天上の 29




 幸村の部屋に訪れたのは、だいぶ経ってからだった。
 起きていないかもしれない。そう思い襖の前でしばし迷ったが、中から声がかかった。
「三成殿」
 幸村の声だった。はっきりとした声だ。
「お入りください」
 それでも、三成には何かを我慢している声に聞こえた。
 今の今まで、たった一人で何をしていたというのか。戻ってきた時点で夜はだいぶ更けていた。さらにそれから、あれこれと仕事をこなし、心を落ち着かせて来た。正直に言えば朝だと言っても過言ではない。そういう刻限だった。
 静かに襖を開ければ、幸村がいた。布団の上で上半身だけ起こしているその様子を見ると、この男が重傷を負い、いまだ傷が塞がりきっていないことを思い出す。
 月の光が入り込んでいるからか、幸村の顔色は白かった。
「こんな夜更けに、すまん」
「…いえ」
 幸村のすぐ傍に腰を落ち着かせた。幸村は、三成からの言葉を待っているのかそれ以上何も言わない。
 そうして二人ともが黙ってしまえば、恐ろしいほどの静寂が二人を包んだ。
 何故こんなにも静かなのだ。これでは、己の鼓動すら透けて聞こえてしまうのではないだろうか。
「お身体は、…本当になんともないのですか」
 そんなことを考えていた矢先に、幸村が口火を切った。
「ああ」
「…何故、こんな無茶をなさったのですか」
「家康の斬首の日程はこれ以上遅らせることは出来ん。刺客がいようがいまいが関係なく、だ」
「ではせめて、何故身辺を…!」
「何もしなかったわけではない。幾人かは、村人として柵の外に待機させた。何があっても斬首は決行せよとも伝えた。俺の近くにいた者たちにも、何が起こるか伝えてあった」
「…何故、教えていただけなかったのですか」
「さっきも言った。幸村、おまえに伝えてどうなる?おまえの怪我は誰よりも酷いのだぞ」
 幸村の問いに、一つずつ三成は丁寧に答えた。
 その間、一度も幸村から視線は逸らさない。そう決めた。しかし、幸村と視線が絡みあうことはなかった。ずっと俯いたきりの幸村が、顔を上げる気配がないからだ。
「それでも…ッ!!」
「おまえは、報せたら心配するだろう」
「当然です!」
「だから報せなかった。おまえに無用の心配などかけたくなかった」
「私は…、私は、三成殿や、兼続殿をお守りしようと決めたのです。私の槍にかけて…!」
「何故だ?そんなに俺も兼続も弱々しいか?」
「そういうわけではありません!」
「ならばそんなに片意地を張って俺や兼続を守る必要がどこにある。怪我の重いおまえに守られて、俺や兼続が喜ぶと思うか?」
「しかし…ッ!」
 幸村の拳は強く握り締められている。それが震えていた。
 彼の感情が、ここまではっきりと伝わってくることが今まであっただろうか。
 いつも笑っているばかりで、大人しくて。
 戦場ともなれば雰囲気は一変する。しかし今の彼はそのどちらでもなかった。
「…っくのいち、から、聞きました。あなたが狙われていると」
「そうか」
「その時の、私の気持ちがわかりますか」
「……」
「………必要ないと、いうことなのだ、と…私は」
「幸村」
「私は、三成殿の戦は合戦が終わってもまだ続くから、その為の露払いになれば、と私は…ッ」
「何故だ?」
 うまく言葉を紡げずに俯いたままでいる幸村に、三成は身を乗り出して、幸村の耳元で問うた。
「俺のやったことは間違っているのか?」
 ごく近くに幸村がいる。だが触れなかった。まだ、もう少し。
「おまえだったら、おまえが俺だったらどうした」
「………ッ」
 幸村が言葉を飲み込んだ。言いたい事が伝わらぬ苛立ちか、それとも三成の言い分もわかるがゆえか。
「おまえに伝えぬことで、おまえが苦しむだろうことはわかっていた。しかしおまえは先の戦であれだけの負傷をしたのだ。余計な心配など、させたくなかった」
 幸村の気持ちはわかる。三成だとて、幸村と同じ立場だったら同じように詰るだろう。だからこそ、次の言葉がすんなりと出てきた。
「…すまなかった」
 その言葉に、幸村が顔を上げた。何を掴むでもなく握り締められていた拳が解かれて、三成の裾を掴む。強い力だった。
「幸村」
「…すいません。わかって、いるのです。私の言うことがおかしいことは」
「いや。俺がおまえの立場だったら、きっと同じようにしている」
「あなたの命が狙われているという話を聞いた時、何故自分がこんなところにいるのか、何故槍を握っていないのか、そう考えて目の前が暗くなりました」
「………」
「私のいないところで、三成殿が死ぬかもしれない。…そう、思ったら」
「そう思ったら。…どうした?」
「……そんなのは嫌だ。そんな、もう逢えないかもしれないと思ったら、まだ何も伝えていないのに、何もいえなくなってしまうかもしれないなんて、そんなのは…っ」
「…負けると思ったか?」
「違います!そうではないのです…!嫌なのです…!私の知らないところで、勝手にそういう運命だったのだ、と終わられてしまうのは、もう嫌なのです…!」
「…おまえが、関が原に来た時」
 三成はあの関が原で見た、六文銭の旗印を思い出す。鮮明な赤が、天を衝くかのように見えた。流れが変わった、これから変わることを、あれが敵味方を問わずに触れ回っていた。
「正直、負けるしかないのか、と思っていた。多くの者に裏切られ、打つべき手は全て打ち…そんな時に、幸村。おまえが来たんだ。信じられなかった」
 真田隊は勇猛だった。幸村を先頭に、疲れた身体に鞭打って戦場を駆け抜けていた。誰もがあの赤備に目を奪われた。
 覚えている。たぶんもう、ずっと忘れられない。
「おまえが、俺の敗北しかなかった命運を、勝利にかえたんだ。だから、俺は死なない。そう思っていた」
「何を…」
「わからん。ただ、そう思ったのだ。幸村がいるのだから、幸村から受け継いだ勝利を、俺が台無しにするなど、そんなことは出来ん」
「私は…」
「おまえは何もしなかったわけではない。あの場で服部半蔵が襲い掛かってきた時に、俺は負けられないと思った。おまえから、貰ったのだ。勝利を。だから、おまえは何もしていないわけではない。俺と一緒に戦ったも同然だ」
 その言葉を聞いた瞬間だった。
 唐突に、三成の双眸が見開かれて、何かに驚いたような顔になる。
「…幸村」
 ぼた、と畳の上に零れたのは、大粒の涙だった。後から後から、ぼたぼたと頬を伝って落ちていく。幸村はそれを拭おうとしない。人の泣き顔など、さして綺麗なものでもないはずなのに、この時は確かに、三成は幸村の泣き顔を綺麗だと思った。
「私は、何か、出来たのですか…」
「おまえがいたから勝てた。おまえがいたから、独りで立ち向かおうと思ったのだ。何もかも、おまえがいたからだ」
 幸村が詰めていた息を吐き出した。う、と小さく呻くような声が聞こえて、三成はそっと手を伸ばす。幸村の頬に触れる直前に、その手を止めた。
「…幸村。触れて、いいか」
「……はい」
 頷く幸村の声は震えていた。それは三成の指先も同じだった。
 頬に触れて、とめどなく流れていく涙を親指で拭ってやる。三成の体温を感じてか、一層多く涙が零れて止まらない。
「本当は、もっと早く言いたかった。幸村。…戦の前に、忍びに狙われた時、身を挺して守ってくれた。二条城での家康との会見の後にも、駆けつけてくれた。関が原の時、上田から駆けつけて勝利をもぎとった。…幸村」
 思い返せば常に心が乱される時は、幸村がいたからだった。
 幸村が身代わりとなって負傷した時も、幸村が二条城で苦戦している三成のもとに駆けつけてきた時も、関が原で何にも負けずに駆けつけてきた時も。
 そして、稲姫の願いのために、やはり身を挺して彼女を守った時も。
 いつでも、いつだって。
「…ありがとう。…もう、どうしようもない。おまえが、好きだ」
 不思議と、その言葉はあっさりと出てきた。考えてみれば、もうずっと言いたかった言葉だ。きちんと、彼と向き合って。
 だからなのか、言ってしまったという後悔も何もなかった。
「…みつなり、どの」
 幸村はまだ涙が止まらずにいる。拭っても拭っても足りない。
「私は…私は」
 幸村から見る三成の目は酷く優しい。幸村の感じる、三成の肌から伝わる体温が心地いい。
「戦でしか、槍でしか己を語れません」
 何を言えばいいのか、何を伝えればいいのか。幸村は混乱しているようだった。ただ、涸れることなく涙は後から後から零れ落ちて止まらない。
 三成に言われた言葉が、ただ嬉しかった。今までずっと堰きとめていたものが、全て溢れ出してきたような。感情が溢れ出して止まらない。
「私は変われない。私だけが取り残され、何もかもが遠い、…そう思って」
 早く伝えたい。思っていること全て。そう感じながら、幸村が必死に言葉を紡ぐ。言葉が、伝えたい言葉が不自由で歯がゆい。
「なのに、三成殿。三成殿が…私を、なんて、そんなのは…」
「……」
 三成は何も言わずに聞いていた。頬に触れた指が幸村の髪を梳く。本当に、涙が止まらないほど優しい指だ。
「そんなのは、ただの一時の気の迷いだと。だから、何があっても、三成殿に何を言われても…否定をしていました。ずっと」
 でも。
「でも…駄目です。何度も口をついて出そうになる。無意識に、何度も三成殿の名を呼んでしまう。こんなのは違う、と思いながら」
「…違うのか?」
「わかりません。こんな、こんな感情は、知らない。三成殿、生きていてほしいのです。何かあるたび、私はおかしくなりそうになる。上田にいた時も、私だけの感情で関が原に行くなんて無謀、出来ないと思っていました。でも、結局この感情に抗えなかった。三成殿」
 意を決したように、幸村が顔を上げる。伝えるのが怖い。三成も、そう感じたのだろうか。
「…三成殿。…私は…あなたのことが、」
 その途端、今までずっとただ髪を梳いたり、頬を流れる涙を拭うだけだった三成が動いた。幸村の負担にならぬよう、そっと頭を抱え込むように抱きしめる。
「好き、です」
「…幸村」
「ずっと、ずっと…違うと否定していました」
「…やっと、聞けた。幸村」
 三成の声が優しい。幸村は縋るように三成の背に腕を回した。
 あの長篠の戦からずっと、どんなに笑おうとも心から笑えずにいた。
 どんなに叫んでも、心の声は違うと叫び返していた。
 それを、今までつっかえていたものを引きずり出してくれたのは、三成の言葉一つだ。

―――おまえは何もしなかったわけではない。おまえから、貰ったのだ。勝利を。だから、おまえは何もしていないわけではない。俺と一緒に戦ったも同然だ

 だから、おまえは一人じゃない。
 いつも深くて暗い川の底、そんなものを見ていなくても、いいんだ。




 幸村の傷が塞がった頃には、すでに天下は完全に豊臣のものとなった。
 兼続や三成が掲げる義の志が、万人に広まるには時もかかり、やはりまだ虎視眈々と天下を狙う者もいた。たとえば、奥州の伊達家だ。
「けしからん」
 兼続が酷く納得のいかない様子でしかめっ面をしていた。
 結局伊達家の取り潰しはかなわず、今も奥州をおさめている。
「仕方ないですな。長谷堂の一件で最上などとも手を組んだとなれば、今までになく伊達家の力は強大です」
 左近がやれやれといった様子で言った。兼続が個人的に伊達を好んでいないのは知っているが、ここまでか、と苦笑する。
「領地は一部上杉に譲る形で決着がついたのだ。少しは納得しろ」
 和議は伊達家から申し入れてきた。それに出向いたのは三成と左近と、そして幸村である。
 領地の一部を豊臣に寄越すから取り潰しなどは免除してほしい、といった内容の話だったが、その時、相変わらず幸村はいつもの調子だった。
―――政宗様。一つ、仕合いませんか
―――何?
 唐突な申し入れに、その場にいた誰もが驚いた様子だった。
―――私は難しい話などわかりません。一つ、いかがですか
 政宗は三成と左近をちらりと見遣った。唐突に何を言い出すのか、と面食らった顔をしているのは向こうも同じで、完全に幸村が一人で言い出したことのようだった。となれば、馬鹿正直な仕合いである以外に他ならない。
―――何故そのようなことを申すのか、言ってみよ
―――こちらは、手は見せております。これは、伊達家からの和議でしょう、政宗様。影に潜んでいる方も、こちらに来ていただくべきではないでしょうか
―――…ち、さすが日の本一の兵というやつか?
 すでに幸村に対する呼び名は、武名は轟いていた。特に、敵総大将である男からそう言われたことは、東軍も西軍も、どちらの者も知っていた。
 その時、後ろに潜んでいたのが孫市だったとか、雑賀の頭領が伊達についたとか、そういったいろいろなことが判明した和議だった。
「しかし、よくわかったねぇ。鼻がいいのかい?」
 慶次の言葉に、幸村は笑った。そうですね、と答えて続ける。
「鉄砲は、よく知っておりますから」
 その言葉に、慶次はおや、と目を丸くした。それからちらりと三成を見遣る。三成は不貞腐れている兼続に、いろいろと話を振っていて、気付いていないようだ。
「いい顔で笑うようになったなぁ」
「いろいろな方の、おかげです」
「そうかい」
「はい」
 そう言って笑う幸村の笑顔は、本当に。男でも見惚れるようなものだった。
 この顔を引き出したのは、紛れもない。あの男だろう。
 感慨深く思っていると、何やら素面のはずだろうに兼続が絡んできた。
「幸村!何故その時にもっと強く主張しなかったのだ!背後に狙撃する者がいたのだぞ!」
「それも、三成殿の策のうちですから」
「何!」
「ああ、あの時の殿はなかなか、貫禄がありましたな」
「何があったのだ?」
 知っている者同士、特に左近と幸村が示し合わせたように笑った。兼続がせっつくので、左近が三成の声真似などしながらその時の様子を伝える。
「暗殺などしても、所詮明智の二の舞にしかならん。その一発で、伊達家は潰れる、とね」
「へぇ、なかなかじゃないか」
 慶次が感嘆をもらせば、真似された事に対して腹が立ったのか、それとも妙に褒められることが恥ずかしいのか、とにかく三成は声を荒げた。
「うるさい。本当のことを言っただけだ!」
「照れてますな、殿」
「左近…貴様。ええい、もういい!幸村、少しつきあえ!」
「はい」
 物凄い勢いで出ていく三成の後を追いかけて、幸村が出ていく。
 残された三人が同時に笑い出した。
「いいねぇ、いい傾向だ」
「うむ。よかった。本当にな」
「ではここから酒盛りにでもしますかね」
「昼からとは不義であるな!」
「たまにはそういうのもいいんじゃあないですか。不義の土地貰ったお祝いといきましょう」
「ははっ、いいねぇ」
「ふむ。では仕方ないな。断れん」
 本当は呑みたかったんでしょう、とかそういう話題で盛り上がりながら、三人はすぐさま人を呼んだ。奥から出てきた者に酒を頼めば、女たちも仕方ないですね、という風に笑った。



「三成殿」
「今頃あいつらは酒盛りを始めているぞ」
「後で、参りますか」
 どこへ向かうというあてもなく、三成と幸村は連れ立って歩いていた。
 兼続の傷も癒えた。昔より忙しくなり、上杉からは今まで以上に信頼され頼りにされている彼は、それでも常に楽しそうだ。
 慶次の目をいつでもまっすぐ射抜いて、慶次が「かなわん」と言う唯一の男でもある。
 左近の傷も癒えた。多少動かすと引き攣れるような痛みが残ったらしいが、普段は特に支障なく生活している。
 三成とは相変わらず、歯に衣着せぬ同志として対等な立場にいる。
「酒など呑んで平気なのか、幸村は」
「もう、ほとんど治りました」
 幸村が笑うと、三成は何故だか酷く安堵する。これは前からずっとそうで、しかしいつからか無理に笑っているとしか思えなかった。
 しかし今は違う。ちゃんと、笑っている。そう思える笑顔だった。
「そうか。あの時はどうなるかと思ったものだ」
 昔話として笑えるのは、幸せなことだ。
 本当に、そう思う。
 あの関が原の地獄。その絶望の中で、幸村だけが、希望の光だった。
 こうしているとただ普通の男だというのに、あの戦が過ぎた後でも、その傷が癒える頃になろうとも、やはり三成の中で幸村に対する想いは冷めることもない。
「幸村」
 だから、今が本当に幸せだと思う。
 誰もいないことを確認すると、三成はそっと身を寄せた。途端に幸村の身体が強張る。
 軽く口付けて唇を離せば、困惑気味の幸村の頬が赤く染まり、しかし、どことなくぎこちなく笑う。
 そしてそれにつられて、三成も笑った。
 天下はおさまった。戦国は終わった。これからは先の世の泰平の為、働く時。
 いつものように隣にいたいけれど、そんなことは出来ないし、出来なくてもいい。離れていれば、それだけ逢える時の喜びが違う。離れていても、そこにいて、共に戦っているような気がする。
「やはり、後で行くのは止そう」
「え?」
「俺はおまえといたい」
 その言葉に、やはり幸村は戸惑ったように笑った。
 でも、否定はしない。
 見ていたいんだ。
 時折見つめていた闇を、彼自身がもう見なくなった。それが、自分の力なのだと。そして笑う姿が、自分に向けられる至福を、ただ感じていたいだけで。
「…そう、ですね。私も、三成殿にお話したいことが、たくさんあります」
「ああ、聞かせてくれ」
 だから今、こうやって触れることが出来て、声を聞くことが出来て、それだけで。
「はい…!」

 天上の、幸福だ。




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