天上の 20




 伊達政宗が関が原に到達した段階では、どちらが勝ちに傾いているのかわからなかった。
「殿」
 政宗の特に信頼を置く重臣が歩み寄り、耳打ちをしていく。早駆けの者からの伝令である。
 戦場は、現在勝敗つかず。一時は徳川に機運ありと思われたが、真田幸村の援軍到着により、形成は今逆転しつつあった。
「…ほう、真田幸村か…」
 政宗は不遜に唇の端を持ち上げ笑った。さすが真田よ、と呟く。
 伊達政宗にとって、真田幸村の戦ぶりをその目で見ることはほとんどなかった。小田原の時でさえ、真田隊と伊達は遠く離れたところで戦っていたのだから、当然だ。
 しかし、彼は常に猛攻を仕掛け、小田原で暴れまわった。
 その目で見ることはなくとも、その勇ましい戦いぶりだけは人づてに伝わって、届く。
 一度見てみたいと、出来れば手合わせなどをしてみたいものだと、そう思っていた相手だ。
「皆の者、聞け!今から我々伊達は徳川殿につく!長谷堂で見せた勇猛果敢な様を、今一度ここで、全ての者に焼きつけよ!東に伊達ありと、全ての者に知らしめよ!」
 馬上で政宗が兵たちを鼓舞するように叫んだ。
 伊達軍の誰もが意気揚々と己の武器を振り上げ、雄叫びを上げた。
 そうだ。西に真田があるならば、東には伊達。そう思わせればいい。この関が原を駆ける全てのものに。
 旗印を高く掲げ、全軍が突撃を開始した。
 向かうは豊臣軍本陣。狙うは石田三成の首。
「義などで飯は食えん。それを思い知らせてやる、直江兼続」
 政宗の独白は、誰に聞かれることもなかった。周囲の凄まじい馬蹄に声はかき消される。
 志などで戦は出来ない。人の心は常に強いもの、そして形あるものに傾くのだ。人々は強く民思いの主を歓迎する。ただ立派な志というだけでは、誰も喜びはしない。
 そういう地位にいる者は、それ相応に生きるべきだ。
 民のために生き、己に従い命を賭ける、全ての家臣たちを養うために時には苦渋の決断を強いられても。
 だから、たとえ天下の帰趨が西に傾こうが、政宗は豊臣方につく気は毛頭なかった。
 形のないもので人は生きられない。彼に賭ける者たちの為、重い荷を背負ってでも立つ。そういう家康の方が、よほど政宗の性には合う。
 嫌いだった。
 気楽に義だのなんだのと口にして、己の思いだけで生きようとするばかりの彼らが。

「!」

 政宗が馬を走らせている、その時。
 少し前までは大筒が空気を震わせ、多くの者の命を奪い、立ち向かおうとする心を砕いていたはずの、その辺りに見覚えのある六文銭が見えた。
 彼らの存在を誇示するはずの旗印は地に落ち、無残にも踏み荒らされて泥にまみれていた。
 そしてその傍に。
 真田幸村と、本多忠勝が、いた。




 激痛が幸村の思考回路を奪った。
 視界が霞んでいる。周囲がよく見えない。幸村の手から、忠勝の愛槍である蜻蛉切が滑るように己の手から離れた。しかし幸村はそれを手放すわけにはいかなかった。
 零れ落ちるように己の手の内から転がり出ようとするそれを、慌ててもう一度掴む。どっしりとした重圧感が、幸村の手に戻った。が、それを支え持つことは出来ず、地に突き立ててなんとか、その場に踏ん張ろうとした。
 血が。
 流れ出していくのがわかる。
 この感覚、覚えている。
 あの時感じた熱だ。
 奪われていく感覚に、忌まわしい記憶がよみがえる。
 長篠の戦で、鉄砲隊の銃撃に遭い、落馬して地に叩きつけられた。己の身体を撃ちぬいた弾が、力を奪っていく。己の中にあった熱が、外へ流れ出していく。
 あの時の感覚だ。
 おそらく、ここでこの蜻蛉切を手放し、冷たい土に倒れたならば、もうそこから立ち上がれないだろう。
 忠勝は。
 彼はどうなった?
 幸村は、必死に蜻蛉切に縋って振り返った。ずる、と足を引きずり、ともすれば白濁とした意識の中に放り込まれそうになるのを、何とか堪えながら。
 そうして。
 振り返った先。
 忠勝が、じっとこちらを見ていた。
 ああ、負けたのか。そう思って己の手にある彼の槍を返そうとした瞬間だった。
「真田幸村」
 声は、きっきりとしていた。そして幸村の耳にも、驚くほどはっきりと、そして意識を現実世界に引き戻すような力強さで名を呼ばれた。
 返事を、することはできなかった。
「今」
 ただ、彼の言葉を聞くだけだった。
「戦国が終わる」
 忠勝は、そのまま後ろに倒れた。幸村は息を呑み、それをただ見つめた。
 彼が倒れた瞬間、地が揺れた。ざわりと全身に残る血が反応した。どんな意味を持った言葉だったのか。
 ただ、わかったのは、勝った、ということだ。
 目の前の、この男に。
 そしてその瞬間、糸が切れそうな感覚があって、地面に膝をついた。
 肩を矢で射られ、今、忠勝の握った刀が幸村の甲冑を貫いて、下腹部からはおびただしい血が流れ出している。
 ああ、だからだ、と妙に納得した。
 だから力が入らない。彼は、たとえ負けたとしても、決してただでは負けない。彼ほどの男が、いたのだ。
「…ぅ」
 忠勝の最期の声に引き戻された現実感は、また少しずつ薄れていく。
 熱は奪われ、いつかこの身体からその熱が涸れ果てる。
 そうやって、人は死ぬのだろう。
 しかしその瞬間、幸村は顔を上げた。
 まだ遠いそこに見える、あの旗印。
 あれは。
 伊達の―――。
 ざ、と血が再び沸騰する感覚。
 何故ここに伊達が。それでは、上杉はどうなった。兼続は、慶次は。
 まさか。
 今の今まで、ほとんど何も考えられずにいた幸村の中で再び戦え!という声が聞こえた。その声は、誰のものだったか。今そこで倒れた忠勝のものか。それとも長篠で散っていった者たちの声か、それとも、甲斐の虎と謳われたあの人のものだったか。それとも。
 幸村は立ち上がった。手には相変わらず、忠勝の槍があった。
 一歩。歩み出す。痛みは己の身体に纏わりついて離れようとしない。
 しかし幸村はそれにかまわなかった。
 走れ。戦え。おまえの守りたいものの為、全てを賭けろ。今はそれ以外のことは考えるな。戦え、戦え、戦え―――!

「真田幸村、いざ参る!」




 政宗が幸村と忠勝に気付いた瞬間、忠勝は倒れた。
 その光景は恐ろしいほど簡潔に、わかりやすくこの戦の流れをあらわしているかのようだった。
 しかし幸村とて無傷ではない。相当の深手を負っている。あれではもう戦えまい。放っておけば死ぬ。そう思った矢先のことだった。
 向こうが政宗の存在を知った。その瞬間、背筋に寒気が走るほどの殺気を感じて政宗は手綱を強く握った。
 幸村の名乗りがあり、深手を負っているとは到底思えない恐ろしさで、迫ってくる。
 それを、まるで他人事のように眺める自分がいた。
「殿をお守りしろ!」
 家臣の中の誰かがそう叫ぶ。その声に、政宗は己が正気を失っていたことを知る。舌打ちして、馬の手綱を引いた。そして幸村と向かい合うように体勢を整える。
 彼が手にしているのは、彼の愛用の槍ではなかった。見覚えがある。あれはおそらく忠勝のものだ。何故彼がそれを握っているのか、そんなことは政宗にはわからなかった。
 幸村が、単騎で突撃してくる。
 傷は深いはず。だのに、それをまったく感じさせない。あれはどういう生き物だ。何故ああも突進してくるのだ。まるで命を捨てようとしているようだ。恐ろしいほどに、今彼の目には戦いしか映っていない。
 何が彼をそこまで駆り立てるのか。
 政宗にとって戦とは常に駆け引きの場だ。どれほど奮戦し、働きを見せるか。
 それによって次の身の処し方が決まる。
 戦など、所詮政事の中の特にわかりやすく白黒のつく場であると、ずっとそう思っている。
 それなのに、まるでそれを根底から覆すような。
「…馬鹿め」
 政宗が小さく呟いた。
 そして、刀を抜く。
「馬鹿め!真田幸村、貴様の首もらいうける!」




 三成がたどり着いた時、幸村は伊達軍に囲まれて単独、槍を振るっていた。
 ありえないほどの奮迅ぶりだ。雑兵などは、手も出せずにいる。押し包んで囲んでいるだけで、それ以上何をすることも出来ずにいる。
 その中心にいるのは伊達政宗と真田幸村。
 勢いは、信じられないことだったが幸村の方が上回っていた。馬上の政宗を払い落とすように槍を振るう。間に合わず、その槍の穂先を避けるために政宗が落馬すると、一気にその中心に人が集まった。伊達の重臣たちが、幸村から主を守るためだろう。
「幸村…っ!」
 三成は鉄扇を握りしめた。目の前に、伊達がいる。しかし上杉はいない。
 やはりそうなのか、諦めるしかないのか。しかしそんなことはしたくなかった。三成はまた走り出して、伊達政宗に今まさに迫ろうとする幸村のもとに駆けつけようとした。
 そこで、鋭く政宗が叫ぶ。
「石田三成!!」
 周囲の人間が、はっとしてこちらを見た。
「討ち取れ!」
 幸村を押し包んでいたはずの陣形が崩れた。三成に向かってくる者たちがみな、武器を振り上げ駆けてくる。だが三成も、そんなことでは怯まなかった。
 鉄扇を振るいながら、足を止めない。止めるものか。聞かねばならないことがある。上杉はどうなったのだ。兼続は。
「幸村!」
 伊達の重臣に阻まれている幸村は、そのうちの一人と切り結んでいた。
 相手は幸村の気迫に完全に負けている。
 鍔迫り合いの末、その猛攻で体勢を崩した男に、幸村の槍が迫ろうとした。
「伏せろ、成実!!」
 その瞬間、鼓膜を打つような銃声。
 声にならなかった。
 兼続が。幸村が。
 残されるのか、ここで一人、自分ひとりが残されるのか。そんなこと、そんなことが。
「幸村!!」
 三成が必死に雑兵たちをかきわけて、幸村のもとに走り寄る。
 彼の手に決して馴染まない槍が、転がるように滑り落ちる。
 力を失い、幸村が地に倒れようとするのを、三成がまろぶようにたどり着き、その身体を抱きかかえた。片手で幸村を支え、鉄扇を構え。
「…みつなり、どの」
 小さな掠れた声を聞く。
 もういい。もういいから。言葉に出来ずに抱きとめる手に力を込める。敵は少しずつ包囲の輪を狭めにじり寄ってくる。
 ここまでか。
 三成は歯軋りした。
 まだ、聞けていない。兼続はどうなったのだ。上杉はどうしたのだ。
 この焦燥感は、何のためのものだ―――。

 その、刹那。

 遠くから馬のいななく声が聞こえた。それと同時に聞こえる、声。そして。
 赤みの濃い紫のあやしい光が三成と幸村を守るように包んだ。それと同じくして、見覚えのある札が、二人の周囲を囲むように浮かびあがった。
「!」
 誰もがその馬の、猛々しい姿に見惚れた。全ての人の頭上を飛び越えるような跳躍。それに驚いた政宗が、銃撃を繰り返す。しかし弾は一発たりとも当たらない。動揺しているのだろう。照準が定まっていない。
「よう、大将!」
「前…田、慶次」
 その馬に乗っているのは、間違いようもなく、前田慶次だった。
 慶次はにやりと笑うと、二又矛を政宗に向けた。
「まだ勝負は、ついてないんじゃないか?」
「…貴様ら…!やはり生きておったか!」
 政宗が憎々しげに声を荒げる。銃口は相変わらず慶次に向けられていたが、慶次はいささかも怯む様子がなかった。またそれが、政宗を刺激する。
 そしてその声に、呼応するように前田慶次以外の声が聞こえた。
「山犬よ、何人掛かりで二人を殺そうと言うのだ?情けないことだな」
「貴様…!」
 ぎり、と政宗の歯軋りが三成のところまで聞こえてきそうだった。それほど、政宗の表情は怒りで歪んでいた。
幸村を抱えたまま、三成はその男が現れた先を見つめる。
「…兼続」
「待たせたな、三成!」
 快活で、熱を孕んだ声が戦場に響いた。
「さあ愛する上杉の兵士諸君!上杉ここにありと戦場に知らしめるのだ!」
 その声に、今までその存在をひた隠しにしていたのだろう上杉軍たちが鬨の声を上げた。一斉に毘の旗印があがり、周囲にはためく。
「く…っ、兼続、貴様!」
「戦場では失礼したな。おめおめと上杉から逃げ出す伊達軍が愉快で、つい後ろから眺めてしまった」
 兼続は馬上で酷く楽しげに笑った。

 長谷堂城を落とす戦いに出た上杉軍だったが、兼続が手傷を負って、とにかく伊達・最上の猛攻から一回撤退した。
 伊達政宗が相手となるといつも熱くなりがちな兼続だったが、己の傷を手当てしながら、ふと思いついたというように顔を上げて、言った。
―――関が原へ行こう、慶次
 何を言っているんだ、という顔をした慶次に、兼続は至極真面目な顔で答えた。
―――我らの元々の策は、家康をこちらにおびき寄せ、その上で三成が関が原で挟み撃つというものだった。しかし家康をすでに逃がしている。一度ひく姿勢を見せよう。
―――追撃してくるはずだ。それはどうする?
 慶次のもっともな問いに、兼続はしれっと答えた。
―――任せろ。私は秀吉公より大返しの策を授けられている。
 その言葉に、慶次はふむ、と考えるふりをした。といっても、特に難しいことは考えていない。どうせならば、自分らしく戦いを楽しみたいものだ。
 この策が成るかどうか、それも気になる。
―――撤退のきっかけは私が作る。慶次、出来るか?
―――ん?
―――上杉が撤退するきっかけは、私の戦死。そういう噂を流そう。その場を、作れるか?慶次
―――またずいぶん面白いことを言うもんだ
―――何、秀吉公の真似事さ
 秀吉の死が偽装であることは、三成たちには知らせないことになっている。
 とはいえ、関が原に出るという話だったから、自然噂になって三成の耳に入るだろう。
 それならそれでいい。秀吉が何故三成でなく、兼続を選んでその事実を知らせたのかはよくわかっていないが、それだけ信頼されていたと思いたいところだ。
―――いいぜ、面白そうだ。いっちょ大舞台に立つとするか!
 そうして今、ここにいる。

「ふざけたことを抜かしおって。貴様らが先に伊達から逃げ出したのだろうが…!」
「我らは逃げ出したのではないぞ。戦略的撤退をしたまでだ。勝負を関が原に持ち込んだまでのこと」
「小賢しい!口先ばかり達者な奴め!」
 ようやく調子を取り戻したらしい政宗がすかさず兼続に向けて刀を抜いた。
 切り結ぼうと走り出す政宗の刃を受けたのは、兼続ではなく慶次だった。
「おっと!俺とやろうぜ」
 時間を稼いでやる、という慶次の一瞬の合図に、兼続はすぐさま三成のもとへ駆け寄った。
「三成、幸村!」
「…兼続、おまえ」
「一度立て直そう。ここでは幸村の傷を診てやることもできん」
「あ、あぁ」
 兼続の言葉にようよう頷いて、三成は幸村を見た。
 ぐったりとしている幸村は、下腹部に深い傷を負っている。見たところ肩口にも矢傷を受けており、満身創痍そのものだった。
「幸村」
 己の体重を三成に預けている幸村の心細い息遣いを肩の当たりに感じる。浅い呼吸だ。顔色は酷く悪い。もう戦えないはずだ。
 兼続が幸村を覗き込む。
「幸村、私だ。兼続だ。見えるか?」
 その言葉に、幸村が僅かに頷いた。
「…兼続殿。……私なら、…まだ戦えます」
「何を言う、おまえは自分の傷の具合がわかっているのか!?」
「わかって、います」
 そんなわけがない。誰がどう見ても、幸村の怪我はもう戦えるような状態ではない。今までが異常だったのだ。それなのに、まだ戦えるだなどと、一体どうしてそんなことを。
 ゆらり、と幸村が身体を起こした。その視線が、すっと周囲を見渡す。
 彼の視線の先で、上杉の兵士が伊達軍の兵士の武器を弾き飛ばした。主を失った刀が、地面に突き刺さる。
「…ッ、三成、きちんとつかまえていろ!」
「………!」
 兼続の叱咤にようやく正気に戻ったのか、三成の表情が変わる。
 が、遅かった。幸村の身体が、三成の手から離れる。
 幸村の赤い鎧を目で追えば、彼が狙うのは誰かが落とした武器だった。それを握ると素早く敵を斬り伏せた。
 幸村は。
 下腹部に深い傷を負っている。
 肩には矢傷が。
「…兼続」
「なんなんだ、あいつは!」
 そう叫ぶと兼続が、幸村の後を追いかけるようにして走り出した。
「…幸村」
 はたから見ていたら、死のうとしているようにしか見えない。だけど、違う。彼は。幸村は。
 あの虚ろな目で眺める先は、死ではなくて。
(ああ、もう)

 死の向こう側にある、生、ではないのか。

 だって彼は、上田から駆けてきて、僅かの手勢でここまで戦線を乱して盛り返したのだ。
 生きることを諦めない、走ることも、戦うことも、何もかもを諦めない。
 走れるうちは走れ、生きているうちは生き抜け、戦える間は戦い抜け。
 彼が縋っているものがあるとすればそれは、生きるということで、その生にしがみついてでも、戦えるうちは。
 わかったような気がした。
 もう、わかった。だから、幸村。
「全軍、進撃せよ!目指すは徳川本陣、家康の首だ!」
 三成も、走り出した。
 手から武器を失ってもいい。広がる限りのこの地には、たくさんの主をなくした刀が転がっている。それらを手にして立ち上がり、決して惑うことなく。
 たった一つ。

 生きる、ということを貫くだけだ。





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次回で関が原編終了予定。