天上の 7



 妙な感覚だった。
 あれだけ自分の中でせめぎあっていた感情が、今は何の音も立てずに静かだ。まるで世界に音がないように、何もなくなったように。

 三成はあれ以来普段通りだった。
 雑賀孫市はまだしばらく屋敷にいるようだったが、己の与えられる以上の政務に手を出せば、あれこれと見逃せずに抱え込み、今では寝食すら忘れるほどの働きぶりだった。だから、孫市とはあれ以来会っていない。
 そして幸村とも話していなかった。顔すら見ていない。
 左近と顔を合わせるたびに、何か苦言を呈しているようではあった。
 しかしそういった言葉は、三成の心の片隅にもひっかからなかった。
 左近からすればそれは体のいい逃げに他ならない。三成と幸村とで何があったかなんてあまり考えたくもなかったが。
「あんたの仕える殿ってのは、面倒な奴だな」
「…これは、雑賀殿」
 気がつくと背後に孫市が立っていた。気配を感じなかったことに一瞬首筋が粟立ったが、それを悟られないように左近は努めて冷静な顔で彼を見上げる。
「俺に、なんとか出来るかい?」
「秀吉公に謝罪なら、あんたにも出来ることじゃあないですか」
 孫市の表情もどこかしら暗い。孫市と秀吉は旧知の友であることは知らされている。まだ秀吉が信長についていた頃に、雑賀攻めがあって、里が焼き討ちにあったことも。
 それ以来ほとんどまともに顔もあわせなかったという。
「はは、きついねぇ…」
「他に何が出来るんですかね。今回の件、あんたは無関係なら頭を下げるべき相手ってのは限定されるもんです」
 三成に詰問された際、孫市がどう言ったかについては、その場にいなかったねねから聞いていた。話は外で聞いていたという。三成があんな顔をしているのははじめてだったとか。ねねは三成を子供の頃から知っているから、その言葉に嘘偽りはないだろう。そして心底驚いているようだった。
 大切な友だから、と言うには多少常軌を逸している。
 色恋には聡いからこそ左近は、こういうことになるだろうことも予想していた。今回のことはたまたま孫市や、天下の動向が多少絡んだが、そうでなくとも幸村と三成についてはこうなっただろう。
 そう考えていると、孫市が俯いて呟いた。
「あいつがなぁ、皆が笑って暮らせる世、って言うんだ」
「……」
「俺もそいつは歓迎する。ただ、な。秀吉が天下とって、戦のない世が来たところで、結局何もかわらねぇよ」
「手をこまねいているだけで、自分の望む世が来るなら俺も堂々、昼寝にでも興じましょうが。それで、何を仰りたいのでしょうか」
「…俺は知ってたし、話も聞いてた。ただし手助けもしない。だから関係ない」
「…なるほど、子供騙しな話ですな」
「秀吉をな、狙うと思ってたよ。まさかなぁ、三成とは思わなかった。どうも俺は世界が狭い」
「…あんたは言い訳ばっかりですな」
「………」
 世界が狭いと言って、己が生きる糧にしている武器の、照準を合わせるような動作をしてみせる。なるほどそこから見つめる世界は狭いだろう。
 しかしだからなんだというのか。左近は傭兵稼業についたことがないからわからない。金さえ貰えば根無し草、というのは左近にはよくわからない世界だった。
「うちの殿は、対人関係に大変難有りですがね。これだけは言えます。言い訳は見苦しいと知っているお人だ」
「…悪かった」
 そう言うと、孫市は音もなく立ち上がった。ああそうか、とそこでようやく気がついた。何かに似ていると思っていたのだ。それがわかった。目が似ている。幸村の、何か一つ、亡くしたような目だ。あれと同じだ。
「秀吉公は自室におられますよ。なんならご案内してさしあげますが?」
 追い討ちをかけるように言うと、孫市はひらひらと手を振って、一人のろのろと廊下を歩いていく。一応、秀吉の居室を目指す格好だ。あの足取りではいつたどり着くかも知れたものではないが。
 その後ろ姿を眺めて、左近は一つ息を吐いた。
 たしかに秀吉の言う「みんなが笑って暮らせる世」は、難しい話だ。
 戦乱が終わって、やれ平和になったと思えば、今度は別の問題が山積みだ。
 厄介事なんてのは、一つ解決すれば二つくらいやってくるものだ。種類も度合いも様々で、戦のように勝ち負けのはっきりしないものも多い。
(…なんだかね)
 幸村と、種類は違えどその目に宿す昏さは同じだ。どちらも共通しているのは、戦で死ねなかった為に、死に場所を探しているような。
 不毛なことこの上ない。
 少なくとも、それを望まない相手は周囲にいくらでもいる。でもあの深い闇を宿すような目をした人間は、構わず自滅する。
 死臭がする。


 その日、陽もだいぶ傾いてきた頃、幸村にあてがわれた部屋を訪れる人がいた。幸村は姿勢を正して迎える。ねねだった。
「幸村、もう大丈夫かい?」
「はい。ご心配をお掛けして誠に…」
「うん、大丈夫ならいいの。三成も気にしてたからね」
「………」
 黙りこむ幸村をちらりと見て、ねねは少し困ったように口を開いた。そっと幸村の腕をとる。ねねの掌は温かくて、柔らかい。
「痛かったかい?」
「いいえ、もう大丈夫ですので…」
「治ったばっかりでね、申し訳ないんだけど。一つ頼みを聞いてもらえないかい?」
「なんでしょうか」
「三成がね…今すごく頑張ってるんだよ。いつも以上に!幸村、休むように言ってくれないかな?」
「…私如きの言葉を、聞いていただけるとは…思えません、が」
「そんなことないよ。三成がね、あんなに動揺してるのを見るの、はじめてだった。とっても大切なんだよ。だからね、幸村にお願いしたいの」
 ねねの言葉は酷く温かい。他人を気遣う人の、優しい言葉だ。
 そんな風に、三成のことを考えてくれる人がいる。三成は恵まれた人だ。
「…わかりました。お会いして、話をしてみます」
「うん!ありがとう幸村!」
「いえ、元はといえば私がしくじったのが原因ですので」
「幸村、あれはしくじったとは言わないんだよ。幸村は三成を助けてくれただろう?おかげで三成はあんなに元気だもの。ありがとうね」
「……そんな」
 幸村はどういえばいいのかわからなくなったようで、言葉を失いがちに、口をもごもごと動かした後、また黙り込んだ。
 ねねにとって三成は自分の子供のような存在で、そして幸村はその子供にほとんどはじめて、出来た親友だ。三成にとってはとても大切な存在なのだ。
 ただ少し、三成の思いつめた顔が、まるでこの世の終わりみたいな顔をしていたので気になったのだ。
 だからこそ、三成が知れば嫌がるだろうけれども、幸村を選んで彼の元へ行くよう頼んだ。
 今の三成はおかしい。それは秀吉も思っている。
 政務に打ち込むことは悪いことではない。しかしほとんど、休むことを忘れたような働きぶりは、見ていて痛々しいほどだった。何が彼をそう動かしているのか知らない。
 生きずらい子だと思う。そんな風では息苦しくて、大変だろうに。
 昨夜、秀吉がねねの膝枕でぽつりと呟いた。
―――難しいのぅ、ねね。
 それしか言わなかったが、言いたいことは痛いほどわかる。
 あれもこれも、思う通りにいかなくて、気持ちだけが先走る。秀吉も疲れていた。



 幸村が三成の部屋へ訪れたのは夜も更けてからだった。
「…三成殿」
 声をかけると、中に人の気配がした。しかし入れとも言われない。どうしたものか、と幸村は困ったように襖を見つめた。がむしゃらに仕事をしているという話だったから、こんな刻限になってもまだ何かを抱え込んでいるのかもしれない。そこで返答を待たずに襖を開けてしまうことも出来たが、何故だかいろいろなことが気になって、幸村はそうはしなかった。
 三成からの言葉を待つ。しかし一向に三成から答えは返ってこなかった。
 おそらく怒らせてしまったのだ。
 襖一枚隔てた向こうにいる三成のことを考える。
 仕込みの毒矢にやられて昏倒するという無様を見せてしまった。わざわざ刺客が来ることを知っていたにも関わらず、あまりにも不甲斐ない。
 もう少しうまく立ち回ることが出来なかったのかと思う。たとえば左近ならばどうしたか、おそらく彼は、警備を厳重にしてそもそもの侵入を防いだはずだ。三成が知っていたにしても、同じようにしただろう。
 しかし幸村はそうしなかった。刺客が来ることを知って、ただ守ろうと必死だった。
(そう、必死だった。…手柄を独占するために)
 今にして思えば。
 そういう浅はかな思惑がなかったと、言い切れるだろうか。
 あの場では、それを告げるべきだった。一人でどうにかなるものではない。
 冷静に考えればそういう結論にたどり着く。
 役に立ちたかった。三成の役に立って、そして。
 幸村にとって誰かの役に立つことはそのまま生きる支えだった。
 戦乱の世が終止符を打たれようとしている今、槍を握り武勇で知られた幸村にとっては、たった一人、時代の流れについていけずにいるようないいようのない不安が波のように押し寄せる。
 おそらくは誰に言ってもわかってもらえない。
 その上、まるで秀吉の天下統一を厭うように聞こえる。こんな自分本意なことしか考えられない己に、三成の気持ちにこたえられるはずがなかった。
 あまりにも自分は醜い。
 考えれば考えるほど、自己嫌悪で押し潰されそうだった。
 こういうところを、三成は何も知らない。あの人は潔癖な人だ。醜い打算も跳ね除けていく。
 幸村にとって三成はそういう人だった。
 はじめて会った時からそう感じていた。小田原でお互い名乗りあった時、この人たちを守ろう、と思うと同時にこの人たちに自分の醜い部分など見せられない、と思った。
 いまだ居室にこもる三成から、反応はない。
 幸村はいたたまれずに立ち上がりかけた。しかしねねの顔を思い出す。
 心底、三成を心配している目だった。無碍には出来ない。
「…三成殿、幸村です。…いらっしゃいますか」
 力なく問い掛ける。部屋の中からする僅かな気配が、止まった。
 顔を見たら、まず謝ろう。
 手柄を独り占めしようと、誰にも告げることなく一人で対処しようとした浅はか。そしてそのことで三成を傷つけたことも。
 言えるだろうか。とても不安だった。しかし言わなければ、と思う。
「…三成殿、ねね様が、大変心配されておりましたよ。きちんとお休みになりませんと…」
 届いているだろうか。不安になる。襖一枚隔てて、三成が酷く遠いような気がした。
 中から、三成が出てくる気配はなかった。また、部屋に入ることを許される気配もない。
「………それから、三成殿。このたびは、申し訳ございませんでした。…私の、浅はかで」
 やはり三成から応えはない。相槌を打つことすら厭われているのだろうか。
「私は…三成殿を守りたくて、冷静に判断できませんでした」
 自分の紡ぐ言葉の不器用さに、幸村は酷く困っていた。
 なんでこんなに言葉とは不自由なものなのだろうか。かといって言葉以外で、伝えられる手段も持たない。幸村は必死だった。必死に、言葉を紡ぐ。
「ですから、三成殿…本当に、申し訳ありませんでした」
 もうそれ以上の言葉が見つからなかった。かえらない言葉を待って、幸村はじっと動かない。
 そうしていると、たくさんの言葉が脳裏をよぎる。
 左近の言葉。それではどれだけやっても満足できない。そうかもしれない。いやそうだろう。
 しかしどうしようもなかった。幸村は名を交し合い己の武器を交わした時、三成とそして兼続を守ろうと決めた。今幸村を突き動かすのはそこから始まる思いだけだ。
 ねねの言葉。しくじったとは言わないんだよ。でも己の行動が、三成に影を落としている。
 そして、三成の言葉。
 おまえのせいだ
 そう言われた意味を、考えると幸村の中で何かが熱を持つような錯覚がある。ただそれは、じくじくとした痛みを伴うようなものだった。
 三成が自分に口付けたことも。
 自分の行動が、三成をそう錯覚させた。だから幸村は受け入れる気はない。
「…それでは…くれぐれも、御体をご自愛くださ…」
 そう言って、その場を去ろうとした瞬間だった。
 突然視界のものが一斉に動いたような感覚があった。襖が音もなく開き、そこに三成が立っていた。突然のことに、とっさに身動きが出来ず、幸村はゆるゆると顔を上げる。
「…幸村」
「み、三成殿…」
「………誰に言われて、来た?」
 三成は幽鬼のような目をしていた。左近がよく言うように、三成の顔は整って美しい。
 それがさらに、三成を幽鬼のように見せていて、幸村は一瞬息を呑んだ。世の中には、こういう人もいるのだ。
「…その、」
「おねね様か」
「……」
 黙り込む幸村に、三成はふと微笑んだ。立ち尽くすように所在なげだった三成が、幸村の正面に、膝をつく。幸村の至近距離に顔が見えた。口付けられた時のことを思い出して、一瞬身が固まる。
 それに気づいているのかいないのか、三成はそのまましばらく言葉もなく幸村を見つめていた。
 それから、ゆっくりと口を開く。
「…やはり、好きだ」
「………」
 そう独り言のように呟くと、その手で幸村を抱きすくめた。抵抗できずに幸村はじっとしている。
 その言葉を呟いた時の三成の、表情があまりにも切なくて、他人事のように感じていた。
 この人に想われたら、幸せではないか、と。
 ぬくもりが伝わってくる。幸村の肩に顔を埋めて、腕に力を込める三成に、妙に泣きたい気分にさせられた。
「幸村、俺はずっと考えていた。…一時の、気の迷いだと言ったな。しかし、そんなはずはない」
「………」
 寝食もまともにとらず、政務に没頭し、そうしながら考えていたというのだろうか。
「本当は、考えたくなどなかったのだ。しかしどうしても幸村のことを考える。幸村。おまえに口付けて、肌に触れたことをだ」
 言われて、幸村も思い出す。やはり身体の芯が熱を持つような感覚があった。
 今きっと、自分は恥ずかしいほど頬を赤らめているだろう。三成が肩に顔をうずめているから、見られることはないだろうが、見られることが怖い。
「ずっと、ずっとだ。本当に、気が狂うかと思うほどだ!眠れば夢を見る。おまえを組み敷いているような夢だ。そんな俺が、この気持ちが、気の迷いのはずがない…っ」
「…三成殿」
 三成に抱きしめられて、ぬくもりが伝わってくる。それは三成にもそうだろう。抱きしめて、幸村の熱を感じているはずだ。
「私は…三成殿に何が出来るのでしょうか」
「幸村?」
「私はただ、三成殿を守るとそればかり考えて、それしか出来ない。いやそれもまともに出来ない。三成殿を、こうして惑わすばかりでしょうか」
 幸村の言葉は語尾が震えていた。三成が自分を一途に求めてくることに、どう反応すべきかわからない。ただ熱が体の中でくゆっていて、それがちらちらと閃いては幸村を動かしていた。
 どうしてこんな風に泣きたいのだろう。
 自分の思いは、三成のものと同じだろうか。
 三成の思いは、自分と同じなのか。
「私も、おかしいのですか三成殿」
「…幸村」
 わからない。この思いはあまりにも澱んでいて三成のものと同じに思えない。三成はそれを知らない。それを知ったら、三成はどう思うのか。
 それを曝け出す覚悟など、あるのか。

 無理だ。

 満足なんて、出来ないのだ。
 左近の言うとおり。
 何をしても満たされない。何を求められても満たされない。誰が相手でも、この心のどこかにぽっかり空いた、虚は取り除けない。
 誰かに埋めてもらいたいと思いながら、それを求めながら、常にそれ以上を欲しがる。
 この手はいつも、何もない空へ手を伸ばす。
 それは、天上の紺を掴もうとするように、なくしたものを欲しがるように。決して、手に入らないものを望んで泣く子供のように。
 無理だ。駄目だ。誰もこの虚には手が出せない。出させない。誰もここには入れない。
 幸村の中で、その結論は変わらない。
 かえられないのだ。


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言い忘れていましたがこの話での孫市と秀吉は親友であってそれ以上ではありませんです。