天上の 28




 幸村はふと顔を上げた。
 何故だかわからないが、唐突に何かを感じた気がしたのだ。
 妙な胸騒ぎだった。落ち着かない。幸村は視界を彷徨わせた。
 天井を見上げ、何もないことを確認すると周囲を見渡す。視線を泳がせれば匿名で贈られた―――とはいえ、大概の者には三成からのものだと知れていたが―――茶器に目が留まった。
「…あ」
 よく見れば、茶器の一部に、縦に亀裂が入っていた。先程まではそんなことはなかったし、兼続がいた時でもそんなことはなかった。もし何かあったら兼続はすぐに何か言うはずだ。何も言わずにいたということは、彼はこの亀裂を知らないかもしれない。そういう性分の人だ。
 だから、これは、この亀裂は幸村が一人になってから出来たものだろう。
「………」
 亀裂は割合はっきりとしたものだった。もうこれでは茶を飲めないかもしれない。幸村は見る見るうちに落ち込んでしまった。
 三成になんと詫びればいいだろうか。
 いや、それよりも。
 胸騒ぎは酷くなるばかりだった。
 何かあったのではないか。何か、三成の身に何か。
 今日は家康の斬首の決行日のはずだった。そこで、何かあったのだろうか。
 幸村は不安げに茶器を手にとった。
 戦は勝った。誰がなんと言おうとも、揺るがないほどはっきりと、勝者は豊臣となり、敗者は徳川だった。
 何かあるなんて方が、おかしいのだ。
 己の胸にはびこる不安を、どうにか払拭しようと、幸村は立ち上がろうとした。もちろん、こんな風に歩き回るのは身体に良くない。
 ようやく塞ぎかかっている傷が、また開いてしまうかもしれない。
 幸村自身も、それはよくわかっていたが、その時はいてもたってもいられなかった。
 立ち上がれば、視界がぐるりとまわった。貧血のような状態で、近くの柱に取りすがる。眩暈をやり過ごし、幸村はゆっくりと双眸を開いた。慎重に周囲を窺う。誰かいる気配はなかった。
 誰か、何かを知っている人はいないのだろうか。幸村はそろそろと歩を進めた。少し歩くたびに、特に下腹部の傷が引き攣れるように痛んだ。
 ほとんどまだ移動できていない時に、背後から突然声をかけられる。
「幸村様」
 声は、聞き覚えのあるものだった。そして、もはや懐かしいと言ってもいい相手だった。独特の明るい声音が、今や低く抑えられたものになっている。
 それは珍しいことだった。
「どこに行くの?」
 くのいちだった。武田の頃、ずっと隣にいた彼女。今は幸村に必要であろう情報を、気まぐれに持ってきてくれる。
 幸村は深呼吸をした。まだほんの少ししか歩いていないのに、酷く息が上がっていた。
 彼女は、そんな状態でどこへ行くのか、と問いかけている。
「…丁度、よかった。くのいち」
 何故だか振り向く気になれなかった。武田の没落と共に彼女とは顔をあわせていなかった。三成を狙う者がいるという話を、彼女から聞いた時も、闇夜の中で話を聞いたから、向かい合っていても決して彼女の表情までは汲み取れなかった。
「聞きたいことがある」
「幸村様の怪我の経過?ほかの誰が何をしているか?それとも」
「服部半蔵は、どうした」
「………幸村様」
 関が原の合戦で、半蔵に手傷を負わせたのは誰あろう幸村だ。
 だからこそわかる。あの時、彼を突いた忠勝の槍は、彼の身体を浅く刺しただけだったはずだ。致命傷には至っていないはず。
「答えてくれ、くのいち」
 幸村の声音は酷く硬質だった。糸が張り詰めたような状態、というべきか。とにかくその場を軽く受け流すことは、出来そうもなかった。
 しかし、今だからこそそうしなければならないことも、くのいちにはわかっている。
「…幸村様、あたしが何でも知ってるって思ってるの?」
「知っているだろう?くのいち、おまえは」
 振り返らない幸村の背が痛々しい。戦には勝ったし、天下は豊臣のものなのに、まだこんなにもこの人は緊張している。戦の状態のままでいる。まだ、この人は、戦場から還れないでいる。
(どうしたら、この人戻ってこれるの)
 むしょうに三成のことが憎かった。全部あの人のせいだ。元々全部背負おうとするところがあったし、時折驚くほど戦場にも執着していたが、それでもこんなになってしまったのは。
 信玄が生きている頃はこんな風じゃなかったのに。
 だから、この人から離れたのに。
 今までみたいに、背を必ず守る人がいるという甘えなんて全部なくして、そうしたら無茶もしなくなると思っていたのに。
 そうじゃなかった。
(わかってたのに。どうして離れちゃったんだろ)
 もうあの瞬間、道は分かたれた。知っている。
「…教えて、くれ」
「…ねぇ、じゃあ、お願い。聞いたら、ちゃんと大人しくして、ね」
 お願いだから、聞いて。
「…わかった」
 幸村は振り返らない。そうすることが辛いからなのか、それともくのいちの顔を見るのが怖いからなのか、判断できなかった。もしかしたら両方かもしれない。
「…半蔵の奴は」
 くのいちの言葉に、幸村が拳を強く握ったのがわかった。



 三成が戻ってきたのは夜が更けてからだった。
 さすがに遅い、と兼続が騒ぎはじめた頃で、戻ってきた三成のその陣羽織に飛び散った血痕に、何も知らない兼続が慌てた。
「大丈夫なのか、三成!」
「ああ、大丈夫だ。俺のものではない」
 その二人の背後で、慶次はやはり何かあったか、と己の勘がざわめいたことを思い出していた。安静にしているはずだった左近が出てきて、三成を迎える。
「殿、首尾はどうです」
「万事、解決した」
 三成はどうやら彼の言う通り、無事なようだ。陣羽織に飛び散っている血痕が誰のものであるかは、左近は問わなかった。
 問わないことで、慶次も左近が何かあることを知っていたのだと知る。
 だが、あえて口にはしなかった。慶次にとっては、どちらにせよ万事解決であり、終わったことだ。
 しかしそれで良しとしなかったのは、たった一人。
「…知って、おられたのですか?」
 低く、押し殺した声。
 振り向くまでもなく、その相手が幸村であることは二人にはすぐにわかった。
「部屋で大人しく安静にしてなきゃ、駄目じゃないですか」
 左近は肩を竦め、おどけて言ってみせたが、幸村には通用するはずもない。
「何故、教えてくださらなかったのですか」
 その言葉に答えたのは、左近ではなかった。
 静かな問いかけだ。それに対する方も、静かに答えた。
「今のおまえに教えてどうなるというのだ、幸村」
 三成の言葉はいっそ冷たく聞こえた。幸村は俯いたまま拳を握っている。
 何かを言いたいのを、我慢している。いや、何を言いたいのか、それがわからないという様子だった。
「寝ていろ。話なら、後で聞く」
 そう言うと、三成は素早く廊下を抜けていった。左近だけが後をついていく形となり、残された三人は三成の後ろ姿を、彼が通った先をじっと見つめるしかできなかった。
「…幸村、三成の言うとおりだ。おまえの怪我は重いのだ。寝ていた方がいい」
 兼続の言葉に、幸村は頷かなかった。俯いたきり、拳を握りしめたきり、何も言えずにいる。小さな子供が無理に我慢でもしているような。
 慶次はやれやれ、というようにため息をつくと、兼続にだけ声をかけてその場を後にした。
 しばらく歩いて、ふと見上げれば月が煌々と輝いていた。
「厄介な奴らだねぇ…ほんとに」
 長篠で助けてから一度だって、その見解が変わったことはない。
 どれだけ戦で奮戦し、英雄扱いされたところで、本人には何もかわりはないのだ。
 長篠で、助けたのは生きる意志があったからだ。生きようと、槍に手を伸ばしていた。だから助けた。あのまま織田に残り、のうのうと天下を見届けるよりは、彼を助けたことにより、帰る場所も何もかも失って、ただの戦さ人になった方が面白い。
 きっともうすぐだ。
 あと少し、きっとあと少し何かがあれば。
 あの戦いの闇から抜け出して、突き抜けた空が見える。


 陣羽織を脱ぐと、三成はそれを畳の上に放り投げた。
「万事、解決」
 その様子を見つめていた左近が口を開いた。先程、入り口のところで三成がそう言ったのだ。
「で、間違いありませんな?」
「ああ」
「それはよかった」
 ―――処刑場で、三成は急襲された。とはいえ、事前情報として知っていたこともあり、迎撃も成功した。
家康の斬首は刻限通りに行われ、首を刎ねられた。
 その瞬間を狙った服部半蔵も、三成自身が討ち取った。最後まで、半蔵が何をどう考えていたのか、三成にはわからなかった。
 極端に言葉少なく、死ぬ瞬間でさえも、何も残さなかった。
 致命的な一撃を食らったにも関わらず、半蔵はまだ目的を見失ってはおらず、家康が斬首された後も、彼の首を晒されぬように奪還しようと試みた。
 見上げた忠誠心だ。が、結局それは成らず、三成の追撃に倒れた。
 その瞬間、場は静まり返り、民衆たちはどう反応すべきなのかわからず、固まったようにこちらを見るばかりだった。
「ああいう者もいるのだと思った」
「似て非なる者、ですよ。殿」
「……」
「あれも徳川から見れば義に生きた者です。心の中の大切なものが、家康本人の下す命であり、あれ自身が光で、己は影。絶対なのは下された命で、それを遂行する」
「…理解は出来ん。する気もない。が…最期の瞬間まで家康の命を遂行しようとしたのだ」
 あの時、三成は言葉に詰まった。この期に及んで抵抗することに、何の意味があるのか。たとえここで家康を生きて連れ出せたとしても、再起など図れようはずもない。
 東軍で現在、まだはっきりとした処遇が決まっていない奥州の伊達に助けを求めたところで、下手をすれば家康の首を手土産に西軍に寝返られる可能性は十分ある。
 家康とて伊達を信用などしていないだろう。
 しかし、それでも彼は家康の命をただ遂行する。それだけの為に抗った。
 それに対した三成の中では、ずっと憤りがあった。しかしそれは、果たして何の為の憤りか。これだけの男が決して家康以外に仕えないことか。その命を散らすことか。無駄な抵抗を試みた事に憤りを覚えるのか。
 わからなかった。
 だから自然と出た言葉に、三成は己自身驚いていた。
「涅槃で家康に伝えろ。…数の支配も力の支配も、戦国も終わった、と」
 三成の言葉は決して大きくはなかった。
 しかし、誰も彼も、しんと静まり返っていたその場で、彼の声は確かに民衆を圧倒した。
 あの瞬間が、まさに戦国の終わりだったのかもしれない。
「さて。これからが大変ですな、殿」
「ああ。頼りにしている」
 左近はその言葉に苦笑した。そして一つため息をつく。
「…まったく。本当に良かったですよ、殿」
「…ああ」
 幸村にああいった形で問い詰められて、左近は当然うまく躱す言葉を持っていたが、あれ以上使う気になれなかった。
 何かがあることは知っていたろうに、誰からも告げられずにいた幸村の衝撃もいかばかりか。しかし知っていて黙っている方も辛かった。わかってくれとも思わないが。
「すまなかった、左近」
「素直ですな、ずいぶん」
「…たまにはな」
「じゃあついでに一つ、左近は頼みたいことがあるのですが」
「なんだ」
「幸村に弁解を頼みますよ。殿じゃなきゃ、出来ないでしょう」
「……わかっている」
 左近の言葉に、三成は双眸を閉じた。
 幸村の暗い瞳。はじめて見る、あれは感情が爆発しかかっているような目だった。いつも一歩ひいて、控えめにしている男がはじめて、他人を詰った。
 たとえば。幸村を無理やり抱いた時ですら、あの男はそんな顔をしなかったのに。
 何に対してあんな風になったのか。
 自分に、何も知らされなかったことか。
 役に立てなかったことか。
 どちらにせよ。
(自惚れてもいいのだろうか)
 自分が、彼の決壊しかかっている世界の真ん中にいて、突き動かそうとしている。そう思っていいのだろうか。
「…怖いな」
「何ですか?」
「戦と違う。策も計算も何もない」
「それで、いいんじゃないですか」
 たまにはただぶつかってみたって、そして今までずっと避けてきた、真正面から誰かとぶつかりあうことを。
 今度は、お互い向き合えるだろうか。正面から。逃げられないで済むだろうか。
 考えるだけで怖い。だが、きちんと向き合いたかった。
(やっと、だ)
 ずっとそうしたかった。しかしそうできなかった。邪魔なものが多すぎた。
 たとえば、そう。自分の心のわだかまり、とか。
(やっと、おまえと向き合える―――やっと、だ。…幸村)



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