天上の 13



「おう、ちょっといいかい」
 その声に振り返った三成は、いつも通りの不機嫌そうな眉間の皺を寄せていた。まったく恐ろしくわかりやすい男だ、と思う。
 慶次はこの男と兼続が親友なのをおかしく思った。お互いのない部分を補っているのか、面白いものだ。
「何の用だ」
「ちょいと話しておきたかったのさ。サシでね」
 この話には、左近もいらない。兼続もいらない。ましてや幸村など論外だ。
 ほとんど話す機会のないこの男は、秀吉を失った豊臣勢において、大将になるだろう男だった。話が常に、彼を中心にまわっている。
 しかし本人がそれを知っているかは知らない。
「勝算はあるかをまず聞いておこうか。どうだい」
「愚問だ。不義の輩に負ける事などありえぬ」
「それだ。その不義ってのはなんだ?何を指して不義だって言うんだい」
「秀吉様の天下統一はおまえも知っているだろう。それを成したのならば当然、その血を継ぐ方が天下を継ぐべきだ。家康如きがそれを奪おうとするのを、黙って見ていられるわけがない」
「なるほど、義ってのは意地ってわけかい?」
「貴様は」
 三成の声は酷く硬質だった。明らかに拒絶を含んだ声音だ。恐ろしく冷たい。ここまで己を消し去れない男も珍しい。敵も多かろう。敵が多いということは、それだけ彼の大将としての器が問われることになる。
 自由気侭にこの乱世を渡り歩いた。前田家を、そして織田から飛び出し、武田の滅亡を垣間見て、小田原での北条家を豊臣方としてみていた。兼続のいる上杉に居ついて、たくさんの武将たちに会った。
 どの家でも、結局は頂点に立つ者の魅力や資質で話が決まる。
「負けると思っているのか?その気持ちが、負けに追い込むのだとは思わんのか」
 恐ろしいほどの目で、三成は慶次を睨みあげている。
 まるで敵を前にしているようだ。もしかしたら、家康相手にしてもこうは酷い顔ではないかもしれない。もともと、あまり気に入られていない自覚はあったが。
「負けるとは思っちゃいねぇ。ただ、随分でかい博打を打つもんだと感心しているのさ」
「貴様ほどではない」
「俺?」
 どういう意味だい、と問おうとしたが三成の雰囲気がその問いを許さなかった。三成は全身で拒絶しながら、しかし慶次から逃げようとはしていない。
 面白い、と思った。
「義とは、すなわち心のありようだ。俺は死ぬ気などないし、負ける気もない。あの狸の天下など、見る気もない」
「…心のありよう、ね。そんな不確かなもんで、ついてきてくれる奴ってのはどんだけいるんだ?」
「順番を、間違えてはいないか?」
「順番?」
「貴様が、上杉に居ついたのはどういう理屈だ?そこに、理があったのか?ただの心のありようだろう。おまえの心に、問うたことがあるのか?それを理解するのが先だ」
「―――…成程ね」
 三成は、おまえの心にまず聞いてみろと言っている。
 だからそれは戦とは微妙にずれたところにあるのだと言うことは出来たが、三成の指摘は、慶次からすれば酷く面白いところを突いていた。
 兼続を見てこいつは面白いと思ったのは確かだ。傾気者から遠く離れたところにいるようなあの男が。
 しかしあんな奇策を思いつくのだから。
 それを自分が見越していたかは知らない。ただ、兼続に共犯者になれと言われて、笑って頷くほどに面白い男だった。面白いことを考える男だ。
 それを、三成は三成なりの視点で見抜いているということか。思ったよりは、周囲を見渡せているのか。
「俺には、…友が、いる。兼続に、幸村…それぞれが勝てば、おのずと勝利は見える」
 兼続と同じことを、三成は口にする。おそらくは幸村にも聞けば同じ返答をされるだろう。
「狸などに負けるわけがない」
「友、ねぇ」
 気のせいでなければ。
 三成の、幸村に対する感情はその箍をはずれている。踏み込むべきでない領域にまで達している。
「あんた、その友の為に何がしてやれる?」
「…言葉で言わねば、わからぬ奴ばかりか?」
 酷く憂鬱そうに、三成はそう言った。
 言わずに伝われば、それは良いことだろう。しかし、互いが他人同士なのだから、そんなものどうやっても不可能なのだ。わかったつもりになっているだけ。わかったつもりになって、知ったふりをして、そうやってひび割れていくのだ。絆とか、そういう不確かなものが。
「言葉で言うからわかるんだぜ。言わなきゃわからねぇ事は、この世の中にたくさんある。あんたの気持ちだって、言わなきゃ伝わらねぇ」
 慶次の言葉に、三成は俯いた。何か思うところがあったのか。あってくれればいい。兼続と違って、この男とは話す機会が少ない。そんな相手に対して命を張ってやれるほど、慶次は優しくはなかった。
 伝わってくればいい。とにかく今は、この話す機会の少ない男の心がわかるまでやる。
「…ずっと」
「……」
「聞きたかったことがある」
「なんだい」
「おまえは何故幸村を助けた」
 唐突な展開に、慶次は一瞬言葉を失った。
「生きる気があったからだ」
「…本当に、そう、見えたのか」
「人間は生きるか死ぬかの狭間で本音をもらすもんだ。幸村はあの時確かに地べたに這いつくばって、それでも生きようとしていた。だから助けた」
 圧倒的な力のみでその場を制するやり方を、好まなかったというのもある。
 武将である者が馬防柵の後ろでじっとしているのも、性にあわなかった。
 信長の、あの時の笑みはいまだに覚えている。
 もともと、ほの暗い目をした男ではあった。しかし、あの瞬間。
 その柵のずっと向こう、誰も立ち上がれずにいる泥の中、たった一人槍をとろうとしている男がいる。
 それが、真田幸村だとは知らずに助けた。誰でもよかったのだ。
「頼みがある」
 三成はじっと俯いている。
「なんだい」
「兼続をなんとしても守れ。何かあったら俺はおまえを許さん」
「任せときな。元からそのつもりだ」
 兼続の出した策は、あまりにも荒唐無稽だ。この広い日の本を、ひとつの戦場に見立てる、というと壮大でいかにもありそうな策に聞こえる。が、それは兵力が分散されるという意味でもある。徳川方も分散されるが、豊臣方も同じことだ。兵力を単純に計算すれば、数の上では今は勝っている。
 しかし不穏な動きは今もある。たとえばあの徳川との会見の夜半すぎ、三成を快く思わない者たちが京を駆けた。三成の、命を狙ったものだ。
 結局援軍の猛攻で三成は無事逃げおおせた。しかしあれでわかっているはずだ。三成が数える兵力は、あまりにも脆い。
 兼続と三成が、数の力に訴えるのではなく、心に訴える力を欲するのだとしたら、あまりにも矛盾していた。
 戦にあって、裏切りによる士気の低下は甚大な被害を及ぼす。
 恐怖は伝染する。
 死を前にして、何人がそれでも前へ進もうとするだろうか。
「あんたは、平気なのかい」
「あまり俺を馬鹿にするな、前田慶次」
 はっきりと不快をあらわにして、三成がさらに慶次を睨む。
「…なぁあんた、さっきなんで幸村のことを聞いた?」
 幸村の名に、三成は明らかに動揺した。聞かれて嫌なのならば、こんな時に幸村の名など出さなければいいものを。それとも、三成自身も慶次と話をしてみたかったということか。
「…聞いてみたかった。それだけだ」
「幸村のことが気になるのかい」
「貴様には関係ない」
 俯いて、三成はこちらを見ない。明らかにうろたえていて、いっそおかしなほどだった。本当に、わかりやすい。兼続が言っていた通りだ。本当に思っていることは結局態度に表れるから、あんなにわかりやすい奴もいない。そう言っていた。今まであまり話したことがなかったから、そんなものか?と疑問だったが。
「こんな時代だ。言いたいことは言っておくべきだぜ。誰に対してもな」
「うるさい奴だ。貴様は少し兼続の悪いところが伝染したか?」
「おう、そうかもしれんなぁ」
「だとしたら、大きなお世話だ。俺は常に、俺にできる範囲でやっている」
 鉄扇がかたい音をたてている。三成の手になじんだそれは、彼の武器であるとともに、彼があまり前線に立ち会わないことを意味している。話があわなくても当然か。そして三成が、あまり豊臣方の武将たちからよく思われていないのも仕方のないことか。
「俺ァ、言わずに終わって後悔するより、あたって砕けた方が好きだがね。あんたにとってそれは違うか」
「己の基準を他人に押し付けるな。自由に生きるのを良しとするなら他人にも干渉すべきではない。おまえのしようとしていることは、不義だろう?」
「おっと、そいつは困る」
「当座、俺も困る。おまえには兼続を守ってもらわねばならん」
 不義だと言われて慶次は思わず降参だ、というように笑った。その笑みに呼応するように、人の悪い笑みが三成からもこぼれる。
 お互い対して互いを良く思っていないが、当座とりあえずは利害の一致を見た、ということだ。
「いいねえあんた」
 三成の眼差しはまるで槍の切っ先のように尖っている。武器を持たない身でも、彼の武器そのものはまるでその眼光に宿るように。
 豊臣側に慶次がいる理由に、難しいことはない。上杉が気に入っている。兼続の人間性に目が離せずにいる。
 しかし今、何よりも。
 戦の本質をすり替えようとしている奴がいる。
 石田三成、彼は戦をその心に賭けている。
 だから、幸村みたいな奴に惚れるんだな、と妙に納得した。
 言ってやろうかと思ったが、追い出されても困るので言わずにおいた。



 同時刻、幸村のもとに兼続がやってきた。
「どうされました、もうお帰りでは…」
「ああ、戦の準備がある。その前に、少し話がしたくてな」
 兼続の笑顔は常に清々しい。生きる希望に満ちている。幸村にとって兼続は眩しいほど眩しい存在だった。いっそ憧れる。あの軍神のもと、おおいに学び吸収した。その自信が、彼からは溢れて見えるのだ。
「幸村、私は最近ある忍法を得た」
「は…!?」
「それはな、ありえぬほどの速さで行軍をするという忍法だ」
「…か、兼続殿?」
「それを幸村にだけは教えてやる」
「え…、は、はい」
 戸惑い気味に頷いて、幸村は困ったように兼続を見つめた。冗談を言っているのかとも思ったが、兼続は決してそうではないようだ。しかしどことなく、自分の好きなものを楽しみにとっておいているような、そんな子供っぽい笑顔にも見える。
 いったい、どっちなのだか。
 冗談めかして話し込む兼続の声に耳を傾けながら、兼続が「忍法だ」と言う行軍の話を聞く。
 しばらくして、それがあの秀吉が天下を取るきっかけとなった山崎の戦の、話であることを知る。
 大返し、だ。
 伝説のように語られる、秀吉といえばという風に、たくさんある逸話の中、特に豊臣方の家臣たちが口を揃えて誇らしげに語るものだった。本当に無理やりな行軍であったらしい。馬がつぶれるのもかまわず、そしてもともと馬の数だけは調達していたという。
「しかし何故、私にそのような」
「我らはこれからしばらく、別々の場所で戦を起こす。しかしその忍法さえあれば、負ける気がしないではないか。そうだろう?」
「…そうですね、そうかもしれません」
「実はな、左近に嫌味を言われたのだ」
 なんでもないことのように言ってのけた兼続は、その時のことを思い出して笑っていた。嫌味を言われたことに対して、さしてなんとも思っていないのか。やけに爽やかに笑う。
「…え」
「今は戦は避けられぬ。そうせねば天下がおさまらぬ。しかし私の策は無謀に過ぎると言うのだ。それで私は、こう言った」
 すう、と息を吸い込むと、その時のことを思い出したか姿勢を正し、まっすぐ前を見詰めて言い放つ。
「勝つための策は今からまだまだ出すぞ!」
「…それが、大返しですか?」
「そうだ!私も戦が終わったらすぐに向かうつもりだ。幸村もそうしてくれ」
「…はい、必ずや」
 大返し。それができるだけの時間があれば、三成や、兼続のところまでいけるのか。それすらも、結局は不確定な要素だ。だがそれをあえてやろうと言う。できるのか、その用意をした上で、幸村は上田城で示威篭城を行い、秀忠の足を止める。
 そんなことを考えていたからか、兼続からの次の問いが、酷く唐突に思えた。
「幸村、身体の方はもう大丈夫なのか?」
「はい、もうすっかり」
「そうか。…幸村、小田原でのことを覚えているか?」
「…はい」
「おまえが義だと言った時、私はとても嬉しかった。戦に義を唱える者より、数と力で訴える者の方が多かった。あの時、おまえがそう言ってくれてよかったと思っている」
「私は、あの時後悔していましたよ。…笑われる、と思いました」
 何を言っているのか、と自分がおかしかった。己で口にして言葉にして、音にした言葉があれほど自分の心を不安にさせたことも珍しい。
「しかし誰も笑わなかったな」
「三成殿は、わからないご様子でしたが」
「あいつは気持ちを言葉に表すことが下手だ。わからなかったのは、自分の心に燻っていた気持ちの名前というやつだ」
「そう、ですね」
「そうだ。だから嫌わんでやってくれよ」
「…何を突然」
「ん、いやな。最近あまり一緒にいないように思えたからな。おかげで三成の機嫌が悪い」
 たしかにあの徳川との会見以来、三成とはほとんど顔をあわせていない。忙しいというのもある。しかしあの時言われた言葉が、幸村の中で忘れられなくなっていたのだ。
―――言葉にせぬと不安か?
 あの時の三成の表情は、酷く冷たくて美しかった。
 しかしその言葉は、三成にこそ当てはまるようでもあった。
「お戯れを。三成殿がそのようなことはありますまい」
「幸村、おまえは三成が優しいと思うか?」
「え、はい。…そうですね」
「ではそのやさしい三成に、何故あんなに敵が多いと思う?」
「…それは…やはり、その」
「三成はな、他人を褒めることをあまりしない。あいつのあのお綺麗な顔で『武働き、ご苦労』なんて言われたら相当腹が立つ。いや一度試しに言ってもらったんだがな、恐ろしくはらわたの煮えくり返る思いをした」
「…兼続殿」
 話が妙な方向に脱線した気配に、思わず苦笑した。脱線したことは自分でもわかっているのか、まぁ聞け、と続ける。
「幸村には、そうは言わんだろう?あいつは何故か、おまえを駒とは思っていないんだ。すごいことだぞ幸村。誇れ!」
「え、ええっ」
 突然誇れと言われて、幸村はあわてた。たしかに三成は自分には酷く優しい。あろうことかこんな己を好きだと言う。それは誇ることなのか。
「おまえが、あいつの気持ちを形にするんだ。だからあいつはおまえに優しい。優しいというか甘いというか、もうあれは惚れているというべきだろうが」
「か、かねつぐどの」
「そうだろう?」
「…わ、私に、どうしろと言うのですか…」
「別に何かしろなどとは言わん。ただ、おまえにはたくさんのものがあるということを、忘れてほしくないのだ」
「たくさんの…」
「そうだ。たくさんのものがある。そう思うと、なんだか心の臓のあたりが暖かな気持ちにならないか?」
「…兼続殿…。その…三成殿に言われたのです。私は言葉に縛られていると。言葉にせぬと不安かと。こんな私を見ていたら、不安だと」
「そうか」
「私は、三成殿の気持ちを形になどしていません。私は、私の為に言うだけなのです」
「その言葉が誰かの心に響くならば、それはすばらしいことではないのか?」
「……私など、ただの」
 ただの、戦しかできぬ男です。そう言おうとしたが、それは兼続にとめられた。
「幸村、その言い方はよくない。私が悲しい」
「あ、申し訳ありませ…」
「幸村」
「はい」
「終わったら、酒を飲むか」
「…いいですね」
「楽しみだ」
「はい」
 幸村は、微笑みながら思う。
 この声が、言葉が、三成の心に言葉という形を作ったというのならば、彼の気持ちに決着をつけられるのも、また自分だということか。
 できるのか。そんなことが。
 自分の言葉で、他人の行く末を決めていいのか。
 義という言葉で、三成の中にあった言葉にならない感情が言葉を持った。
 その形で三成は今、戦をしようとしている。豊臣家への恩義も忘れて、天下を狙う男に真っ向から勝負を挑もうとしている。
(私は)
 耳の奥、鼓膜を振るわせるその中に、時折聞こえるあの音。それはおびただしい銃声と、そして人々の倒れる音、うめく声、悲鳴、悲鳴。
 あれらにかき消されて、たしかに昔は持っていた何かを見失い続けている。
(…戦おう)
 何のために?昔は武田家の為、武勲をあげ、幸村の信じる人の信じる道を、付き従っていた。何の迷いもなかった。
 あの頃、どう考えどんな風に自分は槍を握っただろうか。どうやって戦場を駆けただろうか。
 まだ、戦場に立つと感じる違和感。
 答えが出ていないからか、見失い続けているからか、でも、たとえばこの霧の中のような自分の心を掴むことができたなら。
(きっと、)
 駆けつけよう。三成のもとへ。

―――言葉にせぬと不安か?

 不安ですよ、三成殿。
 たとえばあなたが私に言った言葉が、どれほどこの身を刺していることか。
 今もまだこの胸に焼き付いている。

―――俺が死んだら、おまえはどうなるのだろうと。

 あなたは、酷い人だ。




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