孫市がふと顔を上げた。それはその場にいた全員がそうだった。 明らかな敵意の気配。 雑賀孫市が訪れて、それに呼応するように敵が屋敷に侵入した、というならばそれは出来すぎな話だった。不穏な空気に、その場にいた誰もが緊張している。 秀吉は酒を飲み干して、しかし何も言わない。ねねも、孫市も何も言わなかった。 「…酒が、足りませんな。しばしお待ちを」 沈黙を破ったのは左近だった。ごく自然にそう言って、その場を辞した。 ねねがそれにあわせて、口を開く。 「つまむものも足りないんじゃないかい。ねぇおまえさま」 「あぁ、そうじゃな。孫市、ねねの手料理を食わせてやるぞ」 「噂のかい?そいつは嬉しいね。勝利の女神の手料理なんて、そうそう味わえないもんだ」 ごく自然に聞こえる会話だったが、それは決して何もない会話ではなかった。ごく自然に友人を招きいれて、酒を飲み、妻が何かを用意する、というものではない。 左近とともに下がったねねが、襖を静かに閉めると、孫市は遠い目をして呟いた。 「…やはり来るべきじゃなかったなぁ」 「何を言うんじゃ、孫市」 「…屋敷の者に何かあったら、俺はおまえの言う通りにしよう」 苦虫を噛み潰したような顔で、秀吉は己の盃を眺めた。 馬鹿なことを、と思うが言うべき言葉が見つからなかった。 孫市の目からはまだ闇は祓えない。皆が笑って暮らせる世、実現の難しさばかりが、身に染みた。立身出世だなどと他人からは妬み半分誉めそやされて、結果はこんなものか。 左近とねねは会話もなく走った。敵の気配はすでに消えている。逃げられたのか誰かが仕留めたのか、しかし二人とも、戦場に立ったことのある人間特有の嫌な勘が働いている。 「三成!」 先頭に立って走っていたねねが三成の姿を見つけて声を上げた。 三成は振り返らない。彼に抱きかかえられるようにして、幸村がいた。一瞬二人の血の気が下がる。 「三成、どうしたの。大丈夫かい!幸村は…!?」 ぐったりとしている幸村から、血の気は失われている。 それと同じように、三成もまた顔の色が酷く悪かった。 幸村の二の腕のあたり、妙にどす黒く腫れている皮膚を見て、ねねも左近も何があったのか大体理解した。 おそらく敵は忍びで、三成を狙った。三成は秀吉の子飼いの将。そしてあらゆる戦で内に外に活躍してきた。秀吉の首を獲るのは難しくても、手足とされているような者たちを亡き者にすることは出来る。 そしてそれを、たぶん幸村が防いだ。 チ、と舌打ちしたのは左近だった。まさか孫市の手のものではないだろうが、可能性がないとは言いがたい。たとえそうでないにせよ、幸村がもしも死ぬようなことになった場合、孫市の立場は微妙だ。 その上、それを考えることが出来なかった己にも嫌気がさす。 「殿」 左近は三成の肩を掴み、無理やりに揺さぶった。ねねの声にも耳を貸さずにいる。平時ではありえない。 「殿!聞こえますか」 声を荒げると、ようやく三成が反応した。ぎこちなく左近を見る。 「…体温が」 「わかりました。殿はご無事ですね」 「…俺など…どうでもいい。幸村が、毒は吸い出したはずだ…!」 「幸村が身を挺して守ったのですから、どうでもいいなどと言わぬことです。殿、すぐに手配します。幸村を横にしてやりましょう」 「…あ、あぁ。す、すまぬ左近…」 ようやく左近の言うことを理解する程度に考える力が戻ってきたらしい三成は、よろよろと幸村を抱えて立ち上がる。ねねが先導して部屋に連れていくのを見て、左近はすぐに踵を返した。 嫌な予感というのは当たるものだ。廊下を渡る足音も荒々しく、左近が歩く。その先、人気のない突き当たりの場所に、見慣れぬ姿を見て眉を顰めた。女だ。 「…おい、お嬢ちゃん。今こんなところにいると危ないぜ」 「知ってるよ。これ、幸村様に渡してほしいだけ」 女はそう言うと左近めがけて何かの入った巾着を放り投げる。しっかり受け止めて、訝しむように中を確認すると、丸薬のようなものがあった。 この展開で、出来すぎではないか。 「―――毒ではないという保証はあるのかい?」 「にゃはは。ほんっとつまんないなぁここ!幸村様はどうしてこんなところにいるのかなー?お館様はどうしてあんたを重宝したのかな」 「おまえ…武田の」 「じゃあよろしくねっ」 女はそれだけ言うと素早く跳躍して木々を伝い、気がつけばすでに屋敷の外へ逃げていた。左近は手にした丸薬を見つめてしばし考える。武田の頃の話だ。あれから今まで、ほとんど激動の日々といっていい。 あの口調から、彼女は幸村の手の者だろう。しかしよく知らなかった。 その頃、幸村とはあまり親しくなかった。だから幸村の配下についてもよく知らない。左近は女の言葉を考えた。あの動きから、女は忍びだ。 もし信玄だったら、あの時女の名を呼んだのかもしれない。あの人は物事の全てを見通す目を持っていた。だから、おそらくどんなに下の者でも、決して間違えず、名を呼べる。 そういう人だった。 左近は僅かに後悔する。それだけの人についていて、学んだものは軍略だけだったか。いや、それ以上のものを、もっと貪欲に吸収したはずだった。 しかし、それが生かされていないと、あの女はそう言ったも同然だった。 「…かないませんなぁ」 思えば、幸村とは武田の頃の話をしたことがない。幸村と話す機会自体がほとんどないのだが、それだけではない。わざとそういう機会を設けなかった。 過去は過去。そう思って口にしないようにしていたが、それではいけなかったかもしれない。 「……まったく、でかすぎますよ。甲斐の虎は」 そして、左近はまた荒々しく元来た廊下を走った。 毒だと疑う気はもうなかった。
幸村を布団の上に寝かせる。よく見れば顔色も悪く、吹き矢の掠った二の腕の部分の肌が、嫌な色をしていた。しかもそれが低い熱を持って、腫れてきている。 「…三成、大丈夫だよ。左近が今…」 「……」 ねねの言葉に、どう返せばいいかわからなかった。頭の中では、その言葉を信じたい気持ちと、しかしそんな楽観的なものの考えではどうしようもないことも、三成は感じていた。 幸村は、ちゃんと信じてくれただろうか。必死に紡いだ言葉の、どれだけを信じてくれただろう。 なおも、ねねは何かを喋っている。おそらくは三成を励ますような言葉。そして楽観的な話。信じたくなって、その言葉に縋りたくなるようなものだろう。しかし今の三成にそれは届かなかった。 それに気づいたのか、ねねが何かを言って部屋から出ていった。 他の誰かの声が、言葉として認識出来ない。 そこまでか。何でも計算して、事を運ぼうとする三成にとって、これははじめての事態だった。ここまで己を制御できないのははじめてだ。 どうすればいいかわからない。 「……幸村」 ゆきむら。 なんでそこまでしたのか。知っていて自ら危険に飛び込むのか。知っていたのなら、それを知らせればよかったではないか。そうすれば、こんな目に遭うことはなかったはずだ。その上、役に立たないと己を卑下することもない。 「幸村…」 幸村にかかると、全てが計算や思惑から外れていく。 予想より大きな戦果。予想したより畏れず進む兵士。そして何よりも、自分の心が一番、計算も思惑も外れて、幸村の存在に持っていかれそうになっている。 何故幸村なのか?そんなこと知るものか。男なのに?そんなこと、幸村の存在の前にはたいした意味もない。なんだっていい。幸村が、生きていてこちらを見て息をして、ただ自然に話す。笑う。悲しむ。そういう一つ一つを、ただ見てみたい。それだけだ。 今まで何度も考えた問答に、決してはっきりした答えは出ない。 しかしもう、答えを出す必要はなかった。こんなにもはっきりしている。幸村に対する昏い感情も、ただ生きてほしいと思う気持ちも、全て幸村から始まっている。 「…幸村、好きだ」 聞こえないとわかっていて、それでも勝手に想いを告げていた。 言えるだろうか。これを、幸村の目を見て。告げられるだろうか。 ただこれだけは知っている。 何も告げずにいるのは嫌だ。 「…目を醒ませ、幸村…」 これではまるで小さな子供のようだ。 たいせつなものを、失いたくないと泣いている子供のようだ。 大切なものをあげるから、ここにいてと泣いている。 心一つ、この心はもう幸村のものだ。 だから目を醒まして。
「大丈夫ですよ、殿」 「…左近」 「これを飲ませてください。たぶん目を醒まします。それと、これ。そこでいただきましたよ。殿に、だそうです」 いつの間にそこにいたのか、左近が幸村の寝顔を覗き込んでいた。左近が渡してきたのは、いかにも苦そうな丸薬と、それから握り飯だった。この形は見覚えがある。小さな頃から目にしていたから、見覚えがあって当然だった。ねねの手作り。しかしまだ食べる気はしなかった。 意識のない幸村に薬を飲み込ませるのは、存外に難しいことだった。しかしどうにかうまく嚥下させると、左近が一つ息をつく。 「…本当に、大丈夫なのか」 「飲ませた後に言わんでくださいよ。ま、大丈夫でしょう。武田の頃、幸村の元にいた忍びの薬です」 「…武田の」 「だからあとは、幸村の生命力勝負ってところですかね。まぁ、そこらへんは大丈夫だと思うんですが」 時折、極端に普段の生命力のナリを潜めることはあっても、幸村は基本的に生命力に溢れている、と左近は思っている。若さゆえのものかは知らない。 この男は死ぬのならば戦でだろう。畳の上で死ぬようなこともないだろうし、こんなところで終わる男とも思えない。 武田の頃にはそんなこと考えてもいなかったが、今ならばそう思える。 「…左近、俺は」 「ほら、少し顔色もよくなってきたように見えませんか。安心して、その握り飯食ってください」 「…すまん」 「さっきからずいぶん素直じゃないですか。ずいぶんと幸村に追い詰められたものですな」 「……何を言う」 「やはり左近の言うとおりでしたか、殿」 「………何」 「殿が、幸村をどう思おうが、それは左近には関係ありませんので。ただね、殿がそんな風に追い詰められては困るんですよ。あんたは大殿の意志を継いでいく人だ。常に冷静であらねばならないんですから」 「……俺が、幸村に追い詰められているだと?」 追い詰められている、という言葉に三成が酷く反応した。図星だったのだろうが、三成にとってはそれを自覚しているとは思えない。三成はいつも自分の感情すら理解できずにいて、今もきっと何に怒りを覚えているのか理解できていないだろう。 「違いますかね」 「そんなこと、あるものか」 「色恋は身を滅ぼすってね。ま、あまり難しく考えないでくださいよ」 「左近、貴様…俺が、負けると思っているのか」 「何にですか、殿」 「俺が、幸村に懸想しているから駄目になるとでも言うのか。俺が」 「今、十分駄目じゃないですか。殿、ご自分の顔の色を見てみなさい。幸村より悪い。血走った眼をしていて、鬼のようですよ」 実際三成の形相は恐ろしかった。ただでさえ際立って整った顔立ちが、こういう時さらに引き立つ。本当に、鬼のようにも見えた。 しかしそんなことで左近がひくわけもない。 「幸村は俺を庇ったのだ。その幸村が死ぬかもしれぬという時に、いつものように出来るものか!」 「殿、ではその醜態を敵に晒しなさい。幸村の為ならば敵に笑われてもいいということなのでしょうから、そうすればよろしい」 「何を」 「…敵は逃したのでしょう。こちらも警戒しますから、すぐに来ることはないでしょうが、それでもないとは言えないのです。左近は今、雑賀孫市に話を聞くべきだと考えます。殿は如何ですか。何か知っているのであれば、吐かせるべきです」 「わかっている」 「殿、冷静に、ですよ。出来ますか。今の殿に」 「あまり俺をなめるなよ、左近」 「期待しておりますよ」 人の悪い笑みを浮かべて、左近はすぐにその場を辞した。これ以上いては三成をただ刺激するばかりだ。左近にしてみても、いわば計算外に近いことだ。石田三成が、真田幸村に懸想するなどと。 それ自体を別段どうと言うつもりはない。ただあまりにも無様な様子に、さすがに不安になった。これでは幸村がもし合戦で死んだ時、どうなるかわかったものではない。幸村は常に戦場の先駆けとして命を曝している。 それを、わかっているのか。 臆病になられては困るのだ。幸村という手駒を、効果的に使うことを恐れ出してからでは遅い。無論、幸村を人間として見るなと言っているのではない。将棋の駒として見ろと言うのではないのだ。ただ冷静に分析できる力を残していてもらわなければ。 二十万石、三成からいただいている身として、言わなければならなかった、と思っている。
面倒でないことなど一つもないが、面倒なことになっている、と左近は感じた。
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