天上の 25




 真田幸村が目を覚ました、という話はまたたくまに西軍、豊臣方の武将たちに知れ渡ることとなった。
 その時、幸村のもとには決死の覚悟で徳川方の武将、真田信之の妻であり、人質である稲が彼の枕もとに忍び、彼に夫の処遇について、寛大な処置を懇願したという話も、もはや美談として語られた。
 しかも、その場に居合わせた石田三成の制裁に対して、怯むことなく稲を庇い、負傷した身体で守りきった。
 さすが、真田幸村は日の本一の兵よ、と。
 誰もが口を揃えて話題とするようになった。
 その影で。
 三成は多忙を極めていた。
 やらなければいけないことはたくさんあって、三成はそれらを一挙に引き受ける形で仕事をしていた。忙殺されている間は何も考えなくていい。仕事で殺気だっていれば誰も幸村の話題を振ってこない。
 決していい状態とは言えないが、幸村のことを考えたくなかった。
 だからその日、兼続がまだ怪我の完治もしていない状況で三成のところに現れた時には、三成は厄介なのが来た、という顔を隠しもしなかった。
「忙しいようだな」
「わかっているなら帰れ」
 三成は兼続の方など見向きもせずにそう言った。兼続は兼続で聞く気などないから、清々しいほどの笑顔をたたえて、三成の政務を執り行っている机の横に陣取る。
 山積みにされているのは今後の豊臣の世を磐石なものにしていくための、あらゆる書状だった。
 それを何の気なしに一つ手にとって、適当に眺めてみる。
 三成は一瞬何かを言おうとしたが、ここで何かを言っては兼続の思うつぼだと思ったのか、開きかけた口をまた閉じて、己の政務に没頭することにしたようだった。
 勿論そういう行動に出るだろうことは兼続にもよくわかったので、満面の笑顔でわざとらしく、
「おっと」
 などと言って、書状の山を突き崩した。
 崩れた書状の山は当然、仕事をしている領域も突破して侵入してくる。さすがに無視しきれるものではなかった。
「兼続…貴様」
「三成、友人の訪問に対して顔も上げんとは不義だぞ。人と話をする時はまず人の目を見ろ」
「俺に話などない」
「ないはずがない。あるだろう?その煮詰まった頭ではまともに考え事だって出来んのではないか?私が手伝ってやるぞ。例えばそうだな、真田幸村のこととか」
 その名を出した途端、三成が机を叩いた。唐突なその行動に、慣れていない者はみんな身をかたくするような、拒絶の音だ。しかし兼続は不機嫌な時の三成の行動への対応も手馴れたものだった。
「…その話なら、必要ない」
 やはりそうか、と兼続は内心ため息をついた。
 幸村が目覚めたことを、手放しで喜ぶとしたらまず三成だと思っていた兼続は、幸村が目を覚ました際の一連の出来事の話を人づてに聞いて、これはまた面倒なことになったと思った。
 しかも三成はその後一度も幸村と会おうとしていない。
「幸村のことだぞ?あるだろう?」
「ないと言っている!」
 三成は頑なだ。
「三成、おまえ何か悪いことでもしたのか?」
「何!?」
「だから幸村と顔を合わせられんのか?私が聞いた話では、幸村のところに本多忠勝の娘がいたのだろう?本多忠勝は幸村が討ち取ったのだ。首をとると考えるのが普通だろう?」
「……っ」
「だからおまえがその時、誤って幸村を打ったとしても、だ。おまえが後ろめたさを感じることはないのではないか」
「…勘違いを、するな。俺は別に後ろめたいなどと言っていない」
「ではなんだ?」
「………」
 途端に黙り込んでしまった三成に、兼続は今度は本当に大きなため息をついた。
 戦の前に三成から聞いた話に、兼続は少なからず驚いていた。
 聞いたのは、三成が幸村に感じる劣情と、そのためにしてしまった事。その話を、三成本人が語った。
 こういうことはひた隠しにする奴だと思っていたから、その驚きは新鮮だった。
「俺は」
 しばらく黙りこんでいた三成が、ようやく口を開いた。
「…あの状態で、幸村が、また、誰かのために…身体を張ったのが嫌だっただけだ」
 三成が俯いて、絞り出すようにそう呟いた。
 もう見ていられなかった。
 だから、もう何も聞きたくなかったし、顔を見たくもなかった。
 いつもいつも、幸村は誰かのために動こうとする。
 それはもう、見たくなかった。だから、目を覚ませば、そのように生きなければならないことがわかっていた。そういう風に、生きなくてもいい方法があればいいと思っていた。
 しかし幸村のもとには、結局そういう話が舞い込んでくるのだ。
 そう思うと、自分の無力感に苛まれて、どうしようもなかった。
「…なら、そう言ってやれ」
「……」
「言ってやれ。おまえが、そう思っているのだと、伝えてやれ」
「………伝えられる自信が、ない」
「あのな、三成。私やおまえが掲げるのは義だろう?形のないものだろう?そういう不確かなものに、人は惹かれはするが、まだ弱い。誰かがそれを形にしてやらねばならん。具象化できる何かがあればいいが、ないのなら、語るしかないだろう?どれだけ語っても、足りることなどないのだ。だから、おまえはちゃんと幸村に接してやれ。伝えてやれ。幸村のことを本気だと言うならそうしろ」
 兼続は怪我のない左の手で、三成の肩を強く掴んだ。俯いている三成を揺さぶって、言い聞かせる。
「…俺は兼続とは違う」
「ああ違うな」
「俺はおまえのように口が達者ではないのだ」
「知っている」
「…伝わらんのなら、言えぬ」
「おまえの口が悪いのも、口下手なのも、よくわかっている。幸村もな」
 その言葉に、三成がゆっくり顔を上げた。
「俺は…」
「好きなんだろう?」
 幸村が。
「…好きだ」
 よく見れば、三成の目尻が赤く腫れていた。今までずっと俯いていたからよくわからなかったが、泣いていたのか、それともそれをずっと我慢していたのか。
「こんな、言葉では伝わらんくらい。…好きだ」
 言葉にすると、この想いはただの色恋沙汰になりさがってしまう。
 この想いは、そんなものではない。表現できる言葉を知らない。言葉を重ねて重ねて、重ね尽くせば伝わるのだろうか。何もかも、あますところなく、幸村に。
 無理に身体を重ねた時も、思った。嫌がる幸村を組み敷いていた時も、己の劣情を無理やり押し付けていた時も、そうしたいわけではない、とずっと思っていた。
 ただ、幸村がそこにいることと、彼の肌から感じる熱と、そういうものが、自分の中から伝えるべき言葉を消していった。言葉で何を伝えるよりも、その時は幸村が、ただ欲しかった。
 伝わるわけがない。否定されて当然だ。
 たくさん言葉を重ねなければ、この想いは伝わらない。
「兼続」
「ん?」
「おまえが、死ななくてよかった」
「ほう」
 三成の言葉に、兼続は驚いたように声をあげた。
「それは私も思っている」
 そう、これは誰もが同じ思いだ。
「三成、おまえも、幸村も、誰も死ななくてよかった」
 だからこうして話が出来るのだ。だから今、こんな話が出来るのだ。
 天下分け目の関が原に、豊臣は勝利した。
 後は生き残った徳川の残党の掃討と、豊臣の世を今後長く続けるための、その礎を作る。
「さて、三成。今後について詳しく話したい」
「奥州のことか?」
「まぁな。こちらとしても、伊達の出方を窺っていつまでも兵装さておくわけにもいかんのだ。冬にでもなってしまえば、戦を仕掛ける気もなくなろうが」
 やるべきことはたくさんあり、一つ大きな合戦が終わっても、それで全てが終わったわけではなく。
 おそらく次は、あるとすれば奥州だ。
「今回の戦では、伊達軍も大きな痛手を負っている、が…。案外奴を支持するという者が多い」
「そう、だから秀吉公も、家康も奴をどうにもしなかった」
「その判断は正しいか?」
「あの時期においては正しい判断だった。さて今はどうだ?」
 兼続はそうやって三成と話していて、思う。
 三成はあまり感じていないのだろう。戦場において、幸村ほど戦った男を目の前にして、多くの負傷者たちを見て。
 しかし三成自身が、あの戦では総大将として立ち、戦ったのだ。本陣に詰めていたとはいえ、一度は攻め寄せられた。
 誰もが、あの戦の時、石田三成の首を狙っていた。あの関が原にいて、全ての人間の標的となっていた。
 だからこそ、生きていてよかったと思うのだ。
 幸村だけではない。自分だけではない。三成も、幸村も、自分も。
 生きて、またこうして義の世の為に語り合えるのは、幸せなことだ。
 そしてこの場に、幸村もいればいい。
 兼続と三成が語り合うのを、ただ聞いていてくれるだけでいい。時には不器用に語ってくれればいい。

 人の心にある大事なものを守りたい。一人が皆の為、皆が一人の為に尽くせば、天下は幸せになる。

 あの時、信じられんといっていた男が、そういう風に生きている男を特別大事にしたいと願っている。そうして、大一大万大吉の文字を、旗印にして戦っている。
 形のないものに人は縋れない。けれど、それを心の中心に据えて戦うことは出来るのだ。
 あの時、『義』と口にして、それでも不安そうだった男が、義に拠って、まっすぐに、しかし不器用に生きようとしているのが。
(嬉しいよ。そうやって、二人が、少しずつ変わっていくのが)
 だから早く、皆で笑って暮らせれば、いい。


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終わりが見えてきました。