天上の 26




 家康の斬首の日が決定し、事は早急に進められた。
 幸村と三成は、わざとらしいほどわざとらしく、まだ顔をあわせていなかった。幸村の怪我は重傷だったのだから、床から出られない。幸村と顔をあわせない方法など簡単なことだった。
 三成が、幸村を見舞いに行かなければいいのだ。
 言葉を、うまく口に出来るようになるまでは、と思っている。
 せめてこの気持ちが、うまく言葉に出来るようになって、そして、当面の厄介事が終わったら。
 幸村の話は相変わらず聞く。
 最近では、幸村のもとに誰からのものかわからない贈り物が届くのだそうで。
「名乗ったらいいじゃないですか。別に恥ずかしいことでもないでしょう」
「うるさい。おまえは目の前の仕事に集中しろ」
 しかしそれが、三成からのものだということは、三成と幸村の両者と親しい人間には大抵知れている事だった。
「何を贈ったんでしたっけ?」
「うるさい」
「照れなくたっていいじゃないですか」
 左近の傷も、まだ良くはなっていない。動かそうとすると引き攣れたような痛みがするのだという。ただ、口も頭も達者なのだから、と三成がたまった仕事をたんまり持って押しかけてきたのだった。
 関が原の直前は、多忙だった事もあり、出来ればもうちょっと怪我人として扱われたかった左近は、いい話のタネだとばかりに三成の話題を持ち出していた。
「照れてなどいない!そもそも俺が贈ったなどと勝手に決めるな!」
「殿、左近は殿の趣味は大抵存じております。残念ながら、幸村に送った茶器などまさに石田三成の選び抜いた品という風情の一品で」
「おまえのそれは思い込みだ!」
 そうは言うが、実際幸村に茶器を贈ろうなどと考えるような者は、三成以外にいないのだ。
 武勇で知られる幸村は、しかしあまりそういった茶の作法などに明るくない。武家に生まれた幸村は、真田の家の立地的な問題か、戦に出ることの方うが多かったのだろう。
 それこそ、三成と正反対の生き方だったはずだ。
「ところで殿。残党はどうしました」
「家康の血縁の者は多い。時間はかかるな」
「でしょうな。ところで殿。いい話と悪い話がありますが、どちらをお聞きになりますか?」
 左近の言葉に、三成は眉間の皺を深くした。左近のこういう物言いは始めて聞くものだったが、どちらも内容としては決して手放しで喜べない類のものだろう。
 三成はしばし考えるふりをして、十分な間をとってから答えた。
「悪い話を聞こう」
「徳川の残党が、殿を狙っております」
「…ほう」
「おそらく、忍びでしょう」
 左近の情報源がどこにあるのかはあえて問わなかった。左近からの情報ならば信じる。三成の脳裏に、関が原で己の命を狙ってきたあの忍びのことが思い出された。本多忠勝が徳川の守護神として、光のような存在として語られるとすれば、もう一人、家康には忠義に篤い家臣がいる。服部半蔵。
 忠勝とは違い、彼は地に潜り彼の行く手を常に陰から支える者だった。それゆえに、家康も決してその名を表に出さず、褒め称えることもない。
「家康の斬首の日だな」
「でしょうな。家康なくては徳川軍も団結はできないでしょう。おおっぴらに大事にしてくれますよ」
どうします、と左近が顎をしゃくった。左近か何かを考えながら口にする時の癖だ。
「誰にも伝えるな」
「ほう」
「兼続にも、幸村にもだ」
「しかし」
「怪我人に伝えたところでどうにもならん。必要ない」
 左近にも、三成が言おうとしていることは理解できた。もしこの話を、幸村に知られれば、あの身体で這い蹲ってでも三成を守ろうとするだろう。
 兼続は無理をしないかもしれないが、どうせ幸村に報せないのならば、兼続にも報せる気はない。
「そう言うと思いまして。この情報を仕入れた奴にも、そのように伝えてありますが」
「そうか」
 三成は何の感慨もなさそうに頷いた。
 左近にしてみれば己の主の危機だ。もう少しそれらしい態度にも出てもらいたいものだったが、それはそれで、やりにくい話でもある。
 今現在、三成は実質政事の概ねを預かっている。秀頼が少しばかりおっとりしすぎているところがあるからか、とにかく彼は政事の要だった。
 しかしそれが霞むほど、真田幸村の存在が大きかった。
 豊臣に真田あり、とまで言われるようになっている。また、影響されやすい秀頼もそのように思っている節があった。
 幸村が英雄のように扱われること自体には、左近に異論はない。
 しかしその光の強さは調節しなければならない。
 そうでなければ、三成が軽んじられる。武勇よりも机に向かって計算している姿の方が余程似合う男だ。
 その彼が、豊臣秀頼の一番の家臣である事と、そして幸村が偶像的にでも、とにかく英雄として扱われ、さらに人柄の面で人望篤い直江兼続。この三人が揃って豊臣の要として扱われなくてはならなかった。
 だから、ここはどれだけ恐ろしくてもしっかり一人で立っていてもらわなければならない。
 しかし、とにかく命が危ないのだ。そう思えば、やはりもう少しどうにか、と思わないこともない。
「兵の数は当初の予定通り。ただし、伏兵を置く。民衆にまぎれさせろ」
 三成はそれだけを策として告げた。
 伏兵の配置が一番難しい話だった。突如沸いて出た民衆では感づかれてしまう。かといって、今から近隣の村や里に馴染ませる時間もなかった。
 家康の斬首は一刻も早く終わらせねばならないのだ。
「真田信之は、どうしている?」
「まぁ、どうもこうも。あの姫はまだこちらで預かっていますからね」
 真田信之への処置については、すでに決定されていた。
 伊達などの徳川に与した中でも特に強大な力を持つ伊達家への措置はまだ決まりかねていたが、真田信之については、領土の大半以上を没収する事となった。
 しかし幸村のはからいによって、彼は斬首も詰め腹も免れた。
 家康の斬首さえ終われば、稲も戻す予定となっている。それ以上早く、彼女を自由にしてやる事はできなかった。
 忠勝の娘であり、女だてらに戦場を駆ける弓の名手である。残党が彼女を利用する可能性も十分考えられた。
 彼女自身は、幸村の寝所に忍んだ際、彼に刃を向けなかったことを考えれば、そうそう軽率なことはしそうになかったが、しかし三成は信用していないようだった。
「ならば、良い」
 真田信之がこの処刑に、家康を奪還する為立ち上がることもないだろう。
 直接言葉をかわしたことはなかったが、彼は物事を良く考える男だという。己に対する措置が、誰の働きによるものか、少し考えればわかることだ。
「いいか、報せるなよ。誰にも」
「仕方ないですな」
 三成は立ち上がると、左近に言った。いつもの不遜な態度だ。
「クズ共には負けんよ」
 そう言い置いて、左近の部屋を出た。
 ここまで完全に敗北を喫したはずの徳川に、この期に及んで天下が転がっていくこともない。ましてや、徳川方についた残党たちに、差し出せるような命もない。
 それらの面倒事が終わったら、幸村に逢いにいこう。
 三成はそう決意した。彼のその時の表情を見る者は誰もおらず、だから誰も知らない。
 強く前を見据え、歩く姿は何かの不安を消し飛ばすような、彼らしくない明るさをたたえていた。




「…ってわけだ」
 残された左近は、一人、呟いた。誰もいないはずの部屋に、軽い音がして目前に忍びの女が現れる。
「まぁ、今回は幸村の危機ってわけでもないしな。黙ってることに問題はないな?」
 左近の質問は、どちらかと言えば確認に近かった。
 くのいちは、途端に緊張をといて一つ大きなため息を漏らす。
「そりゃそうよ。幸村様にこのことを伝えたら、絶対出ていくもの。言う気なんて、元々ないわ」
 今の彼女は、表立って幸村の傍についているわけではない。
 出来る時に出来るだけ守る。何かある時は必ず助ける。見えずとも彼の手足となって戦うのが、彼女の役目だった。
 関が原に行った時は、彼がその意志で馬を駆けさせた。
 その先で、彼は大いに戦って傷を負った。大きな傷も小さな傷も、あわせたらきりがない。
 一つ何かに拠って立つと決めた時、幸村は妄信的にそれを守ろうとする。長篠の時もそうだったのだろう。
「辛いところだな」
「あんたもね」
 三成にもし何かあった場合、幸村は自分を責めるかもしれない。
 知らなかったというのは、彼の場合免罪符にはならない。知らされなかったことまで含めて、責めるのだろう。
 幸村に、このことを報せるわけにはいかなかった。しかし左近はこの情報を知った上で知らないふりをしなければならない。もし三成の身に何かあった時、本当に責めなければならないのは己自身だ。
「ま、仕方ないってもんだ」
 手元に残された仕事のいくつかを目の端でとらえながら、左近は苦笑した。
 こうして布団から抜け出せずに、もう幾日が過ぎたことか。その間にも状況は刻一刻と動いている。東に流れかけた天下への風を呼び戻し、その世を磐石なものにするには、まだまだ時間がかかりそうだった。
 それだけやることが多いということだ。面倒事ばかりが次から次へ飛び出して、しかし三成はそれをいつもの不機嫌面で淡々と対処していく。
 今でもすでに、いくつかの制度を三成は新たに作り出しているところだ。
 そういうところ、誰かもっとちゃんと見てやってくれないものか、と思って苦笑する。
 あの不機嫌面では気づく方が無理か。
(ま、しかし。幸村は気づくんだろうよ)
 そう考えれば、実に幸せな人でもある。



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