天上の 27




 伏兵として紛れ込ませた兵たちは皆、一見して近隣の村の者のように見えた。家康の処刑までは決定から幾日もなかった。
 三成が立ち会う必要はないのではないか、と兼続に言われたが、三成はそれに対し、お互いの首を賭けて合戦に挑んだのだから、立ち会うべきであることを主張した。
 徳川方についた者たちの中で、この日が最後のあがきとなるはずだ。三成は用意を済ませると、いつも差している脇差を抜き、その刃の状態を無言で確認した。
 これを最近使ったのは、幸村で、あの時も三成の命を狙ったのは忍びだった。大概縁があるのかもしれない。
 刃物の切っ先を眺めて、心を落ち着かせることなど三成にはあまりないことだ。しかしこの時はそうしたい気分で、波のない穏やかな心境でその刃を眺めた。鈍い光。使う瞬間が来るかはわからないが、それがあることを確認しておきたかった。
 案外、不安なのかもしれない。心が凪いでいるようなつもりでいたが、見栄でそう思い込んでいるだけで、実際のところは違うのかもしれなかった。
 ふとそうしていて、気配を感じた。
 静かに振り返れば、そこには慶次が立っている。そういえば兼続がこの屋敷で傷が癒えるまでいるということは、すなわち彼もいるということだった。
 忙しさにかまけて、すっかり忘れていたが。
「ずいぶん大人しいな、前田」
「…ずいぶん熱心に検分してるもんだから、見ちゃいけないもんでも見ちまったかと思ってたところだ」
 三成の方から声をかけてやれば、慶次は調子を取り戻したように肩を竦めてそう言った。彼が上掛けとしてつかっているのはどうやら女物の上掛けのようだった。彼の身体には小さい。どうせこの屋敷にいる間に、もらったりしたものなのだろう。
「珍しいねぇ。あんたが」
「悪いが、これから家康の処刑だ。貴様と悠長に話している時間はない」
「おう、そうだったそうだった。成る程な」
 だからか、と一人で納得したらしい慶次は、しかし何かを透かし見ようとするような目で三成をじっと見つめる。その視線から意識を逸らすためか、三成が口を開いた。
「―――…前田、それは誰の上掛けだ」
「あん?あぁ、これか。北の政所からだ」
「そうか。見覚えがあると思ったが」
「あまり着なかったんだとよ。だからってこんだけでかい図体の男にくれてやることもねぇと思うがね」
「秀吉様からいただいたもののはずだ」
「勿体無くて着れなかったらしいな。俺が羽織って適当に歩いてくれてた方が、秀吉のことを思い出す奴も多いだろうとさ。面白い人だねぇ」
「…昔、秀吉様に聞いたことがある」
「………」
「何のために天下を取るのか、とな」
 あの時、秀吉はたしかに一瞬真面目な顔をした。すぐにいつものおどけた調子に戻って笑っていたが、あの一瞬はまさに彼の本音が見えた。
 そして、実にわかりやすい言葉だった。
「皆が笑って暮らせる世を作る為、と言われた」
 そういう約束なんさ、とどことなく遠くを見つめるようにそう言った秀吉は、たしかに天下を統一した。しかしそこまでだった。そこまでではあっても、伝わっているものはある。
「あんたはどうなんだい?」
「今更、聞くまでもない」
 三成はそう言うと、不遜に笑った。
「大一大万大吉とは、そういう意味だ」
 それだけ言い置くと、三成は慶次をその場において部屋を出た。今日は日陽射しがきつい。まるで夏のようだった。
 空を見上げ、季節だけが逆戻りしたような天候に三成は眉間に皺を寄せた。
 そして残された慶次は、その三成の後ろ姿を眺めて、妙な違和感を覚えていた。処刑に、斬首に立ち会うだけにしては重装備の上、脇差を検分している時はまるで何かを覚悟しているように見えた。
 慶次は、自分のこういう勘は当たる自覚がある。
(…何かある、か)


 

 兼続はその日、幸村のもとに来ていた。他愛のない話に盛り上がり、こちらは平和そのものだった。
 もちろん二人とも、今日が徳川家康の斬首の決行日であることを知っている。それに三成が立ち会うことも、知っていた。
「幸村は誰からのものだと思っているのだ?」
「…なんとも」
 匿名で贈られた茶器を眺めて、兼続は意地の悪い質問をした。わかっているから幸村もはっきりとは答えない。
「まぁ、こんな質問をするのも馬鹿らしいほど、奴らしいが」
「そうですね」
 わざわざ匿名にする必要などないだろうに、と兼続は笑った。口実ならいくらでもあるのだ。友でもあり、また戦で幸村は誰よりも武勲を挙げた。
 その褒美とでも言って渡せばいい。
 もちろん、三成はそういう風に建前を作りたくなかったのかもしれないが。
「幸村たちが全く顔をあわせていないと聞いたからな、しかしこれを見て安心した」
 口に出して、ちゃんと気持ちを伝えろと言った時、それでも三成はしばらくはそうしないだろうと思っていた。
 ある程度、心に余裕ができてから動くだろうと。
 三成の様子では、心に余裕などいくら待ってもできないはずだったが、少しはそれを自覚していたのか。
「三成殿には申し訳ないことを…」
「幸村がそんな風に思う必要はない。三成のした事も仕方のない事だったが、幸村の態度は立派だ。おかげでおまえの話で持ちきりだ」
 幸村の手に、その茶器を返した。手に馴染みやすい質感の焼きが施されたそれは、名品であることはよくわかった。
 茶の作法に明るくない幸村には、あまりこういうものの価値がわかないが、それでも誰が見ても、これはいいものだと口々にそう言った。
 兼続や左近のような、三成と親しい者からすれば、その茶器をわざわざ選んでくる相手は三成しかいないと断言するし、親しくない者でも、この茶器の良さは通じる。
 素晴らしいものですな、と褒めそやす声を聞きながら、幸村はいつも内心、喜んでいた。出来れば三成にすぐに逢い、礼を言いたいほどだった。
 そして、皆がこれをいいものだと言うのだと、彼に伝えたかった。
 そう言われれば、胸が躍る。
 嬉しいのだ、と気づける。
 日ごろ、三成に対してそのような率直に褒める人間は少ない。だから余計に嬉しかった。
「そうだ、兼続殿。怪我の具合はいかがですか」
「私は別にさしたる事はない。それよりも幸村!おまえだ!」
「…面目ございません」
 兼続の傷は、さしたる事もないというほどの軽傷でもなかったのだが、幸村の怪我の方がよほど酷い。
 左近にしても兼続にしても、完治というには程遠いが、それでも傷の具合は良好だ。幸村は実際、立ち上がるのもまだ困難なはずだった。
「あまり無理をするな。寿命が縮む」
「…走ると、私の前に敵がいるのです」
「………」
「だから、進むのです」
 幸村はそう言って笑った。手には大事そうに三成から贈られた茶器を抱えていて、今この時、三成がこの場にいたらどう思うのだろうと考えさせられる。
「私の、信念は戦いの中にこそ、あるので」
「そうか。…ではちゃんと帰ってこいよ」
「はい」
「そうしたら、私と三成でおまえを叱りつけてやろう」
「…はい」
 兼続は困ったように仰向いた。幸村の笑顔は、まるで叱ってくれと言っているようで、それでは意味がないような気がしたのだ。
 まぁ、でも。
(これが、私の幸村に対する友情の顕れ、か)
 だから、どんな戦に出てもちゃんと帰っておいで。



 家康の処刑場に着くと、途端に殺気を感じた。
 どこからともなく感じられるが、あえて殺気を消していないことは窺えた。
 三成は着々と進む準備を眺めながら、ただじっと家康を見ていた。
 あの場にいることは、どんな気持ちだろうか。しかし今、三成も家康も立場は同じだった。公開して処刑される家康に対し、命を狙われている三成。
 斬首を執行する者には、何があってもうろたえず実行することを伝えてある。
 たとえ万が一が起こった場合にも、対処できるように、手はずは整えてあった。
 来るとしたらそれはどんな一瞬だろうか。
 誰もが注目し、他のことをおろそかにする一瞬。
 それは、やはり斬首の瞬間か。
 三成は表情を変えず、目だけで周囲を窺った。
 柵の外に群がる物見高い連中の中に、豊臣の軍の者がいくらか紛れている。
 三成の脇には二人、控えていた。彼らにははっきりと語っていないが、処刑の時にどんな騒ぎが起こるか知れないことを伝えてあった。
(どこからでも、来ればいい)
 それでも、勝つのは自分だ。
 徳川の誰でもない。
 気がつけば、日はだいぶ西に傾きはじめている。
 暑さは夏そのものだった。じりじりと日に焼かれる。それでも三成はいつものように涼しい顔をしていた。
 どこにいたものか、どこかで蝉のような声が聞こえてくる。それが煩い。
(…蝉?)
 ふと、違和感があった。季節はもう秋だ。いくら季節外れにしても、妙だ。
 ざわり、と体内の血流が一気に吹き上がるような感覚があった。
 あれは合図だ。忍びが動く、あれは合図に違いない。
 そして家康の斬首が始まる。罪状を読み上げ、辞世の句を書かせ、手順通りに事が運ぶ。
 しかし三成には、その声は聞こえなかった。
 蝉の声が、耳に張り付いたようになっていた。
 あれが、消えた時。
 来る。
 そう、それを確信した瞬間だった。
 蝉が鳴くのをやめた。しん、と静まる処刑場。
 そして、縄をかけられたままの家康の身体が、前のめりに倒された。たすきがけをした男が、刀を確認し、振り上げ―――。

 来る!

 三成の身体が、素早く動いた。柵の向こうから悲鳴のような声がする。
 斬首が決行される瞬間の悲鳴と、それから何かが柵を飛び越え、こちらに疾風のように駆けてくる。
 黒く肌を多く隠す装束。闇しか見ていないような目。
 誰かが止めろと叫んだ。しかし止まらないことは三成にははっきりわかった。
 数人、立ちはだかった者が恐ろしく速い刃の餌食となって血を噴き倒れる。三成は鉄扇を握った。
 忍び―――服部半蔵が、鎖鎌を振り上げる。三成はそれを受け止めるように攻撃をふせいだ。

 瞬間、耳に届いたのは、刃が振り下ろされ、肉が断たれた音だった。



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