天上の 22




 兼続の宝剣が宙を舞った。
 飛び散った血飛沫に、慶次が声を上げる。
「兼続!」
 周囲の敵が兼続に殺到した。が、その中心で何かが暴発したような爆発があり、敵が吹き飛ぶ。その中心に、兼続が己の腕をおさえていた。傷を負った手の中には、彼の符が握り締められている。
 それか、と内心安堵すると慶次は素早く兼続のもとへ駆け寄った。
「大丈夫かい」
「すまん。少し焦った」
「俺はもっと焦ったがね」
 辺りを警戒しながら一歩、二歩、と兼続を連れて後退さる。敵もさすがにあんな爆発があったあとではそう簡単に飛び込んではこない。こちらの出方をうかがって、殺意と敵意ばかりを剥き出しにしていた。
 その中で、どっしりとした男がゆっくり彼らの前へ歩み寄ってきた。
 徳川家康、徳川軍総大将。その人だ。
「……」
「よう家康。どうした、慎重派のあんたがこんなに前に出てくるなんて珍しいねぇ」
 どういう風の吹き回しだい?と慶次は軽い調子で問いかける。
 あくまでも兼続を庇う形だ。兼続は平気そうな顔をしているが、決してそうではないだろう。今、目の前に倒すべき敵がいるから一瞬痛みを忘れているだけだ。早く手当てさせてやらなければならない。
 が、そういう時でないことも、慶次にはわかっていた。
 徳川軍総大将は、間違いなく徳川家康だ。その彼が、今二人の目の前にいる。逃げも隠れもせず。
「逃げる気はねぇのか?降参かい?」
 慶次の二又矛が、家康につきつけられる、その一瞬。
 風が音を立てた。慶次のすぐ近くを恐ろしいほど生々しい音が走っていった。その一瞬に、顔を上げた。ほとんど勘に近い。来る、と思った瞬間、慶次は兼続を抱えてそのまま横っとびに転がった。
 地に転がる兼続が、痛みに呻く。
 しかしかまっている場合ではなかった。振り返った瞬間再び素早い風が駆け抜ける音を聞く。
 矛を前に突き出すより早く、兼続の符が音もなく二人の周囲を舞った。兼続の符を扱う腕からはおびただしい出血があったが、兼続は痛みに眉間の皺を寄せ、それでも慶次を攻撃から守っていた。
「すまないね」
「いや。私こそ助かった」
 二人して前を睨んだ。そこには、家康を守るように、最後の砦とでも言いたげに、半蔵が鎖鎌をかまえて立っていた。先程の幸村の攻撃を、したたかに受けたはずだ。だが半蔵はそんな傷などないかのように、強い眼差しで二人を見つめている。感情はどこにもない。が、彼の目には強い意志があった。
 家康を守るという、ただそれだけ。 
 そうして互いに睨みあいを続けていれば、それに割って入ったのは意外にも家康本人だった。
「直江兼続よ。一つ聞きたいことがある」
「……」
「忠勝は、どうなった」
 家康の目は驚くほど凪いでいる。今が天下分け目の戦であるなどと、その目を見て誰がそう思うだろう。それほど穏やかで、どこか寂しい目をしていた。
「…本多忠勝殿は」
 兼続もそれにこたえた。
「真田幸村との一騎打ちに、敗れた」
 彼の死の瞬間は、幸村以外は誰も知らない。どのように彼が戦場に散ったのか、それを語れるものは幸村のみだ。兼続はだから、それ以上のことは言わなかった。
 家康は動揺した風もなく、静かに双眸を閉じる。
 何かを覚悟したかのようだった。
「…そうか」
 ふと彼の視線が遠くを見る。その視線の先に、赤の甲冑に身を包む男がいた。幸村だ。彼の手にある槍を見て、家康は押し黙った。
 徳川本陣は静かだ。外との喧騒とは雲泥の差だった。まるで別の場所にいるかのような錯覚すら受ける。
それは遅れてやってきた幸村たちも同じようだった。
 三成は意味がわからない、というように家康を見つめる。
 二条城で顔を付き合わせた時は、この男とは二度と話をしたくないと思った。
 何を言ってものらりくらりと交わし、しかしその中に彼の本心が見え隠れしている。どのようにもとれる回答ばかりを繰り返し、まともに会話をする気はなさそうだった。
 三成にはそれが酷く不快だった。
 しかし、今目の前にいる家康は、あの時とは違う。
 あの時のような、瞳の奥に野望を隠し持つような、そんな顔ではない。
 まるで、悟りをひらいたかのような。
「……真田幸村」
 家康がぽつりと幸村の名を口にした。
 幸村は、家康がどのような覚悟をしているのか、それを理解しているのかもしれなかった。静かな家康に応じて、前へ歩み出る。
 手には、忠勝の蜻蛉切。
 何故だか、危ないとは思わなかった。
「…本多忠勝殿は、見事なもののふでございました」
「……知っておるか、真田よ」
 蜻蛉切が地面に突き立てられる。それを見上げて、家康は眩しそうに目を細める。
「家康に過ぎたるものがふたつあり。そのうちの一つが、忠勝よ」
「ええ」
「その忠勝を討ち取った。…真田よ、真田幸村よ」

「日の本一の、兵よ」

 家康の言葉は、静かだったがはっきりと通る、良い声だった。
 そうして。
 家康は、降伏した。
 彼をどのように処するかは、今後決まる。
 豊臣本陣に捕らえられている稲姫の処遇も、それは今後決めることだった。
 ただ、今はっきりとしているのは。
 豊臣の、勝利。
 ただそれだけだった。



 周囲は酷く騒がしい。一度は絶望に突き落とされた。その戦に勝利したということは、豊臣方の人間にすれば大きな喜びだった。誰もが声を上げた。己の武器を握り締め、空高く突き上げる。
 それがない者は拳を突き上げた。
 勝ったのだ、という決定的な余韻。誰もがそれに酔いしれている。
 そんな中で、それでも忙しく立ち回る三成と、それをただ眺めているだけしか出来ない幸村と慶次。
「おい、兼続。平気かい?」
 その声の中、すっかり顔色の悪くなった兼続がよろめいた。
 家康に斬られた傷と、長谷堂城での伊達政宗から受けた傷がきいているようだ。
「う、うむ。しかし少々辛いな」
 そう言って笑った兼続は、力なく地面にへたりこんだ。傷の手当てを雑兵たちに任せて、終わったな、という風に慶次は笑った。
 幸村は、どこか遠い目をしてこたえない。
「…幸村?」
「…あ、すいません」
「あんたもあまり顔色がよくないねぇ」
 それはそのはずだった。むしろまだ立っている事の方が信じられない。
 しかし幸村は、そんなことないですよ、と笑うだけだった。
 何が彼をそこまでさせるのか、慶次はちらりと幸村が見ていた視線の先を見る。
 その先に、あるのは。
 石田三成の姿だった。
(厄介な、奴だ)
 長篠で彼を救った時からそう思っていた。
 この戦の、その戦いぶりに、変わったのかと思ったが。
「…いい戦ぶりだったなぁ」
「…ありがとうございます」
「惚れ惚れする戦いぶりだったぜ」
 人にもたれかかりすぎてはそれを失った時が辛い。
 しかし幸村は、この世に生を受けてからずっとそうやって生きてきた。武田軍の一人として、誰よりも武田にその身を預けきっていたのだろう。
 だから、迷うしかなかった。
 慶次とは違いすぎる生き様だ。
「慶次殿こそ」
「兼続も、頑張った」
「そうですね。お怪我は…」
「大丈夫さ」
 兼続は、どんなに傷が深かろうと今生きているのだから大丈夫だ。何よりも精神的なものを大切にする男だ。例えば彼を必要としている誰かから声がかかれば、それだけで彼は元気になるだろう。
 そう言ってやれば、幸村も笑った。
「兼続殿らしい」
 ふとその笑顔に、慶次は違和感を覚えた。
 誰もがここに来るまでに多くの怪我を負った。主だった者の中で幸運にも無傷なのは、せいぜい三成と、そして慶次くらいかもしれない。
 昔どこかで見た。死ぬ直前の人間の中には、その直前までに最大限の力の引き出す。そして更にそれより上をいこうとする者がいる。気がつけば死の淵すら通り越して、恐ろしいほどの働きをするのだという。
 そういう人間は、えてして戦が終わると同時に息絶える。
 やり遂げた、それだけを誇りとして、立派に。
 今の幸村の状態は、それに近い気がして一瞬背筋にぞわりと悪寒が走った。
「…幸村、あんた身体は大丈夫なのかい」
「…大丈夫ですよ」
「嘘はよくないねぇ。その怪我で大丈夫なわけが」
「大丈夫です」
「その上、意地っ張りだ」
「…戦いは、まだ終わっておりませんから」
「何?」
「…戦いがある限り、私は私のために」
 言っている意味がよくわからなかった。ただ、幸村の視線は三成の背をずっと追いかけ続けている。
 戦は終わった。家康は捕らえられた。残党の処罰や、そのための小さないざこざならばあるかもしれない。が、今日のこの戦のような、大々的なものはもうないだろう。慶次は率直にそう思う。それだけ、三成と家康の―――いや、徳川と豊臣の、その対決は避けられなくなっていた。
 期せずして、彼らは戦の真ん中に立っていたのだ。その熱と、その渦の真ん中に。
 幸村に、さらに問いかけようとした時だった。
 三成が振り返り、幸村と視線があう。
「―――みつなり、どの」
 途端。
 幸村の身体が糸が切れたように崩折れた。
 慌てたのは、何も三成ばかりではない。慶次も、そして手当てをされていた兼続でさえも驚いた。三人は三人とも、ほぼ同様に叫んだ。

「幸村!」

 戦が、ある限り。私は私のために。
 三成殿。



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関が原編、終了…!