左近に呼び止められて、三成は不機嫌な顔をさらに歪めて振り返った。 「殿」 その顔を見て、左近がまた何か言おうとする。 忙しかった。天下が急激に不安定になっている。不穏な気配があちこちからしている。思えば三成を狙った賊は元々徳川方の忍だったのではないかとすら思う。考えれば辻褄の合うことはいくらでもある。 勢力が増大している徳川方と、今度会見をすることになっている。 とはいえ、そんなものは大した進展に運ぶことはないだろうと三成は踏んでいた。時間の無駄だ。話し合う前から、徳川方と話し合いは成されないことがわかる。遠まわしに語る言葉遊びの中から、真実とそうでないものをそぎ落とす作業の時間があるだけだ。 狸相手では話す言葉すら不自由だ。 おそらくはこの日の本の外の国のように、語る言葉が違うのだ。 「眉間の皺が増えておりますよ」 「そんなことを言うために呼び止めたのか、貴様」 「余裕を持つなんてのは、まぁ無理でしょうが。せめて綺麗な顔に皺を増やすのはやめていただきたい」 「おまえのそういう冗談が俺は嫌いだ」 「顔が綺麗だからなんだってんですか。殿の整った顔立ちなんてのは、冷たい印象しか与えませんよ。左近は綺麗なものは綺麗なまま愛でていたいだけです」 すっぱりと言い捨てて、左近はその場を後にした。左近にしたところで、余裕などあるわけがない。三成の仕事は日に日に増えていくのだし、それをうまくさばくのは左近の役割だ。 不機嫌を周囲にばら撒いて、今の三成ほど触らぬ神に祟りなしという言葉が当てはまることもない。 だから呼び止めて、わざわざ指摘したのだ。 三成にとってはそんなことは日常茶飯事だろうと思ったが、左近にああも言われるということは、自分は今制御不能なほどの不機嫌で己を覆っているのだろう。 「………最悪だ」 ぽつりと呟いた言葉は、誰にも聞かれるはずがなかった。「何が最悪だって?」 びくり、と肩を震わせて振り返れば、兼続が神妙な顔つきでそこにいた。 「兼続か…突然どうした」 「所用でな。で、話を戻そう。私の質問に答えてくれ」 今の独り言を、兼続に聞かれてしまったことは三成にとってはこれもまた最悪だった。兼続は真摯な人間だ。冗談かと思うようなことを本気で言う。 そして他人の言葉を決して聞き逃そうとしない。 どんな身分の者であろうと何かあればその言葉を聞くし、また聞き出そうとする。しかし聞いてほしくないことだってあるのだ。だが兼続にそれは通用しない。 なんとかそれらしいごまかしが聞けばいいが。 「忙しいというだけだ」 「忙しいというだけでは最悪とまでは思うまい?」 実際、忙しさで言えば兼続も三成も似たようなものだ。そして二人とも、その忙しさの中で己を見つける性質だ。忙しくても頼りにされていればそれだけで力の出る兼続と、忙しいのであればいっそ無感情に仕事に没頭する、それが出来て普通だと思っている三成と。 だから兼続の言葉は鋭かった。 「…左近に、眉間の皺が増えていると言われただけだ」 「うむ、たしかに増えているな。気持ちはわかるがそれはいかんぞ」 「こういう顔なのだと思え」 「難しいことを。おまえ、幸村などにはそんな顔しないだろうに」 その名前が出たことに、三成は思わず息を止めた。 今はとにかく聞きたくない名前だったのだ。 「私はその時の顔も知っている。いい顔をしているとな、慶次などと話していたこともある。知っているのだからそれは無理というものだ」 「…そんなことはない」 「おまえは自分の顔をちゃんと見ていないだろう?幸村と話している時は、なんとなく顔の筋肉あたりが緩んでいたりしないか?」 「…それは本気で言っているのか」 「当然だ」 そこまで自信満々に言い切られると、今度は三成から反論の言葉が消えうせた。なんということだ。思わず三成は頭を掻く。 二人がいるのは邸内の庭に面した廊下で、やはり忙しく歩いている者などが時々この二人の会談現場を見かけては会釈して通り過ぎる。 いつもなら、たとえばここに幸村が通りかかって、嬉しげに駆け寄ってくる。二人の名を呼びながら。 「おまえ、俺を…侮蔑するぞ」 「義に反したことでもしたか?」 「―――…した」 頷くまでに、三成は双眸を閉じて反芻した。 「そうか、では怒るかもしれぬな。しかし侮蔑はしないぞ。友として」 兼続は笑っている。話が終わる頃には、そんな笑顔も消えうせているだろう。そう思うと、妙に笑えた。 お世辞にも戦向きではない体格で、槍一つ身一つで飛び出して、前線を駆け抜けるような男を、組み敷いて、無理やりに自分の気持ちを押し付けて傷つけて、決して幸村から想いがかえってこないと知っているのに、まだ希望に縋ろうとして、うまくいかず苛々して、それどころでなくなっても、まだあの夜のことを思い出す。 こうして考えれば、なんと滑稽なことか。 馬鹿馬鹿しいほど愚かなことだ。 己の部屋に招きいれ、ほらすぐそこの廊下でだ、とそこまで語り終えると、三成は俯いたきり顔を上げられなかった。兼続は黙っている。 「そうか」 しばらく経ってから、ようやく兼続がそう呟いた。 「左近がわざわざ話を聞いてやってくれなどと頼むから、どんなものかと思えば」 「…なに?」 「おまえはいい家臣を持っているな。そうか、大変だったのだな」 何故こんな的外れなことばかり、口にしているのだろうか。 三成はぼんやりと、どこかが痛むのを感じていた。 しかし待っている言葉はいつまで経っても兼続の口からこぼれてこない。 「三成、おまえは本気なのだな」 「……」 「私も、幸村のことは気になっていた。時々酷く恐ろしい目をする。どうにかしてやりたいものだと思っていたが、三成がそれほど真剣に考えているのなら、安心だな」 「…ッ、意味がわからん!」 「なぁ、私は幸村のあの目は死を望む目ではないかと思うのだ」 「何を」 「一つ、賭けをしないか。もし今度の狸との会見で三成に危険が及んだ時には、幸村は必ずおまえの元へ走る。そして敵など全て切り捨てて、おまえを守ろうとするよ。その、徹底的な盲目状態は戦場では危険だと私は思う」 「…待て。兼続」 「なんだ?」 「何故俺に何も言わない」 「…言ってほしいのか?しかし残念ながら、言うべき言葉を私は持たない」 「……どういうことだ」 「三成、おまえはどうしようもないところもあるが、それだけ不器用な奴が見せた本音だろう?幸村に対して見せた、真実ではないのか?そう思うのは私がおまえの友だからかもしれんが」 「………」 「おまえと幸村の問題だ。私は首を挟む気はない」 兼続は真っ直ぐに三成を見据えてそう言った。こういう奴だからこそ、あの傾気者を受け入れ、幸村のことを考え、三成にそこまで言いきれるのかもしれない。上杉家では破格の待遇を受けているはずだ。 全てはこの気質によるものだ。 言う気はないのだけれども、今心から、三成は兼続と友でよかったと思っている。幸村への行為を、不義だと詰られれば心は軽くなるかもしれないと思った。毎夜あの時のことを思ってしまうのも、ふと気持ちが途切れた時に幸村を思い出すのも、これだけ忙しい時に、暇さえあれば幸村のことばかりで狂いそうなのも。 これが真っ直ぐに幸村に見せた気持ち。 何を他人に言われようとかわるわけがない。なかったことにはもう出来ない。気づいてしまったのだから、幸村がどれだけ嫌がっても、その気持ちだけはっきりぶつけてしまったのだから。 「…さて会見についてだが?大丈夫なのか」 「……狸のことなど考えている余裕はないな」 「幸村のことで忙しいか。天下より幸村とはおまえも随分な男だ」 笑いながら、兼続が立ち上がる。そういえば所用があってここにきたと言っていた。 この屋敷にわざわざ兼続を呼び出せるような人間は、今や三成と、それからあとは、ねねくらいのものか。 「おねね様のところか」 「ん、珍しいこともあるものだな」 頷くと、兼続は部屋を出ていった。出ていき際に、左近を大切になと言い置くのも忘れない。左近にせよ、兼続にせよ、三成本人が行き届かないせいか、自分の周りにはそういう機微に聡い人間ばかりが集まっている。 妙な気持ちだった。 そして兼続が言ったことを思い出す。もしも三成に何かあったら、危険が迫ったら、身を挺して守ろうとするだろう。 それはすでに、この屋敷の中で一度実証済みだ。ならば、二条城での会見でも同じだろう。 ずっと言っていた。 三成殿と兼続殿をお守りします、と。 あの誓いの時からそれは徹底している。幸村は自身を盾のように扱う。 ではその盾の内に、守るべき人間がいなかったら。 幸村はどうするのだろう。どうなるだろう。それこそ、本当に死を望むばかりか。生きようとはしないのか。留めるものがなくなって、ひたすらに望む先へ足を突っ込もうとするのか。 ―――幸村は、そういう生き方しかできないんですよ。重いですね。 左近が昔言っていたのはこういうことなのか。 しかし、その程度の重さならば三成は背負ってやりたい。 死ぬ気などない。秀吉が死に、今まさに天下泰平の均衡が崩れようとしている。振り返れば、豊臣の中でもたくさんの不穏な気配があり、一刻の猶予もない。 ならば、生き抜いて見せ付けてやればいいのではないか。 幸村に、生きるとはこうするのだと。 死ぬことばかり考えるなと。 もう二度と、そんな深淵など覗き込むな。そんな余裕など与えない。 それくらい。 抱きしめてやりたい。 やはり滑稽だった。天下より幸村か、と笑われるのもわかる。いつからこんな色惚けになったのだ。 三成は、腹に力を込めた。 相手は徳川の狸だ。どんな言いがかりがあるかもしれない。 心してかからなければならない。話はどうせまともに交わされないだろうけれど。 どうせならどこまでも滑稽に生きてやろう。
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