開け放した襖は思った以上に軽快な音をたてた。 秀吉と孫市がその部屋におり、それ以上はいなかった。ねねも、どうやら戻っていないようだ。 孫市は薄く笑っていた。秀吉は困ったように三成を見上げていた。 「雑賀孫市、聞きたいことがある。正直に答えろ」 硬い声音で尋問した。鉄扇はたたんだまま、手の中にある。 三成の尋常でない怒りを感じて秀吉は宥めるように声をかけてくる。 「三成、少し落ち着け、な」 「秀吉様、黙っていただけますか」 「三成…」 幸村のことで頭に血が昇っているだろう三成は、今冷たい目で二人を見下ろしている。無礼であることは承知の上だ。普段ならばそんなことはしない。 「先だって、俺を狙った忍びが来た。おかげで、俺の友が今苦しんでいる。一つ聞く。雑賀孫市、貴様の手引きか」 「怖い家臣だな、秀吉」 「…孫市」 「答えてやるさ。俺の手引きではない」 「―――そうか」 肩を竦めて、きわめて軽く孫市は答えた。三成の怒りに触れるだけの調子だったが、しかし三成はそこでは何も言わずにとどめる。 関与を否定されれば三成にはもう何も言うことはなかった。相手は秀吉の親友であり、客人だ。ここでこれ以上の騒ぎは起こせない。 しかしそれを知ってか知らずか、孫市がさらに言及した。 「だが気配は悟っていたさ。俺も馬鹿じゃない。無為に傭兵してたわけでもないんでね。俺がここに来れば何かあるだろうと思った。おまえの友には悪いことをしたな」 「…貴様」 「だが断れるもんじゃねぇだろ?親友の書状がたくさん届いてよ、待っていると言われて、相手は天下の豊臣秀吉だ」 天下の、の部分を強調する孫市は、やはり薄く笑ったままだ。 どうして欲しいというのか、この男は。 「…孫市」 「断れねぇよ。俺はただの雇われもんだ。その時々、適当に金もらって流れていくだけだからな。天下の豊臣秀吉の誘いはどうしようもねぇ」 「…黙れ、孫市」 抑えた声が三成から発せられた。鉄扇を閃かせて、孫市の顎の近くで寸止めされる。速かった。ゆえに誰も動けなかった。孫市は三成を静かに見つめている。 「それ以上、秀吉様に負担をかける言動は慎め。俺はそんなこと聞いていない」 「…ああ、悪かったな」 「関係ないのならば、もういい。秀吉様、無粋な真似をいたしました」 「幸村はどうじゃ」 「…先程、目を醒ましましたよ」 「おお、そうか…それはよかった」 「はい」 三成は無表情に頷いた。
その頃、幸村についていたのは左近だった。幸村が目を醒ました最初は、三成が酷く安堵した様子で何度も何度も謝っていた。 幸村は居心地が悪そうに、そのたびに否定を繰り返した。いいえ、なんでもありません。どうか顔を上げてください、私はたいしたことはありません。三成殿が気にするようなことではございまん。 美しい光景ではあったが、左近はどうにも納得がいかなかった。 「どうも…申し訳ありません」 その上、まだこうして左近に頭を下げる。 「気にするな。俺はあんたに感謝してるよ」 「…私は自分が情けない」 「なんでそんなに自分を卑下するんだ?あんた」 「…え?」 「あんたは時々、気配を殺しすぎる。そんなに無能じゃないだろう、あんた。あまり覚えてなくて悪いが、あんたは確か武田の頃、そんなんじゃなかったはずだ」 視線を泳がすことを許さぬ眼光で、幸村を見つめた。左近の言葉に、幸村はしばし黙る。そのうち、表情に困った上での笑顔が漏れる。 「…左近殿は、信じるものが折られた時、どうなさいますか」 「…俺が?」 突然何を、と言おうとした。しかしそうだ。この男は一度は死地を乗り越えている。あの長篠。左近は早々に武田を後にしていたから、噂でしか知らない。壮絶だったという。伝統も何も、全てが力に屈した。何よりも刀が強いのだという神話は崩れたのだ。あの戦で。 「私は死ぬつもりでした。ただ死ねなかった。無様に生き延びてここにおります」 「あんたはそう考えるのか」 「……」 「俺は長篠の時には、もう武田を見限った後だったからな。その後も主をかえて今ここにいる」 「私は、時代の流れについていけぬのです。ただ漫然と生きている。皆様には良くしていただいて、嬉しく思っております。…このような、ただ槍しか振るえぬ者に」 自信が、折られた。 自分が信じる道が、断たれた。 だからこんな風に、自分をひたすらに卑下するのか。役に立つことで、自分の存在をどうにか保とうというのだろうか。しかしそれでは。 「あんた、それじゃどんな風でも満足できないぜ」 「そうかもしれませぬ。しかし、それで良いと思っております。私には…」 ああ。 左近は唐突にわかったような気がした。いつも何故かこの男は一人でいるような気がした理由だ。周囲には常に誰かいる。どちらかといえば一人ではなく、誰かとともにいることの方が多いだろうに、そう見えなかった。その理由。 どんなに言葉を尽くしても、たぶん幸村に届かない。 幸村にとって、一度折られたものが、戻ってくることはない。 それを知ってか知らずか、残酷なほど心を閉ざしている。 そんなに、あの戦場は修羅場だったのか。地獄であったのか。光のひとつも見出せない、無明の闇だったか。 「まぁ、今回の件については、俺はあんたに礼を言いたいだけだ。言わせといてくれませんかね」 「…はい」 この言葉も幸村には届いていないだろう。彼の心を暖めるようなことはないのかもしれない。これは泥沼だ。自然と人を追い込む奴だ。自分を戒め、自分に厳しく、誰からの言葉にも浮いた気持ち一つおこさず、どんなに心をこめた言葉も、思いも、彼の心をすり抜ける。 手ごわい相手に懸想したもんだ。 左近は三成に思わず同情したくなった。 「今度、武田の頃の話でもしませんか。その忍びの話も聞いてみたい」 「…あれは風のようなものですから」 「それは面白そうだ」 笑って、左近は立ち上がった。それと同時に、左近の背後の襖が開いた。三成だ。 「殿、どうなりました」 「…何も知らない男はどうにも出来ん」 「そうですか、では殿の無礼の汚名を注ぎにいきますかね」 「…頼んだ」 「はいはい」 言って、左近はさっさとその場を後にした。考えたことを、三成に言う気はなかった。
左近が出ていくと、場は再び三成と幸村の二人だけになった。俯いたまま、幸村の傍近くに座る。 「幸村」 「三成殿、このたびは…」 「もういい。それ以上言うな」 「…はい」 また何かを言おうとする幸村を、三成は遮った。聞きたくなかったのだ。会話を探す。俯いた視線に、幸村の二の腕が見えた。 「腕を見せてみろ。腫れはひいたか」 「いえ、まだ」 「…そうか。俺のために…辛いか?」 「たいしたことはございませぬ」 幸村にとって、痛みの感覚とは麻痺しているものだった。痛いかと問われれば、幸村は反射的に否定する。それ以上の痛みに、ずっと晒されているのだから、多少の痛みなどあってもなくても構わなかった。 しかしそれを、三成が知るはずもない。 「肝を冷やしたぞ」 「…申し訳ありません」 幸村の二の腕のあたりはいまだに腫れがひかない。さすがにそこまで即効性のある薬ではないし、当然だった。そっと触れれば、痛くはないと言っていてもやはり一瞬反応する。 唐突に、三成はその腕に顔を寄せた。腫れ物の上に、口付ける。 「…み、三成殿?」 名を呼ばれても、三成は答えなかった。口付けた腫れた皮膚は、膨れ上がっていて不穏な熱を持ち続けている。あの丸薬は良く効いた。幸村はしばらくすれば目を醒ましたし、あとは少しの毒が抜けるのを待てばいい。 「三成殿、」 舌を這わせてみる。幸村の肌の味と感触。それから、幸村の皮膚の下、まだ消えない毒の熱。 幸村は困惑しているようだった。 孫市は何も知らないという。ならば本当なのだろう。本当に、ただ断れずに来た。不穏な気配は感じていたが、どうにもならなかった。どうしてあんな男が秀吉の親友なのかは知らない。金で敵同士の中を渡り歩いて、里まで潰されて。 「幸村、俺をおかしいと思うか」 「…え?」 「……すまん。なんでも、ない」 「み、三成殿?」 「寝ていろ」 触れた肌の熱の感触、肌の味。唇に残っている。引き剥がすように三成は立ち上がった。このままここにいてはまずい気がした。 幸村は困惑している。自分が何をされそうになったのか、あまりわかっていない様子だった。まさか友だと思っている相手に、何かされるなどと思いもしないだろう。 「お待ちください三成殿、私がこのようなことになってしまったので、お休みになられていないのではございませんか。お顔の色が」 「…言ったろう、なんでもないと」 「なんでもないという顔色ではございません」 何も知らない幸村は、三成の身体の心配ばかりしてきた。 なんでこうも。そう思うと苛立ちばかりが募る。 「三成殿」 「…幸村、おまえのせいだぞ」 「…?」 立ち上がって、この場から逃げ出すはずだった身体を、ひねる。先程と同じように幸村にごく近い位置に膝をつくと、手を伸ばした。頬に触れる。それと同時にその腕に力をこめた。幸村の唇に、貪るように噛み付いた。 「…ッ!?」 三成の行動に驚いたのか、幸村の全身がこわばった。息を呑む音がする。それすらも三成は無理やり貪った。さらに腕に力を込める。最悪だ、と思った。 こんな時に何をしているのだ、と。 それ以上に、何故逃げ出さないのだ。 幸村は、何故大人しくされるがままになっているのだ。幸村の腕力があれば、本気で嫌がれば三成など簡単に吹っ飛ばされる。毒がまわっていて力が入らないのか。そんなことはないはずだった。一瞬でも抗う力が伝わってくれば、やめるつもりなのだ。しかし強張ったまま、幸村は動かない。三成にされるがまま、吐息の一つも貪られるがまま。 「…ッう、み、みつ…」 漏れた声に、三成の中でまた何かが弾けかけた。駄目だ。どうしようもない。なんでこんなに、簡単に箍がはずれるのだろうか。幸村のことになると、感情が抑えられない。 先程、孫市と秀吉のいる間に踏み込んだ時もそうだった。 困った様子の秀吉と、悟ったような顔をしている孫市。 おそらく三成は酷い顔をしていただろう。悪鬼のようでもあっただろうし、幽霊のような顔でもあったはずだ。そんな自分を見て、あの二人はどう思っただろうか。親友思いの奴と思われたか。それとも別の感情を嗅ぎ取ったか。 親友だという二人。 あの時、孫市が何を言おうと、どう言って己と秀吉を貶めようと、秀吉本人は何も言わなかった。どんな負い目があるのか知らない。ただ、こんな関係で止まりたかったと思う。幸村に対して、そういう清い感情のまま。こんな余計な感情はいらなかった。 「幸村」 ようやく離してやると、幸村はすっかり息があがっていた。赤く染まった頬。おそらくは生理的嫌悪で涙目になっている目尻。なんだっていいのだ。幸村だったら。 「俺は、どんな顔をしている」 幸村からの答えはない。今はきっと、獣のような顔をしているはずだ。獰猛に獲物を狙っている。幸村という名の獲物を目前にしている。 「気が狂った」 自分がこんな風になるなどと、誰が想像しただろうか。自分自身ですら想像できなかったことだ。こんなに貪欲に求めている。 「…すまん」 幸村一人を求めている。 何を言っているのだと思うと顔も上げられない。そうしている今も、ほんの少し前に口付けていて触れていた唇が、熱く感じる。疼くような感覚がある。 しかし次の幸村の言葉に、三成の中で血の気がひいた。
「……三成殿、顔を、上げてください」 それは。 幸村が起きて、目を醒ました時にも言った言葉だった。三成殿顔を上げてください。私のことなど気にしないでください。 決定的な否定だ、と思った。 こうまでして伝わらないはずがない。石田三成にとって真田幸村が特別な感情を向ける相手だということは、誰の目から見ても明らかだ。 幸村でなければ駄目だ。幸村が欲しい。 ゆきむら。 「私のことで、気を病むことなどございません。…きっと、気のせいだ、と。一時の…」 「…そう、か」 何かが崩れたような感覚があった。そのまま立ち上がると、三成は部屋を出た。どこへ向かうとか考えていなかった。ただ、とにかく幸村から離れたかった。幸村が何か言っている気がしたが、答えられなかった。何を言っているかもわからなかった。
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