ああ、ここは夢だ。 幸村はふとそう思った。 彼のいる場所は広い、どこまでも続く草原のような場所だった。 見下ろせば風に揺れる緑が、まるで波のようだ。 そんな光景を、幸村ははじめて見る。美しくて明るくて、でも遠い。そんな光景だった。たしかにそこに立ち、自分はその草原の中の一つのはずなのに、それなのに何もかもが酷く遠い。 誰かいるのか、誰もいないのか。風は緑を揺らし、緑の揺れる音が耳を打つ。 (綺麗だ) だけれども、何かが足りない。何が足りないのかはわからない。 ただ、どうしようもなく寂しくてゆっくりと歩き出した。足りないものを見つけ出したかった。 何故こんな場所にいるのだろう、と唐突にそう考える。その結果が、夢なのだ、という結論だった。 そうだ。自分はこんな美しいところにはいなかった。 関が原はどうなっただろう。豊臣が勝利したことは覚えている。家康が降伏し、全てが終わった。自分は、己で選んで関が原に向かい、戦った。 全てが終わった時。 なんで、生きているのだろう、と。 そして、勝鬨のあがる中、割れるような声が轟き、地を揺すっている間にも、忙しく立ち回る三成の背を見つめて、唐突に感じたのだ。 自分が生きている理由。 そこへ思い至った瞬間、風が強く吹きぬけた。正面から吹く風は、何もかもを吹き飛ばすかのような勢いで、幸村は頭を庇うように姿勢を屈める。 そうやって、風から身を守るようにして、はじめて気がついた。 美しい、この光景。 緑揺れる優しいけれど遠い光景。 この中に足りないのは。 (あの人の、姿だ) だからここにいてはいけない。ここにいては逢えない。顔を見ることも、声を聞くことも、その背中を見つめることも出来ない。 夢から目を醒まさなければ。 そう思った途端、周囲が明るく光を増した。次第に輪郭すら失われ、光に埋没するように何もかもが消えていく。 は、と覚醒した。 その覚醒は唐突で、そして突きつけられた現実は酷く現実感のないものだった。 暗い部屋。締め切られ、蝋燭の炎だけが頼りなく揺れている。 そして己を見つめる視線。 身体は、鉛のように重かった。あちこちが痛む。その痛みが熱を伴っていて、夢の中より余程不自由だった。 なぜこんなに、と考えれば戦で負った怪我のせいだと思い至る。 視線だけを彷徨わせ、己を見つめる誰かを探した。蝋燭の炎だけでは明かりが足りず、よく見えない。 が、部屋に僅かに香る気配が、女のものであることを知らせた。 幸村のよく知る女性ではない。 が、知らないわけでもない。 「…どなた、ですか」 もしや生者ではないのかもしれない、と幸村がそう感じるほど、女からは生きているものの気配がしなかった。 しかし、誰何の声に、その気配はゆっくりと動いた。 蝋燭の炎の、僅かな明かりの中にその女の姿を見る。 「…義姉、上」 何故そこにいるのか。幸村にとってはこれもまた夢の続きかもしれないとそう思うほど、彼女の存在は意外だった。 そして、その相貌に浮かぶ表情の一つからしても。 「…傷の具合は、どうです」 声は掠れていた。 ぴんと背筋を張り詰めて、彼女は幸村を見つめている。 痛みはいまだ、彼の身体を蝕んでいる。あの戦からどれほど経ったのだろう。幸村の傷の全てには丁寧な処置がなされていた。もうここは戦場ではない。 「……情けない、話ですが」 「痛みますか。…生きている、証ですね」 身体を、起こそうと試みた。まず腕に力をこめ、腹筋に力をこめ、そして上半身を引き寄せるように。 しかし肩に受けた矢尻の傷が痛む。小さく呻くと、彼女が―――稲が、ゆっくりと手を差し伸べた。 痛みは、生きている証。そうだ。生きているから感じるものだ。命が失われれば、もうそんな風に感じることもなくなってしまう。 稲の手に助けられ、ようやく上半身を起こしたが、そうしていればそれだけあちこちが痛んだ。本多忠勝にやられた下腹部の傷などは抉るようにまだ痛む。 「あなたに、お願いが、あって来ました」 痛みに顔を顰め、それをやり過ごそうとしていれば、稲が静かな声でそう言った。蝋燭の炎が揺らめいている。そのゆらゆらと揺れる明かりに、彼女はまるで恐ろしいもののように映った。 幸村が何を、と問う前に、彼女が言う。静かに三つ指をつき、頭を垂れた。 「真田信之を、助けてください」 真田は血を分けた兄弟が、徳川と豊臣とに分かれ戦った。信之は東軍。幸村は西軍。西軍が勝利をおさめた今、徳川方の人間の命運は、風前の灯火だった。あれだけ大きな戦があり、完全に徳川と豊臣とに分かたれた。きつい処罰を与えてやらねば、世はおさまらない。 幸村は今の今までここで眠っていたから、今どんな状況になっているのか、それすらもわからなかった。 ただ、稲の様子から彼女がどれだけ思いつめているかは理解できた。 「…顔を、上げてください。義姉上」 しかし稲は顔を上げない。 「義姉上のお気持ちは、決して無駄にいたしません。この幸村が、必ずや」 そうして、ふと思い至った。 稲は本多忠勝の娘だ。彼に似て、まっすぐな心根の女性だという。曲がることを知らず、自信に満ち溢れ。それは、あの忠勝あっての事だろう。 その父親を、幸村が討ち取ったのだ。 彼女の悲しみはいかほどのものか。 「あなたの、父。本多忠勝殿に誓いましょう。必ず、お助けいたします」 「…父は……」 途端、稲の声が震えた。 「立派な、御仁でした」 あの戦場で対峙した時、たしかに幸村の心は奮えた。それは最強といわれた男だったからかもしれないし、同じ思いを抱いていたからかもしれない。 ただ、互いにつかえる相手が違った。それだけのことだった。 戦った相手の中、確かに褒め称えられる相手だった。 堂々と戦い、堂々と散っていった。彼との戦いでは、誰からも邪魔されることはなかった。それを不思議と思うことはなかった。 あれは、そういう戦いだったのだ。 「…ありがとう」 稲がぽつりと呟いた。 「…本当は、貴方を仇と思っていました。…この刀で、殺すつもりだった。でも、」 稲は言葉を切った。今までずっと、涙を堪えていたのだろう。それは堰を切ったようにあふれ出ていた。幸村は、ただじっとその姿を見つめる。 そうだ。彼と戦い、勝利した証がこの下腹部の痛みだった。今猛烈に痛むのはその箇所だろう。いまだ熱も持っている。 ただ、その傷は誇れるものだ。 この痛みも、生を謳歌している証だ。だから、どれほど痛もうが受け入れるべきものなのだろう。 そう考えた瞬間。誰かの足音が聞こえた。 幸村は顔を上げた。それは稲も同時だった。 襖が、軽快な音を立てて開いた。それは、明らかに不審者がそこにいるという確証を持った行動だ。そして現れたのは。 「三成殿…!」
左近に情けない心情を吐露した帰り、三成はふと足を止めた。 その先を曲がれば、幸村が寝かされている部屋にたどり着く。三成の独断で、幸村を、彼をすぐ近くにおいていた。だから、いつだって逢うことは出来る。 ただ、いまだ目覚めない彼の様子を見るのは三成にとっては恐ろしかった。 彼の周囲を勝手に話は空回り、誰もが本人ではなく、彼の武勲を見る。真田幸村がどれだけの男かは、三成はもうよくわかっている。 そしてどんな風に苦しんでいるのかも。 だから、顔を見ていこうか悩んだ。本音を言えばずっと傍にいてやりたい。 目覚める瞬間に傍にいて、優しく声をかけてやりたかった。 しかし自分の立場がそれを許さない。 だから、本当に一瞬。 三成の神経に、何か妙な感覚が引っかかった。それは、たとえるならば虫の報せとか、そういう類の何の根拠もないものだ。 その感覚は、明らかに幸村の眠る部屋の方角から感じられた。 三成はほとんど無意識に、走り出した。 幸村に何かあったのか。そう思うといてもたってもいられない。 そうして、部屋の前に立った。 眠っているはずの幸村の部屋から僅かに漏れる、会話。 何を話しているかは三成にはわからなかった。ただ、誰かがいるのは確かだ。 勢いよく襖を開け放ち、そして。 そこに、捕らえたはずの女がいるのを目にして、三成の中で何かがはじけた。 「貴様…!幸村に、何を…!」 「三成殿!違います!」 おそらく自分は今、般若のような形相だろう。幸村が目を醒ましたことを喜ぶよりも、そこに捕らえた女―――稲がいることに憤りを覚えた。 見張りの者は何をしていたのだ、何故ここにこの女がいるのだ、と。 「何が違う!この女は、人質なのだぞ!」 「三成殿、聞いてください!」 「良いのです」 ふと、声を荒げる二人の間を割って入る静かな声がした。それは稲のもので、どこか覚悟を決めたような声音だった。 「確かに、人質の身でありながら見張りの者の目を誤魔化し、ここまで忍んできました。申し開きは致しません。ここに来るまで、私は確かに真田幸村の首をとるつもりでいたのですから」 「き、さま…ッ!!」 戦で戦った時にも三成は稲を酷く手打ちにしてやろうとした。 しかしそれを左近に止められた。その結果がこれか、そう思うと三成のはらわたが煮えくり返る思いだ。 思わず、鉄扇を握り、それを力任せに振るった。 稲が双眸を閉じ、覚悟を決めたようにその処罰を甘んじて受けようとした瞬間だった。
鈍い音がして、倒れたのは、動けないほどの傷を負っているはずの幸村で。 「う…ッ」 「……ッ!?」 幸村の呻く声に、三成は必要以上に動揺した。そして稲も、予想しなかった幸村の行動に驚く。 「な、何を…!何故ですか!」 稲が幸村を助け起こすと、幸村は青白い顔で言った。 「三成殿。…この方は…私の、義姉上です。一つ、どうしても聞いていただきたい」 下腹部の痛みも、今打たれたこめかみも、肩の傷も、どれもこれもが幸村の中で痛む。痛みに言葉が途切れながら、それでも幸村は言った。 「兄、真田信之と、その妻、稲姫様に、何卒、寛大なご処置を」 その言葉に、稲は言葉を失った。 そして三成は、怒りのあまり真っ白になった頭で、幸村の続く言葉を聞いた。 「聞いていただけぬとあらば、この幸村。…三成殿と一戦交えましょう」 「その身体でか」 「はい」 「…幸村…!」 「お願いいたします」 幸村の態度は酷く頑なだった。 三成は震えるほど鉄扇を握り締め、歯を食いしばった。何故こんなことが起こるのだ。何故、こんな風に幸村は言うのだ。 何故、こんなにも。 何もかもが、遠いのだ。 「…ッ勝手にしろ…!」 「三成殿」 「幸村。おまえはもう喋るな」 「………」 「俺の怒りがおさまるまで、顔も見せるな。…頼む」 なんとかそう言うと、三成はまた部屋を飛び出した。 もう、どうにもならない。 この怒りはおさまるのだろうか。この苦しみはいつか癒されるのか。 泣きたかった。泣いて、叫んで、そうして。 今の思いを誰かに訴えられれば、どんなにか。 幸村の青白い顔が、三成を睨むその顔が、あまりにも冷たくて、何も言えなかった。 幸村が目覚めたことを喜ぶことも出来ず、誤って打ち付けてしまったことを謝罪することも出来ない。 「……ッ」 泣きたかった。ただ、涙は出てこなかった。
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