分を堰き止められない今、三成にとって一番信用出来ないのは自分自身だった。
「…俺には言えないか?」
「平行線ですね、三成殿」
 何もかもを跳ね除けてそう言う幸村に、三成は拳を握る。
「…俺は幸村が、何かを恐れているのは嫌なのだ。傲慢だと思われてもいい。もうこんなのは、惚れた弱みというやつだ。滑稽だがな、俺は、幸村に笑ってほしい。何かに恐れ、耐えているのなら、それを取り払ってやりたい。あんなことをした後に、言うべきことではないのは、重々承知している。だが…」
「……三成殿は」
 部屋は薄暗い。ちろちろと蝋燭の炎が揺れるたび、幸村の表情の陰りが違う形を生んだ。まるで生きているように。幸村はちらりとその蝋燭の炎を見た。
「…物好きでいらっしゃいますね」
「どういう意味だ?」
「そんな言葉は、おなごにでも囁いてさしあげるべきではございませんか」
「そんなもの幸村以外ではどれほどの価値もない」
 三成は真剣だ。まぎれもない真実を、三成は口にしている。
 時折その真剣さに触れて、幸村の口が開きかけてはまた閉じる。それはまるで蝋燭の炎のように、揺れる。迷っているのがよくわかった。
「……すまん、幸村。これも、押し付けだな」
「…三成殿」
「こんなのは、俺が…満足したいだけだ。幸村のことを、知ったつもりになりたい、と」
 駄目だ、と思う。幸村のことになるとどうしても、自分の気持ちを押し付けてしまう。それはもうしないと誓ったのに、形はどうあれやっていることは同じだ。ほんの幾日か前まで、自分の想いに気づくまで、自分は幸村にどう接していただろうか。よく思い出せない。
「三成殿。…私は、取り憑かれているだけです」
「…何に、だ」
「…さぁ、私にも、よくわかりません…」
 そうやって、幸村がようやく微笑んだ。ぎこちない。左近が、あれは死の淵を見つめているという。だとしたらそういうことか。それとも別のものに取り憑かれているのか。三成にはよくわからなかった。そしてそれは、幸村本人にもわかっていないようだった。

 その時、悲鳴のような声が屋敷に響いた。
 その声を聞いた全員が、その声がねねのものだと知って、振り返る。
「三成殿!」
 幸村が叫び立ち上がる。三成も頷くとすぐに走った。
 嫌な予感がする。嫌な。
 その時、唐突に空が光った。稲光が、闇を切り裂くように。音がそれを追いかけるように、そして雨が、容赦なく振り出す。
 走る三成をおいて、幸村は立ち止まった。
 雨だ。
 血のにおいを、嗅いだような幻覚に襲われて、幸村は双眸を細めて空を睨む。
 死の気配が、したような気がした。





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あと何話で終わるかわかんなくなってきました。