どれほどの間、刃を交えたものか。 慶次の二又矛が伊達政宗の刀を弾いた。 しかもそれだけではなく、政宗本人の身体が宙を浮いた。吹っ飛ばされた政宗は、したたかに全身を打ち付けて静かになった。慌てて家臣が駆け寄れば、どうやら一瞬脳震盪でも起こしていたか、何事もなく起き上がろうとして、その瞬間、慶次の矛がその場にいた全ての人間に戦慄を覚えさせるように、しっかりと政宗の首をとらえた。 「ひきな」 慶次の声はどんな時でも戦の醍醐味を楽しもうという気概をあらわしている。そんな余裕綽々といった様子の慶次に、政宗は酷く顔を歪ませた。 確かに前田慶次は強い。しかし、こうも翻弄されてしまうのか。そこまで自分はかなわないのか。足元にすら。 今までどれほど苦渋を味わってきたか、どれだけ己の吟持をずたずたにされてきたことか。己の内に秘めた野望の為とは思いながら、それでも政宗は必死にこの地位を築いてきた。 それを、こうも簡単に。 「…くそ…ッ」 「引き際を知らんわけじゃないだろう?あんたはいい武将だ。また仕合おうぜ」 慶次の言葉に、政宗はしかし従わなかった。引き際なら知っている。どんな時が自分の命運を決めるかも知っている。今までも何度も伊達家と己の命で綱渡りをしてきたのだ。だが今は駄目だった。納得が出来るわけがない。完膚なきまでに負けたのだと、認めることができない。 何故かはわからなかった。 「…っ馬鹿め!今は天下分け目の時ぞ!」 慶次の矛を乱暴に払いのけた。手に残っているのはもう短銃のみだ。狙いを定め、慶次の頭に照準を絞る。しかし慶次は怯まなかった。 この男には、恐れというものはないのか。恐怖はないのか。そんなに簡単に、何もかもを放り出して生きていけるものなのか。そんな風にこだわるもののないからこそ、義だなんだと形もないような曖昧なものを、掲げることが出来るのか。 引き金を、ひこうとした。 その瞬間。 遠くから、銃声が聞こえた。 「殿!!」 聞こえた、と思った瞬間に衝撃があった。 誰かの声が遠い。 脚のあたりが酷く痛む。撃たれたのか。しかし誰に。わからない。とにかく立っていられなかった。膝をついた政宗に、雑兵が詰め掛けたが、それは重臣たちが盾になって防いだようだった。 何もかもが遠かった。 地に転がった状態で、政宗は辺りを見渡す。周囲がひどく騒がしい。頭上のあちこちで刃の交わる音がしている。 政宗は、もう一度顔を上げた。視線の先には慶次が立っている。 そのさらに向こうに、今や鬼神にすら見える真田幸村が戦っているはずだった。 「………」 何もかもを信じるものに捧げる真っ直ぐさはない。 ただ生きるだけという生き方も、出来ない。 形のないようなものに、縋って生きる気もない。 やはり相容れないのだ。三成や、兼続や、幸村や―――そして慶次たちのような生き方は、出来ない。 伊達政宗として、伊達家を背負って立つ自分。その自分のために、今目の前でたくさんの命が散っている。 たくさんの者が、自分を信じ、守ろうとしている。人の盾などいらない。しかし彼らはそう言ってもひかないだろう。 そういう者の為に。何度でも、己の感情以外のものが引き止める。 だから、彼らのような生き方は出来ない。だけれども、この胸に宿るのは、確かに。 羨望のような、感情だ。 「馬鹿め…っ」 よろめき、立ち上がった。誰かが手を差し伸べてくるがそれを拒んだ。 「退却するぞ!奥州まで駆けろ!」 殿をお守りしろ、という声があちこちで聞こえた。いらぬ、と叫んだつもりだが、聞こえていたかは知らない。 脚をひきずり、周囲の敵を排除しながら走れば見知らぬ男が視界に入った。 「こっちだ!」 「貴様、何奴…!」 家臣の誰何の声に、相手は怯む風もなくこたえた。 「敵でも味方でもねぇよ。ただ、ちょっと助けてやりたいだけさ」 背後からは伊達政宗の首を討ち取ろうという輩が群がっている。兵士たちはそれを退け主を守りながら走っている。男は手馴れた様子で火縄銃を構えて周囲の敵に向けて威嚇するように撃った。 靄がかかったようになっている頭で、しかし政宗はひきつったように笑う。 「貴様か、ワシを撃ったのは」 胸元に見えるのは八咫烏をあしらった装飾品のようだった。確かそんな奴がいるのを聞いた気がする。なんだったか。 八咫烏、火縄銃。 思い出せ、と己の朦朧とする意識と、記憶を引きずりだしながら、二つの符号に合致する者を思い出し顔を上げた。 「…貴様、雑賀衆か。雑賀孫市…」 「おまえがそう呼ぶならそうなのかもな。ほら行くぜ。家臣死なせたくねぇだろ」 「…何故助ける」 「ちょいと昔を思い出してな」 「…ふん、馬鹿め。後悔しても知らんぞ」 この男の過去など知らない。何故今、敗走する伊達軍に手を差し伸べるのか、そうすることで彼にどんな得があるかは知らない。 しかし今、この胸に抱えるどうしようもない苛立ちをごまかすための、話し相手くらいにはなりそうだった。 そんな余裕などどこにもないが、それでも。 ただ逃げ帰ったのではない。再び立ち上がる時を、その時期を逃さないために。 伊達を退ければ、東軍はほとんど総崩れの状態だった。 裏切りにつぐ裏切り、そして数の力で全てを持っていかれそうだった西軍は、今や奇跡的に盛り返して東軍の本陣へ攻め込むところだ。 家康のそばに影のように仕えていた服部半蔵は、ぐ、と拳を握りしめる家康を見て一歩前へと立った。 「…忠勝が負けたなどと…信じられるか、半蔵」 半蔵は答えなかった。西軍本陣へ向けて進撃したはずの稲も、そして忠勝も戻ってこない。伝令兵がただ一度、忠勝の戦死を告げたが、それこそ家康にとっては信じられないことだった。 幾度となく共に戦に立ち、守護神のような強さを誇った男だ。一度たりとも戦で傷を負わなかった。それは彼に対する噂話でよく聞く類のものだったが、決してそれは間違いではなかった。昔、甲斐の虎、武田信玄に窮地へ追い込まれた三方が原でも、彼との戦いを信玄は望まなかったという。 その彼を、誰が倒したというのだ。守護神を、倒したのは誰だというのだ。 「…半蔵、ワシはひかんぞ」 「……是」 半蔵はただ押し黙るように頷くのみだった。彼にとっては家康は絶対の存在であり、逆らうことはない。彼の命の為、彼の野望の為に今の今まで生き抜いてきた。影として。 「…頼む、半蔵。三成の首を」 「承知…」 伊達軍が関が原に到達して一時は東軍の有利に再び風が吹いたはずだった。 しかしそれも長くはもたなかった。今や戦場はどうしようもないほど西軍有利に風が吹き始めている。 一言、承諾すると半蔵は素早くその姿を消した。西軍の旗はすでにすぐ近くに見えている。 忠勝に昔言われた。殿の行く先、その未来が見えるかと。見えたと思ったのは違ったのか。その未来の為にあらゆることを耐えてきたというのに、その耐えた先に見えた未来は。 家康は、本陣でただ一人、今まさに重くのしかかろうとする恐怖と戦っていた。 あの勢いは、とめられないだろう。下手をすれば三成の首をとれても、その時には自分も死んでいるかもしれない。 そうなれば、また世は乱れるだろう。 それでは意味がない。多くの家臣を失った、あの時に誓ったのだ。家康の見据える先にあるのは天下の泰平。そしてそれを必ず成し遂げると。そうすることで、死んでいった多くの者に報いるのだ、と。 (忠勝よ) もしも本当に討ち死にしているというならば。 (おぬしの為にも、ワシは死ねん)
東軍本陣はすでに目前に迫っている。浮かれたような兵士たちの熱にあてられて、三成は妙に冷静だった。 心が驚くほどに凪いでいる。兼続たちは幸村の隊を追い、競うようにしていた。実際は兼続が幸村の無茶な進軍を止めようとしているのだが、もうこの勢いはとまらないだろう。幸村がとまる時は、死ぬか戦が終わるか、そのどちらかだ。 考えてみれば、三成はこれまでも戦の前線に立つことはなかった。本陣を守ることの方が多かったのだ。 だからだろうか。今なら、わかる気がした。戦の熱気。たくさんの人間が一つに向かって突進するその膨大な力の熱。 これこそが、常に軍師の想像の域を超える力なのかもしれなかった。 そしてこの熱を、勢いを、風のようなものを感じて、幸村たちは走るのかもしれない。 今までは理解が出来なかった。何故いつも無理をするのか。何が彼の力になるのか。彼らの力になるのか。 それを、ようやくわかった気がする。 ふと、三成は顔を上げた。何かを感じたのかどうか、その瞬間にはわからなかった。 だが、見上げた瞬間、木々がざわめいた。 「―――ッ!」 忍びの刃が三成のすぐ横を掠めた。刃が閃く瞬間の風を、すぐ耳元で聞く。 一撃目を避けたことで、敵の姿はすぐ目の前に現れた。 「貴様…!」 男は抑えた声で、一言。 「滅…」 それしか言わなかった。 覚えている。二条城での家康との会見の後、襲撃に遭った。その時、影で動いていた男だ。 「貴様が家康の最後の砦というわけか!」 己に向けられる敵意には慣れている。しかし半蔵にはそういったものはあまり感じられない。彼から感じるのは、ただ殺意のみだった。それ一つにしても、それが本人の意思によるものかわからない。 忍びとはそんなものか、と三成は酷く冷静にそう考えた。 主の為、その為だけに徹底的に己を殺して生きる。そんな彼が、今三成の首をとる為に動いたということは、それはそれだけ家康に窮地が迫っているということか。 鎖鎌の間合いは狭い。だがその間合いを詰める素早さには舌を巻く。三成はそれを受け止めて攻撃を防ぐしかなかった。 鋭く重い刃の交わる音が周囲に響いている。半蔵の攻撃は執拗だ。 もうすぐ西軍は敵本陣に攻め寄せる。後はない。その為の執拗さかもしれなかった。 「く…っ」 家康からただ一つ、三成の首をとれという命を受けた半蔵の攻撃が三成を押していく。防戦一方の三成は、それに耐えるばかりで手が出せない。このままでは、と踏みとどまり、なんとか攻撃の機会をうかがっていた、その時。 地に轟くような、声を聞いた。それは、何人もの人の声が重なって起こる地響きだ。 徳川本陣に、西軍が詰め掛けついに突入したことを知らせるものだった。 だが、それでも半蔵は怯まない。ここが最後だとわかっているのか、振り向きも怯みもしなかった。隙がない。負ける気は毛頭なかったが、何が起ころうと任務をまっとうするというその姿勢には僅かばかり恐怖を覚えた。
「大将、そら右だ!」 その瞬間、背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。 「…っ!」 その声に従うのは癪だとか、そんなことを考える余裕はなかった。 素早くその声の通り、身体を反転させる。半蔵の攻撃を、その素早さから生じる圧力のようなものを背中に感じた。そして体勢を整えようとした矢先、彼の頭上を素早く二又矛が閃く。 しかし三成の視線の先には、それよりも驚くべき光景があった。 東軍本陣へ向かっていたはずの幸村が、そこにいた。 手には忠勝の蜻蛉切。 その彼が、前田慶次の二又矛の一閃を防いだ半蔵に向けて、攻撃を仕掛ける。 彼の存在は、半蔵にとっても予想していなかったらしい。一瞬、本当に一瞬、無表情の彼に表情が浮かぶ。それが恐怖だったのか、それとも驚愕だったのか。 三成には判断することが出来なかった。 「ぐ…っ」 半蔵からはじめて呻き声が漏れた。 だが次の攻撃に転じる前に、半蔵は素早くその姿を消した。気がつけば再び僅かに木々がざわめき、その音も消える。 「三成殿!」 「…っ幸村!!」 ご無事ですか、の言葉を紡ごうとする幸村は、しかし強く呼ばれて言葉を失った。 「何故、ここにいる…!」 おまえは東軍の本陣に、兼続と共に第一陣として詰め掛ける、その中にいたはず。なのに、何故。 「…三成殿の姿が見えなかったので」 「…っ、おまえが、おまえがいるといないとでは、士気が…っ」 これだけたくさんの人間が、我先にと駆け抜けている。あちこちで戦いが巻き起こり、その熱気の中、どれだけの人間が三成のことを考えているというのだろう。 それでも、幸村は違うのだ。真田幸村は、この戦の要で、多くの人間をその存在自体で鼓舞している。彼が来るまで確実に風は東に吹いていた。戦の、勝利の風を、こちらに呼び寄せたのは誰あろう幸村だ。 その彼が。 自分がいないことに気づいて戻ってくるなんて。しかも、もう身体のあちこちは酷い状態であろうに。 労わってやりたかった。しかし彼は、戦に必要とされているのだ。 「…すまん、幸村」 「いいえ。…ご無事でよかった」 それなのに、どうして笑うんだ。 言葉に出来ずにいれば、慶次が後ろから肩を叩いてきた。 つっかえて出てこない言葉は、そのまま飲み込まれる。 「兼続はどうした?」 「上杉の兵とともに、徳川本陣へ」 幸村の声は先程、三成の手の中にいた頃よりもずっとはっきりしていた。 「そうかい。遅れをとっちまったな」 慶次はそう言うと兵たちと共にまた走り出した。幸村も振り返り、行きましょう、と三成を促す。 言いたいことがある。 しかし言葉は出てこない。 わかるのだ。戦の熱が、彼を中心に渦巻いている。戦と共にあるべき男だとでも言うように。 言いたい。今。 「…っ幸村!」 「はい」 「…俺の言葉は、おまえに残るのか?」 「…三成殿?」 「俺は、おまえを大切にしたいと思っている。…どう言えば、伝わる?」 「…今は、そのような」 ああ。 結局、自分の気持ちはいつも誰にも届かないのか。この感情の、ひとかけらだって、幸村には届かないのか。 「…そう、だな。すまん、忘れてくれ」 今だから言いたかった言葉だった。 上田から、己の戦いに勝利し、その足でここまで駆けてきた。 彼の姿に、どれだけ救われたか。幸村は知らないだろう。 彼がこれほど無理をして、忠勝を倒し、多くのものを薙ぎ払い、西に風を傾けた。 信じたかったのだ。勝手に。彼が、幸村が、ここにいる理由を。 自分のために、来てくれたのだ、と。 (違うとわかっているくせに) 多くの人間に裏切られた。所詮ここまでの器なのかと何度もそう思った。 しかし彼は自分のためにここに駆けつけて、そして戦っている、と。 愚かなほど愚かな、独占欲だ。 三成は、ぐ、と歯を食いしばった。そして走り出した。 その背後で、幸村が小さく呟く。 「…言葉にしなければ、三成殿も…不安ですか」 しかし走り出した三成には届かなかった。
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