三成は、丑三つ時もとうに回った刻限に、一人部屋を出て縁側に佇んでいた。誰かがその姿を見たら、亡霊だと騒ぐかもしれない。それほど今の三成は気落ちしていて、どうしようもない状態だった。 見上げれば月もない。 時折そよそよと吹く風が、今の三成には不快だった。 幸村が好きだ。 自覚したからといって、事態が好転するわけではない。むしろ悪い方に転んだように思う。自覚をしてしまえば、今まで通りに接することが出来るわけがなかった。 たとえば朝、なんの疑いもなく鍛錬の後の幸村に会う。おはようございます、と声をかけられ微笑まれる。まともに返すことが出来ずに、頷くだけに止める。通りすぎ際に、滲む汗に目を奪われる。汗で僅かに湿っている髪や、上気した頬に。 触れたい、と感じる。 出来るはずもない。 それは三成にとっては思いがけない感情で、どうしようもなく疎ましいものだった。それさえなければ、幸村と普通に接することが出来る。触れる意味も違ってくる。こんな感情は幸村を穢すだけだ。 幸村は、よもや三成がそんな感情を抱いていて、そういう対象としてみているなどと思いもしないだろう。 そう考えれば考えるほど、幸村の顔を見ていられなくなる。 自然、俯きがちになる三成を気にして、その後幸村が顔を出してきた時も同じ。心配してくれているのだ、と思うと酷く心が温まった。今すぐ抱きしめたいと思うほどに嬉しい。しかしそういう感情は、三成にとっては常から押し隠すべきものだった。 しかし今までの自分が全て崩壊するほどに、今はただ嬉しかった。気を緩めればそれがすぐ表に滲む。だから三成は必死にそれを押し隠した。これまで生きてきた中で、一番必死だった。 「三成殿、お加減が悪いのでは」 問われても、振り返れない。 「幸村に心配されることはない」 だからこそ、かつてないほど辛辣に相手の好意を踏みにじった。口を開いた瞬間に後悔したが、もう取り返しはつかない。幸村が怯んだような気配を感じて、違うんだ、と言い訳をしそうになる。 だがそれに、三成のつまらない感情が待ったをかける。 どう言えばうまく伝わるかわからない。ただでさえうまく言葉を選べない自分が、幸村をこれ以上傷つけないとは言い切れず、結局、酷く重い沈黙が二人を包み込んだだけだった。どうしようもない。 「…そうですか。では、失礼いたします」 幸村が辞した後、三成は握り締めていた筆を部屋の隅に力一杯投げつけると、そのまま髪をかきむしった。 なんでこんなことになったのか、どうしてこんな想いを抱いてしまったのか、何故その相手が幸村なのか、もうわけがわからない。 もうこれまで何度考えたかわからない。相手は男だ。真田幸村。友情を誓った仲間だ。その相手に、何故抱きたいとか、触れたいとか、そんなことばかり考えてしまうのか。 そうして、ひとしきり後悔して夕餉も食べずに仕事に没頭し、この刻限になっていた。今頃幸村はどうしているだろうか。朝の早いあの男のことだから、もう床についているのだろうか。 それとも、また槍の鍛錬でも。 あれだけあからさまに拒絶を見せたにも関わらず、今はただ幸村の顔が見たかった。どう思っているだろうか。心配をしてくれたのに、それを無碍にしたのだ。さぞや嫌な男に思われているに違いない。 そう思うと、酷く悲しかった。 自分の感情が、どうにもならない。もてあますばかりだ。 気づくと三成の足は自然と廊下を渡り、幸村にあてがわれている部屋の方へ向かっていた。 会ってどうするつもりなのか、わからない。 悶々とそんなことばかり考えて、ふと気がつくと、幸村の居室のほど近く。その部屋を出てすぐのところに、幸村が、いた。 誰かと話している。 とっさに身を隠した。別に隠れる必要などなかったが。 月のない夜だ。誰と話しているのかなど三成にわかるはずもなかった。 ただ、いつもと違った雰囲気の幸村が、三成の知らない者と話していた。時折ぼそぼそと、吹く風に紛れて聞こえてくるのは、せいぜい「幸村様」とかその程度だった。誰だ、誰と話しているんだ。そう考えると、自分の器の小ささが思い知らされる。 幸村が誰と話していようが、誰と密会しようと、そんなこと三成には関係ない。しかし口を開けば問い詰めてしまいそうだった。 三成は、その足ですぐ踵を返して、もときた道を戻る。 眠れそうになかった。 翌日、外は三成の気持ちを表すかのような曇天だった。 気落ちするほどの重い雲の層が、空を覆っている。空が低い。 その日は、朝から三成は忙しかった。秀吉のもとに客が来るという。 大仰なほどに気合の入った準備を迫られた。それはねねも同じく。大事な客人なのだと言う。結局眠れなかった三成は、すでに朝から最悪の気分で走り回っていた。ふと気づくと、幸村が視界の片隅でどこか居心地が悪そうにしていた。 しかし、声をかけるだけの勇気はなかった。口を開けば、仕事そっちのけで昨夜の話を聞きだそうとしてしまう。 だからこそ、幸村をわざと意識の外に追いやることにした。 しかしだからといって、それがあっさり出来るわけではない。気づけば自然に視線がそちらに向かっている。ちらりと見るたびに、幸村の周囲には誰かがいた。 気軽に話しかけるな、幸村に近づくな、とそのたびに舌打ちする。勿論そんなことは誰にもいえなかった。 「雑賀孫市殿のご到着です」 家臣が告げた名に、三成は鈍い頭でようやく合点がいった。 そういえば訪ねてくる人の名を聞いた気がする。それどころでなくて忘れていたが。その名を聞いて、道理で秀吉やねねが、大事な客だとしつこく言ってきたのだ。詳しい話は知らないが、たくさん大変なことがあって、秀吉が天下統一を成した後は一度も顔を見せなかった。 だから今日がどれだけ二人にとって大切な日なのか、も。 今の三成には少しだけわかる気がした。たとえば三成にとっての兼続や幸村のようなもの。 秀吉にも親友と呼ぶ人がいて、その相手に対してそこで一歩足を踏み外したのは、三成だけだ。 「よぅ、久しぶりだな、秀吉」 「よ、よう来た孫市!ねねも待ちわびとったで!」 「何、気ぃ遣ってんだよ…」 どことなくぎこちない空気が流れて、とりあえずその場は左近が前へ出て、二人を先導した。ああいう役目は、本来三成がやるべきだ。しかし今の三成はどうにもそれが出来なかった。寝不足で、頭がまわっていないということもある。親友同士のやりとりを、どことなく遠いもののように見ているということもある。 「ちょいと、三成!」 「…おねね様」 振り返れば、秀吉とともに孫市を歓迎していたはずのねねが後ろに立っていた。腰に手を当てたその様子に、ああ説教されるな、と思うがそれを回避できるほど今は素早く動けなかった。 「その目の下のくま、どうにかしておいで!」 「……」 「聞いてるのかい?まったくもう、体調管理も大切な仕事じゃないか。幸村、ちょっといいかい?」 「だ、大丈夫です。あとは左近に任せます。それでは」 早口で言うだけ言うと、慌てて三成はねねの前から逃げ出すように辞した。 「ち、ちょいと!三成っ!」 「三成殿!」 最悪だ、と思った。慌てるねねの声を背に聞きながら、早足で廊下を渡る。その後ろを、ついてきているのは幸村だ。最悪だった。 呼び止められて、肩をつかまれる。 「三成殿!」 「……」 「やはりどこかご気分が優れぬのでは」 数日前と同じやりとりだった。幸村は数日前とかわらない。 当然だった。何故自分だけがこんなに変わってしまったのか。そう思うと、苛立ちは頂点に達した。 「本日は皆、お忙しいのでしょう。私がお供いたしますので、三成殿は安心してお休みください」 「…別に、具合などどこも悪くない」 「…そのような」 「…しつこいぞ」 「……失礼、いたしました」 氷のような冷たい声でそういえば、幸村は勢いを削がれて言葉を失うように下がった。こうなるから嫌だったというのに。 「……三成殿。私は愚直に、槍を握るしか脳のない武士です。このような場面では、決してお力にはなれませぬ。役に立たぬと三成殿に思われても、仕方がないと…」 「…ッ違う!」 我慢が出来なかった。振り返って、幸村を睨むように見つめた。 久しぶりに、正面からその顔を見た気がする。 あの打ち合いの時、幸村の目に心を奪われた。自分の、この抑えきれない感情が、幸村に対する友情とは違う意味の想いだと気づくのには、時間がかかった。正直に、幸村を大切に思う気持ちが強いのに、本人は己を卑下するような口をきく。それは我慢が出来なかった。 だから振り返った。声も荒げた。視線が合うと、一瞬視界が真っ白になったような気がした。 「俺は、幸村をそんな風には思っていない」 「……三成殿」 「…俺、は」 言ってしまえ、と自分の中の誰かが囁く。幸村は、三成の言葉を待っている。じっと視線を逸らさず、三成が次に紡ぐ言葉を待っている。 実感して、また頭の中が真っ白になった。戦に出るよりよほど困難な話だった。言葉にならない。 「…幸村」 少し前に三成の肩を掴んだ幸村の手を、今度は三成がとった。 今は皆、客人をもてなすのに忙しい。こんな風にこんな廊下の外れにいるのは幸村と三成の二人だけだ。幸村以外の誰かに、聞かれることもない。 「はい」 「……幸村、が」 その瞬間。 ふ、と幸村の目が細められた。その瞬間に宿る暗い陰。あの打ち合いの最中に見たあの目だ。あ、と思った瞬間だった。 幸村が突然振り返った。その反動に、三成は引きずられるようにして前にのめる。 「三成殿、刀を拝借いたします!」 その言葉に、いつも差している脇差を、幸村が見事な動作で抜き放つ。 そして次の一瞬、刃のぶつかりあう音がした。敵の忍びが暴れ出す前に、幸村は弾いた力を利用してそのまま斬りかかる。とはいえ脇差では分が悪い。 何度か刃をまじえた途端に、忍びは逃げるそぶりを見せた。そこでようやく、三成も我に返る。何をしているのだ、と己を叱咤しながら鉄扇をつかんだ。 それに気づいたらしい忍びは、本格的に逃げに入る。しかしその瞬間、幸村めがけて吹き矢が―――。 「ゆきむらぁぁぁッ!!!」 間に合わない、助けられない。幸村が。 今度は視界が真っ暗になった。それはもちろん感覚的なもので、実際本当にそうなったのではない。その一瞬に、幸村の腕を掠めるように吹き矢が飛び、柱に針が刺さる。 ぐ、と幸村が呻いた。掠めただけの矢、その針の部分に、毒が塗り込められているのは考えずともわかることだった。 忍びはすでにその場にいない。 「…っ、逃がしてしまいましたね」 「そんなことはいい!腕を見せろ!」 針の掠めた肌は、妙に熱を持っていた。その瞬間はもう、何も考えていなかった。毒を抜かなければとそればかりだった。そうだ、客の相手などさせている場合ではない。左近とおねね様を呼んで、毒消しの薬を煎じてもらわなければ。いやあれは気付けの薬だったか。 迷いもなかった。幸村は抵抗しない。幸村の腕に唇を寄せて、毒を抜く。吸い上げて吐き出す、それだけの作業だった。 必死だったのだ。早く何とかしないと、幸村が。そればかりで。 「……無様なところを、お見せしました。…三成殿、ありがとうございます」 「何が無様だ…!あの忍びは俺を狙っていたのだろう!」 「…昨日、昔縁のあった者からそういう、話を聞いておりました。聞いていてこの様です。やはり私は…」 「十分だ。幸村、俺はおまえが大切だ」 「…三成殿」 「大切なんだ。俺は、おまえのことを」 言わなければ。 伝えなければ。 一番大切なことを。 「……大切、に、思っている」 「…ありがとうございます」 幸村がはにかむように笑った。違う。違うんだ。三成は必死にかき抱いた。 「幸村…俺は」 腕の中の幸村がふと力を抜いた。抜いたというより、抜けたようだった。 「…ゆきむら?」
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