関が原の戦いは西軍、豊臣方の勝利となり、徳川家康は捕らえられた。 彼は決して申し開きはせず、豊臣方からの処罰を待っている。 敗走した徳川に与した者も多い。特に豊臣から離反した者たちは、豊臣からの処罰に震え上がっている。 「狸は生かしておいても良い事はない」 三成はぽつりと呟いた。彼の言葉に多くの者が頷く。総大将とは結局、全ての責任を負う人間のことだ。全ての悪事を背負い、全ての責任を負う。 武士の情けはかけてやるべきではなかった。 「市中引き回しの上、斬首」 その意見には満場の一致を見た。三成の言葉に対し、ここまで受け入れられることは少ない。家康という人間を皆が憎んでいるからではなく、今はただ、三成の威光が恐ろしいだけのように思えた。 (俺は別に何をしたわけでもないというのに) 評定の場において、左近も兼続もその場にはいなかった。もちろん、幸村も。 皆、傷を負い養生している。 関が原の合戦が終わり、残ったのはそういった残務処理だった。 三成にとっては戦の場が刀を握るものから机上で行われるものに摩り替わっただけで、忙しさは戦中よりも酷くなっている。 それが自分の仕事だ。これが自分の戦だ。わかっている。しかし、あの戦で鮮烈なまでな幸村の戦ぶりを見ては、何もかもがむなしく感じられた。 幸村が来なければ、負けていた。幸村がいたから、上杉が、兼続たちが到着するまで盛り返し、五分の戦いを繰り広げ、豊臣が勝った。 もし幸村が間に合わなかったら、市中の引き回しの上、斬首されたのは自分だったはずだ。 そう考えると、時折首筋に刃の切っ先を感じるような錯覚に陥る。 それを、その窮地から救ってくれたのは、幸村だ。 その幸村の話題は、あちらこちらから聞いていた。あの鬼神のような戦ぶり、と彼を褒めそやす者ばかりだ。 当然といえば当然だ。 幸村は関が原で、いわば英雄となったのだ。御伽話に出てくるような、敵を斬っては捨て斬っては捨て、そして苦難の末に敵との戦いに勝つ、子供の喜ぶ類の話のように。 そういう、語られる話は人の心を掴むものだ。 三成も、そうやって語る彼らのことを否定する気はない。 ただ、 (幸村、は…) 矢傷を負い、下腹部に深い傷を負い――― いまだ、目を醒まさない。
兼続の傷は思ったよりも深かった。とはいっても、致命的というほどのことはない。誰もがその絶妙な怪我に、さすが兼続殿、とよくわからない褒め言葉を残した。傷が癒えれば、おそらく元気に政務を執り行うことだろう。 「言わなくていいのかい?」 怪我のため、療養にといって兼続は上杉の領地には戻らなかった。 上杉は今のところおとなしくしている伊達家の動向をおさえる為、兵装を解いていない。そんな気の張ったところでは休めぬ、とは兼続の言い分で、慶次にしてみれば幸村のことが心配なのだろう、と思った。 「…言うも不義、言わぬも不義」 兼続はやれやれといった様子でそう呟いた。 「俺ァ別にどっちでもいいがね。俺があんたの共犯者であることにかわりはないさ」 「心強いな」 彼らの話題とするところは、豊臣秀吉、その人のことだった。 太閤にまで上り詰めた男は、世間的にはすでに死んだ事になっている。誰もそれを疑いはしないだろう。 だが、本当のところ、彼は今も生きており、あの関が原にも参加していたのだ。手勢は連れず、友人の雑賀孫市と、あの葬儀の際に舞を舞った巫女である阿国。そして奥方であるねね。この四人だけで、効果的に彼らは徳川の軍勢を混乱に陥れた。 秀吉の出現には、誰もが驚き慌てた。それでも戦意を喪失せずに立ち向かう者には、遠方から孫市が援護した。 その策を、兼続は本人から聞いていた。 だから、今の豊臣方において、秀吉が生きていることを知るのは兼続と、そして慶次だけだ。 戦いに勝利した今、その話を三成や、秀頼にしてやるべきか。 それが彼らの話題の中心だった。 「実際のところ、太閤殿などに今更出てこられても、同じ争いの種を撒くだけだ」 結局は、秀吉の策であったのか、と。 子である秀頼や、子飼いの将の三成の完全勝利とは目されない。そうなる可能性が十分にあった。 それを考えれば、教えることは得策ではない。 しかし、もし生きていることを知れば。 「…結局のところ」 慶次は黙っている。兼続は、自分の考えを纏める時、言葉を口にして悩むことが多い。それは、相槌なども必要なものではなく、ただ、自分の意見を纏めるためだけに必要な独り言だ。 「私は幸村の話題の一人歩きを、止めたいために悩んでいるのかもしれないな」 幸村の話題は、兼続たちにも届いている。思った以上に深い傷だった兼続は、しかし意識ははっきりともっており、どちらかというと誰かと語らう時間の多い方を喜んでいた。だから、次々と彼のもとには人が来て、そのたびに幸村の話題をしていく。 もちろん、彼が幸村と義の誓いをかわした親友であることを知っているからかもしれない。 「幸村はたしかに、いい戦いぶりだったさ。しかし、友から見れば気が気でない。私は困った奴は大好きだが、無茶をしてほしいわけではない」 関が原で、徳川本陣へ最初にたどり着いたのは、実質幸村の率いた真田隊であることは間違いがない。 真田隊の勇猛果敢なところは、幸村がいればこそだ。 仲間とすれば頼もしく、敵とすれば戦意を喪失するほど恐ろしい相手だ。 それは認める。しかし、友としての彼は。 「殴ってやったらどうだい」 「…ふむ」 「俺だったら、大切な奴が無茶しようとしたら殴ってやるぜ。友人なら、ありじゃないかい?」 「…そうだな。それがいい。わかってもらえるまで殴ってやろう。それから、たくさん感謝してやろう」 秀吉の生きていることは、結局二人の間で沈黙することとなった。 徳川方の武将などから、時折秀吉の亡霊が、などと口にする者もいたが、三成が信じるはずがない。 そもそも、秀吉の望みは誰にも報せないことだったのだ。 あとは余生を、ただ人として過ごす。大きな地位などに就いていた頃を忘れ、ただ、後は己が打ち立てた世を、その後の者に任せる。 それでいいだろう。関が原の戦いが、全てを物語っている。 どのような世が訪れ、構築されていくか。それを余生の楽しみとして、どこかで生きていく。突出しすぎた人間が、穏やかに最期を迎えるのならば、それはとても望ましい結論だろう。 「…で、幸村はまだ目を醒まさないって?」 「…そうだな」 たくさんの人間が、幸村の話をしている。だのに、その中心にいる人は、いまだに生死の境を彷徨っている。
家康の処遇を満場一致で決めた後、三成が最初に向かったのは左近の休んでいる部屋だった。 「…左近、具合はどうだ」 「は、熱は下がったようですが」 ようやく鉄砲で撃たれた傷の熱がひいてきている。幸村が言った通り、鉄砲の傷は熱を持った。左近が倒れたのは陣を引いた後のことで、一通りの仕事を済ませた後に倒れるとはさすが島左近、とまた彼を称える者も多い。 「そうか、それはよかった。おまえに頼みたい仕事がたくさんあるのだ」 「…そいつは楽しみですねぇ…。家康の処遇は決まりましたか」 「市中引き回しの上、斬首だ」 「そうですか。それがよろしいでしょうな」 左近は至極当然、といったように頷いた。それはもちろん、三成もそう思っている。情けをかける必要はない。 徹底的に、徳川の息の根は止めるべきだ。そうしなければ禍根が残る。禍根が残れば、面倒なことになるのだ。確実に。 「時期は早い方がよろしいかと」 「わかっている」 戦はまだ完全に終わりを迎えたわけではない。残党狩り、諸侯の処遇を決めること。 やることは多い。特に秀頼はどことなく頼りなく、何を決めるにしてもまず三成を頼ることが多かった。 必然的に三成の抱え込む仕事は多くなる一方だ。兼続も利き腕をやられ、療養している他ないとなれば。 「…俺は」 ぽつりと、三成は呟いた。視線は外へ向かっている。 外へ、というよりもどこか遠くへ。もしくはあの関が原へ。 「幸村がいなければ、今頃俺が、そういう目に遭っていたのだろうな」 「そして左近は死んでおりましょうな」 あの時、戦はもう終わりかけていた。どれだけ策を弄しても、もうどうにもならないところまで負けがこんでいて、身動きなどとれなかった。 負の連鎖は止まらない。離反が相次ぎ、両軍の大筒はすでに停止し、あとは数の力に圧倒されるだけだった。 だからこそ。 あの場に、最初から最後までいたからこそ感じた。 幸村は風と共に来た。東軍から吹いていた風を、西軍からの風にかえて。 「幸村はまだ目を醒まさないようですな」 「…無理を、しすぎたのだ」 血が流れすぎた。上田での戦の後、すぐに幸村は馬にまたがり、昔、中国から大返しをした秀吉のように、関が原に現れた。 そして多くの傷を負いながら、あの家康に日の本一の兵と称えられ。 「幸村には…目を醒ましてもらわないと、困るんですがねぇ」 「………」 そうだ。幸村には生きてもらわなければならない。 彼には関が原に、豊臣に勝利をもたらした男として、その力を誇示してもらわなければならない。 たとえそれを幸村が嫌がろうと、だ。 英雄になった人間に、個など必要ない。 それを、三成もわかっているだろう。左近ですら感じるのだ。 誰もが幸村が目を醒ますことを望んでいる。だけれども、誰も幸村を、個人として見ているわけではない。 敵総大将から称えられた、唯一の男。 関が原に、西軍に、勝利をもたらした男。 その武勲は、すでに真田幸村の名を飛び越えて、別の大きなものになろうとしている。 「…左近、俺は…」 「…殿、言いたいことがあるなら、この左近にどうぞ言ってください。殿と左近は、同志ですからね」 「…っ。幸村に…生きてほしいと、思う。だが、あんな風に、たくさんの人間から、真田幸村を真田幸村として見ないように扱ってほしくなどない…!そんな、風に…見られ、生きるのならば…」 あの関が原。たくさんの死が周囲に蔓延していた。西軍にあるのは、ただ負ける時が近づいている感覚と、そしてその為の絶望だった。 これが幸村の見た闇なのか、と。 そう思うほどだった。 「いっそ、このまま永遠に眠っていた方が、幸せなのでは、ないか…」 極論だとはわかっている。三成にとって、もう幸村がいない現世など考えられない。幸村への想いは膨れ上がるばかりで、だのに、周囲は真田幸村を、まるで自分の知る以外の別のもののように扱う。 彼がどれほど凄まじかったか。知っている。だけれども、どれだけ痛々しかったかも知っている。 彼が走る時、武器を振るう時、幸村の表情に苦悶が走っていたことを知っている。 彼は、ただ強かったわけではない。その陰でどれだけ彼が苦しみ、堪えたことか。 だから、もう、お願いだから、誰も幸村のことなど話してくれるな。 聞きたくない。彼が、幸村が、三成の手からどんどん遠ざかり、知らないものになってしまうなど、考えたくなかった。 戦は終わっていない。 たくさんやるべきことがあり、それらに埋没し感情は磨り減って、それでも。 幸村のことになると、こんなにも辛いのだ。 「すまん…左近。見苦しいところを見せた」 どうにか、そう呟いて顔を上げた。 左近は何も言わず首を振るだけに留める。 あの戦場で知ったのだ。幸村の苛烈さも、愚直なまでに生へ、貪欲に生きようとするところを。武田にいた頃の彼とは違う強さがあった。 そうして、三成が幸村に惹かれてやまない理由も。 だからこそ、憎まれるならば自分が引き受けよう、と左近はそう決意した。 たとえ三成が望まなくとも、幸村には。皆が望むよう生きてもらわなければ、ならない。
真田幸村の兄である信之の、その妻であり、また本多忠勝の娘の稲は、東軍の武将の中では格別の扱いを受けていた。 牢などに幽閉されているわけではなく、離れに一人、そこに身柄を拘束されていた。とはいえ、離れの中では自由に動くことも出来た。 ただ、稲はじっと己に与えられた部屋で動かずにいる。 彼女の理知と自信の溢れる造形は、いつからか形を潜めていた。 それは、父である忠勝が幸村との一騎打ちに敗れたという話を聞いてからか、それとも三成にやられ、今無様にも捕らえられている為か、それとも徳川の敗北を知ったからか―――とにかく、彼女から生気というものは失せていた。 「…そこに、どなたかいますか」 きわめて落ち着いた、抑えた声音で稲がそう問いかける。何日ぶりに声を出したものか。僅かだが、その声は掠れていた。 離れには、稲を監視する者が各所に控えている。が、そこへ現れたのは別の人間だった。 「呼んだぁ?いなちん」 屋根裏から突如、音もなく現れた女は、稲とは対照的に明るい声音だった。 稲はそんな彼女、くのいちをじっと見つめる。 「お願いが、あります」 「聞けるかどうか、わかんないよ?あたし、ここの人間じゃないから」 「…義弟と、逢わせてください」 その言葉に、くのいちはすっと表情を冷たくした。 幸村はまだ目を醒ましていない。それを、稲も知っている。 「…いまだ、生死の境を彷徨っていると聞きます。…私の夫は真田幸村の兄、信之様です。義姉として、ただ、看病をしてやりたい、…そう、伝えてはもらえませんか」 稲は東軍の、徳川の人間だ。真田信之を夫としてからも、真田に連なる者としての意識がどれほどあったかはわからない。今現在も彼女は、徳川残党との話し合いをうまくすすめる為の駒の一人として生きながらえている。 人質として。 その彼女の言い分が、果たして聞き分けられるものかどうか。 彼女の望みなど、まともに取り合ってもらえないはずだ。 「…だめだよ、いなちん」 「そう、ですか」 くのいちは個人としては、稲を気に入っている。まっすぐな気質、曲がることを知らない人だ。父を絶対の人とし、生きている。 だからそれは、一瞬の気の緩みだった。 それまで稲はずっと静かだったのだ。一日中、この部屋にあり、背筋を正し、ただ瞑想するように。 その彼女がはじめて見せた牙だった。 懐にずっと隠し持っていた、懐刀を素早く抜いた。気づくのがほんの一瞬遅れたくのいちは、抜かれた刀の鈍い輝きに息を飲む。そしてその刀の柄の部分で、強くこめかみを強打された。何をする間もなく、ただ倒れるくのいちを見て、稲は静かに立ち上がった。 「…さなだ、ゆきむら…」 彼女の声に、負の感情が彩られて、空気を揺らした。
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