ねねとの話し合いを終えて、兼続が出てきた頃にはすっかり朝になっていた。東に昇る朝日が眩しくて、目を細める。つい先程までは時間も忘れて話し合いを続けていたので、太陽の眩しさに自分がどれほど疲労しているかを知る。 「どうだった、元気だったかい?」 呆けたように太陽を見つめていた兼続の死角から、のっそりと姿を現したのは慶次と松風だった。慶次はどうやらずっと待っていたようだ。待っていろとも言っていなかったのだが、松風とともに歓迎されて思わず苦笑する。まるで面白いことをかぎつけてきたようだ。 「…元気だと思うか?秀吉公が亡くなられたばかりだぞ、慶次」 「おっとそうだった。失言だ」 慶次が肩を竦める。松風は兼続に近寄って顔を近づけてきた。早く話せ、というように。 「慶次、数日後に三成と狸の会見があるのを知っているな?」 「ああ、戦の匂いがしている。知ってるぜ」 「残念だが私にもその匂いは感じられるな。私は一つ、考えている策があるのだ。聞いてくれぬか慶次」 「なんだい?」 慶次が楽しそうに唇を歪めた。それは兼続も同様だ。 「こんなことはあまり言いたくないが、私は今回戦になれば不義の輩が多く出るだろうと思う。秀吉公と三成・秀頼では人的魅力というものが足らん」 「厳しいねぇ」 「現実だからな。私は三成を過大評価はしない。かわりに過小評価もしない。だからこそ起こるだろうと思うのだ。これは仕方がない。しかしそうなると士気に関わる。人というのは不意打ちに弱いものだ。特に三成は、去る者追わずだろう?」 「ふむ。で、その来るべき未来に向けて、あんたはどうするつもりだい」 実際三成が秀吉の子である秀頼を擁しているこの現状に、すでにあちこちから不平や不満が出ている。それは慶次のような者にまで伝え聞けるほどだ。この大阪の地ではそれはいかほどのものか。いわばここは、吹き溜まりの中心地のような場所のはず。兼続の言う通り、三成には足りないものがある。 それは特に、人の心を掴む力というものだ。 上に立つ人間ならば、特に必要となる力でもある。 また三成よりも深刻なのは、秀吉の子の秀頼かもしれない。 秀吉という人間の、立身出世ぶりはいっそ化け物のようだった。あの上へ進むための力というものは、子の秀頼にはない。 元々何もないところから始まった秀吉と、何もかもが恵まれた状態にある秀頼とでは、餓えというものが違う。 そこに到達するためにがむしゃらになる心が足りない。 自然と、この戦ばかりの日々に在った者たちには物足りない存在となるのだ。 「私たちで、挟撃する」 「挟撃?」 「北で私が狸を挑発する。酷い言葉を並べ立て、不義であることを徹底的に追及する。そこまでされれば狸も腰を上げてくるはずだ。そして三成が西で挙兵、狸のいない間に全てを終わらせる」 「…成功するのかい、それは」 「策が必ず成るという保証はいつだってどこにもないものだ、慶次」 慶次は眉を顰めてその策について考える。では挑発に乗らなかった場合はどうするのだ。もしくは全てを上杉に傾けてきた時、その勢いを止められるのか。上杉だけで。北の有力な武将といえばあとは奥州の伊達であろうが、この伊達のことを兼続は心の底から毛嫌いしている。 ゆえに、彼らが手を結ぶ可能性はない。伊達はそもそもが秀吉に屈したのも力の前に。あの奥州の王は、力を得るために今度は徳川に与するだろう。助力は得られない。 しかしその不安を慶次が口にする前に、兼続が慶次の長い髪を引っ張ってきた。考えていた時だっただけに一瞬何が起こったのかわからずされるがままに腰をかがめる。気がつくと兼続が人の悪い笑みを浮かべていた。 「…どうした兼続、ずいぶん不義な顔してるねぇ」 「慶次、共犯者になってくれ」 「どういうこった」 「私はこれから一世一代の不義を起こす」 「焦らさねぇで教えてくれないかい」 その瞬間。 慶次はたぶん忘れられないだろう。陽の光に透かされて、兼続の言葉がまるで本当のことであるように、力を得たように思えた。 「謙信公は戦場では軍神と呼ばれていた。それは毘沙門天の力をその身に宿すことが出来たからでもある。見たことがなければ眉唾ものだと思われるだろうが、実際私は何度も見た。そして実はな、私は直々にその力を伝授されている。だからな」 何を言おうとしているのか、慶次にはさっぱりわからない。 ただ、兼続の表情が酷くいきいきとしていて、なのに人の悪そうな笑顔で、慶次は逆に戦場にいるような高揚感を感じていた。「私は、これから死人を呼び戻す」 三成たちが徳川と二条城での談合を交えている夜、幸村は一人、厩にいた。愛馬の毛並みを整え、機嫌を伺ってやれば、晴れぬ心を見透かしたのか、幸村に顔を摺り寄せてくる。それを困ったように微笑んで、また毛を梳いてやれば、気持ちよさそうに鼻をならした。 ざわついている。 気配がする。 戦の気配。血の臭い。それらが腐臭となって、幸村の鼻腔をくすぐる。 (お守りしなければ) 心臓が締め付けられるほどにそう思う。兼続も、三成も、全てを守らなければ。あの人々を守り、義の世をうちたてる。 振り返れば、死ぬはずだった死地を生き延び、ただのうのうと生きている。 今でも時折、思う。 槍を持つ意味。思えば武田にいた頃から、その終焉を見ていた時から、自分は何のために槍を握っていたのか。 人を殺すためか。生きるためか。義の世を作るためか。 どうしてどれもこれも、己の心を揺さぶらない? どうしてこんなに、何もかもが遠い? 槍を握って、戦場を駆け抜ける。何も考えなくていいあの瞬間が、好きだ。 何かを考えようとすると、途端に何を自分の立つ拠り所にすべきなのかがわからなくなる。だから、自分に与えられた何かに縋ろうとする。 今はだから、三成と兼続を守ることが自分に与えられた仕事だった。 そしてふと、自嘲気味に笑みがこぼれる。 自分は、なんと虚ろな人間なのか。 口で信念の槍だと吠えながら、その中身には何もない。 何もないから、何かを得ようとして足掻いている。地の底で、無様なほどに。信念の槍だと叫びながら、そこには何もなく、何もないことを知られぬ為に、二人を守ろうとする。 ただ盾であろうとするだけならば、言葉などいらないだろうに。 こんな自分を。 あの三成が。 好きだと言う。 そんな滑稽なことがあってたまるか。 それは一時の気の迷いだ。こんなにも何もない己を好きだとか、そんなことあってはならない。 三成ほどの者が、何故そんな気の迷いを起こしたものか。 胸の奥に、感じる疼きのような何かを、幸村は抑え込むように双眸を閉じた。 気のせいだ。 三成のことを考えると、いつもこの虚ろなはずの身体があちこち痛む。 だがそれこそ幸村にとっては偽物だ。 あってはならない。 痛みは痛みのまま、何の名前も冠さない。 それはそれ以上に何の意味もないもの。 「…みつなりど、の…っ」 だから、この感覚は間違っている。心が感じようとしているそれは、痛みであって、それ以上では、ない。絶対に。
「どうした、気分でも悪いのかい」 厩に響く軽快な声に、幸村の心臓が跳ねた。慌てて振り返れば慶次が松風を連れている。 「慶次殿、いつの間に」 「ああ、昨日な。兼続も来てるぜ」 「本当ですか」 兼続の名を聞いて、そういえば会見からだいぶ時か経っていることを思い出した。大丈夫だろうか。不安がよぎる。最近特に言葉を交わす機会が極端に減っている。そう思うと不安が膨れ上がるようだった。 「ああ、ところで顔色が悪いようだが?」 「何でもございません」 「なら、いいが。ところであの色男はまだ会見してるのかい?」 「…お帰りには、なっていないようですね」 「まずいねぇ。臭うぜ幸村」 慶次の言葉に、幸村は神妙な顔でうなずいた。 「―――…はい」 「幸村、あんたまだ何か迷ってるのかい?」 「慶次殿?」 「そういう目だ」 「……」 人の奥を見透かすような慶次の双眸に、幸村は何もいえなかった。 長篠で助けられて以来、どうしても幸村は慶次をまともに見られない。あの時あの瞬間の自分を知っているからか。 「そういや、友人てのはどうだ」 だから幸村は、俯いたまま答えた。 「…三成殿も、兼続殿も、立派な方々です」 「次の寄りかかる先はその二人、か?」 「……どういう意味です?」 「辛いねぇ」 「慶次殿!」 「怒るなよ」 「…ッ」 「忘れんな、幸村。俺があんたを助けた理由」 「…理由」 「俺ァ意味のないことをするのが好きだがね、あんたを助けた理由は一つだ。死んでねぇなら立ち上がれ」 慶次の言葉に幸村は眉を顰めた。前田慶次という人間が、ただひたすらに恐ろしい。大きすぎる。 「慶次、いるか!」 幸村の金縛りをといたのは、兼続の声だった。 「おう、どうした!」 「出るぞ。いくらなんでも帰りが遅い。幸村、おまえも兵を出せるか」 「準備は整えてあります」 「よし、いこう。先程嫌な話を聞いた。急ぐぞ」 「何かあったかい」 「三成をよく思わない輩が京に集結しているらしい」 幸村は、その言葉に目を剥いた。 頭の中、響くように思う。助けなければ。 「左近がいるから、そこらへんはある程度準備をしているはずだがな、ただの会見である手前、連れているのは大した武装もない者ばかりのはずだ。急ぐぞ」 「敵は、内から湧いて出る、か」 「まぁいいさ。わかりやすく動いてくれる敵には対処がしやすい」 「前向きだねぇ」 思わずといった様子で笑う慶次に、こたえる兼続はしごく真面目だ。 「本当に警戒すべきはあの狸どもよ。今回のことも、裏で煽動しているのは奴ではないか」 兼続と慶次の話を聞きながら、幸村は唇を噛んだ。 この二人には時流というものが見えている。やはりこの人たちを、死なせてはいけない。戦の終焉が見えている。その先に待つ、泰平の世に必要な人々だ。 己には、世界の流れなど見えない。 ただ見えているのは、死の匂いと血の流れる気配だけだ。戦をする為に生まれたようなものだ。 「幸村?」 「兼続殿、私が三成殿をお助けします」 「…ああ、頼む」 ちらりと見えた慶次の表情に、幸村は何もいえなかった。 苦い笑みをもらした顔。あれは自分がそうさせている。 寄りかかっている、わかっている。でもそれをどうにも出来ない。 長篠よりも昔の頃のように、戦をするのは主家の為、槍を振るうは天下の為、その頃のように、何の迷いもなく、ただ槍を握り戦い前に進むばかりの日々。 心の奥底で、自分はそれを望んでいる。 あの混沌の時代に戻ればいいと思っている。 人が多く死に、たとえば流れる川が赤く染め上がるような戦場を。 そういう場所でないと、生きられない。
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