天上の 10




 それから怒涛のようにいろいろなことがあった。
 秀吉の唐突な死に、誰もがついていけていなかった。
 ただ時は待ってくれない。
 あまりにも唐突なことに三成はいろいろなものがついていっていない、と感じた。
 それは次代に天下を明け渡すにしても早すぎたし、次の天下を狙う徳川の不穏な動きにも目が離せなかった。徳川のさらに北には奥州の伊達もいる。彼らが大人しく天下を次代に引き継がせるわけがない。
 ここ数日に早まった動きは、三成たちを焦らせるに十分だった。
「戦になるな」
 自然、無意識に呟いた言葉に、三成は苦虫を噛み潰すように空を見上げた。
 不自然なほど晴れ渡った空。もう少し雲行きのあやしい空模様であれば、そういう気分になったかもしれないものを。
(みんなが笑って暮らせる世、だったんじゃないんですか秀吉様)
 恨み言だ。あまりにも早すぎて、気持ちがついていかない。そのことに対する、どうしようもない恨み言だ。
 でも、そのせいでたくさんの人間が泣いている。誰も笑ってなどいない。

 

 ねねの悲鳴。雷鳴が轟き、嵐を予感させたあの日。
 三成を庇って幸村が負傷してから、まださして時も経っていない。
 屋敷にはまだ孫市が止まっていた。
 確かに最近、秀吉は疲れていたかもしれない。しかししばらく泰平の世を謳歌出来るはずだった。
 駆けつけた三成の前で、ねねが泣いていた。涙を隠しもしない。秀吉はぴくりとも動かない。そんなことがあってたまるか、と何度も目の前の出来事を否定しそうになった。
 屋敷は騒然となりかけた。そこへ幸村が現れて、静かに言った。
「秀吉様の死を、隠しましょう、三成殿」
「…幸村?」
「昔、信玄公がお隠れになった時そのように遺言されたのです。そのようにされた方がいいでしょう」
「…何を言っているんだ、幸村」
 いや、言いたいことはわかった。あまりにも唐突で、突きつけられた現実に皆が立ち竦んでいる。その状況で秀吉の死去を告げるのはあまりにも危険だった。
 しかしそこで、幸村の瞳に宿る闇が、酷く膨らんでいるような気がして三成は息を呑む。
 一体、あれはなんだ?
「そうでなければ、戦が来ます。今一番力をつけている徳川が」
「幸村、黙れ」
「人が死にます」
 三成は苛立ちも隠せずに言った。しかし幸村は黙らない。
 確かに幸村の言う通りだ。この場では秀吉の死は隠すべきだ。そうでなければあまりにも唐突すぎる。まだ何の準備も進んでいなかったのだ。まだ秀吉の世の基盤すら、出来上がっていなかった。
 この機会を逸するなど、あの徳川の狸が考えないはずがない。
 幸村の言うことは正しい。しかし。
「…三成」
 ねねの声が震えている。ではこの涙をなかったことにしろと言うのだろうか。幸村は、そうしろと言っているのだろうか。
 出来ないことではない。秀吉には子供もいるのだから隠居ということで表舞台から退いたとでも言えばいい。諸侯は納得しないかもしれないが、出来ないことはない。
 ただ、秀吉の身体にとりついて泣いているねねの涙をなかったことにする、とか。
「…秀吉ィ」
 親友だとかいうこの男の、虚脱した様子とか、そういうものを。
 そして自分の中にあるたくさんの思い出を。
「三成殿、この泰平の世を守るためです」
 無理だ。
「幸村、黙れ。葬儀を執り行い、日の本の民は全て喪に服す」
 酷く冷たい声だった。
 自分でも驚くほど、幸村に対する言葉の中でも特に酷い切れ味のある冷たさだった。
 でも、どうしようもなかったのだ。幸村の言葉に納得出来ない。確かに凄い男だっただろう、甲斐の虎。己の死に際してもそんな風に遺言を残せるなど、そうはいない。それが幸村の中にたしかに遺言として残っていたのかもしれない。
 しかしそれを、本人の望まないところでなど出来ない。
 頭が痛い。
 そういえばしこたま酒を呑んだ後だったような気がする。幸村と話をして、幸村を酷く遠くに感じて。
 なんでこんなに、思い通りにならないことばかりなのだろう。
 幸村に対する想いも、秀吉の死も、これから来るだろう嵐のことも。

 

 秀吉の葬儀はつつがなく終わった。
 酷く不思議な葬儀だった。秀吉が生前呼んでいたのだという巫女がやってきて、ねねがそれを受け入れた。あの人は派手好きだったからね、と泣きはらした目で笑うと、彼女に秀吉が眠る墓の前で、踊るように頼んだ。
断られるのではないかと思ったが、巫女は快く引き受けた。
「そうおすなぁ、皆様に、笑っていただきたいてお文をいただきましたし、それがご遺言ですものなぁ」
 巫女は訛り言葉で微笑んで、墓の前で踊った。装束は黒いものに着替えていたが、堂々としていて逆に儚くて、それが悲しくもあった。
 おそらく生きて見たかったはず。彼女の舞いを生きてその目で見てみたかっただろうに。
「少し、置いていただいてもよろしおすか?」
「…好きにしろ。おまえは、おねね様の客人だ」
「あんじょうおおきに」
 葬儀にはたくさんの武将が来ていた。その中の誰が敵になり、誰が味方となるか。泣けないままで三成はそんなことを考えていた。はっきりとした態度をとっている者はまだ少ない。しかし何かにつけて隙を狙っている徳川家康などは、明らかに豊臣への義を追いやろうとしている。そういう目だ。
 幸村の言うとおり、死を隠すべきだったのか。
 冷静に考えればその通りかもしれない。その間に地盤を固め、たしかなものにする。そうして次代へと引き継いでいく。それが出来れば、家康の目など気にせずによかった。徳川家へなびこうとする者たちを、何もかもを疑心暗鬼にかられながら見つめる必要もなかった。
 ただ、そうできなかっただけだ。
 あれ以来、幸村とは話していない。
 顔もまともにあわせていない。葬儀に際してやってきた兼続とはいくらか話したが、幸村の話題にはならなかった。お互いがそれどころではなかったのだ。
 三成が、幸村の話題を避けていたところもある。
「この後はどうするつもりだ、三成」
 兼続の言葉に、三成は酷く疲れた様子で呟いた。

「戦になるな」

 無意識に呟くように。避けようもない。こうしていても感じる焦燥感。
 またあの嵐が来る。今度こそ、自分たちめがけて。
「三成、疲れているようだが大丈夫か?」
「…兼続」
「なんだ」
「死とは、どんなものだ?」
 その問いに、兼続は目を細めて三成を見つめた。
 今の三成にとってそれは、なにものにも変えがたい命題だ。わからない。幸村をあれほど強く縛り付ける死とはどんなものだ。みんなが笑った世を作りたいと言っていた秀吉の、望みも悲しく皆が泣く。
 死とはどういうものだ。死んだらどうなる。たとえば、自分が死んだら。
「そうだな、人は全て生きて死ぬ。どんなものなのかと問われても、私には難しくて答えられん。が…悲しいよ」
「…そうか…」
「生きているものは皆生まれて死んでいくわけだが。どういうわけか、死に対して感覚は麻痺せんな。こんな世であっても」
 死んだら悲しい。
 その感情はわかる。しかし幸村は?死に囚われているあの男は、どうだったのだろう。悲しかったか。苦しかったか。辛かったか。涙したのか。
 秀吉は、死ぬ時はどんな思いだっただろうか。何かを感じていただろうか。
 寂しかったか、悲しかったか。苦しんだのか。
 何故こんなに、辛いのか。
「三成、残された者は皆悲しいよ。それはおまえも同じだろう?」
 兼続の言葉に、俯いて答えられなかった。
 のこされたものはかなしい。
 ああ、そうだな。
「…あの方のつくる泰平の世の為、ここまできた。これからも、それはかわらない。泣いている暇など」
「そうか。まぁ、いいさ。泣くのは悲しい時だけではない」
 感情が極まった時涙が零れる。感情が極まった時、

 ああ。

 幸村が笑うのは、いつもそうだからか?
 死の淵を見て、麻痺しているのか?
 だから、何もかも拒否しようとするのか。
 自分のこの気持ちを、無理に受け入れてくれと思うわけではない。
 ただ、嫌なだけだ。無理をする姿も、幸村の口から零れる冷酷な言葉も、何もかも。
 戦になる。この手で自分が呼び込んだ。
 死なせてはいけない。
 死の淵から、引き剥がして、こちらを向かせて、本当に、心から笑ってほしい。
 秀吉のように懐は広くない。だから「みんなが」なんてことは言えない。そんな器でもない。ただ、一人の為に。

 幸村。


BACK  NEXT

メビウスリング状態でこじれ気味。