天上の 2



 何をしているんだ、と三成は目の前のものを睨みつけながら思った。
 彼の居室はいまや左近があれもこれもと積み重ねた仕事で溢れかえっている。本来ならばこういった雑念を振り払い、ひたすらに己の仕事に向かわなければならないところだ。
 しかしどうにも気持ちが乗らない。目の前に、あの時何気なく懐にしまった幸村の鉢巻があるからだ。
 彼のものは普通と少し違っていて、額当ての部分に六文銭が誂えてある。それは彼の戦場での心意気を示すものだと聞いた。死をも畏れぬ、とかそういう意味だという。実際彼は修羅場を何度も潜り抜けてきたに違いなかった。
 あの左近との打ち合いがそれを物語っている。平時はそうでもないくせに、突然ある一点を突き揺さぶられると、化ける。
 その彼の、目が忘れられない。
 どうにもあれ以来、寝ても醒めても彼の双眸を思い出す。重い焔の宿った暗い瞳だった。
 あれが、自分の心臓を狂わせる。
 一体どうしたというのだ、と三成は自分を責めた。
 打ち合いの中で見た、幸村はたしかに鮮烈だった。しかしそれを引き出した左近も見事だった。冷静に考えれば、そうやってあの時のことを分析出来る。おねね様に待ったをかけられて、勝敗はそのまま左近の手に握られたが、たとえばあともう少し続いていたらどうだっただろうか。幸村の一撃は徐々に力を増して、重くなっていた。左近が攻めに転じられなかったのがその証だ。
 しかし幸村の額を割った傷は、出血量が多かった。血は間違いなく彼の視界を遮る。実際遮っていたはずだ。ということは、彼の片目はほとんど見えていなかったはず。長引けば幸村の側にも隙は生まれる。見えていないことを庇う。そういう動きは必ず出る。
 しかしあの時、幸村にはそういった躊躇は見られなかった。
「……駄目だ」
 結局また、幸村のことを考えている。
 柄にもなく、ばたりと前のめり、机の上に散らばった書物の上に上体を預けた。三成の顔のすぐそばに、幸村の血を吸ったはずの鉢巻がある。
「……俺はどうしてしまったんだ」
 何か別のことを考えよう。それはもう何度もやっている。
 たとえば次の戦のこと。しかしそうすれば自然と配置のことを考えるようになり、気がつくと幸村のことを真剣に考えている。
 ならばもっと別のことではどうだ、と考える。たとえば茶のことだ。幸村はこういったことに疎いらしい。無作法者で恥ずかしいです、と以前兼続にそう言っていた。では教えてやってもいい。
 そう考えて、やはり駄目だ、と何度目かわからないため息をもらした。
 どうしたんだ、どうなってしまったんだ。何故こんな風に幸村のことばかり考えてしまうんだ。
 いや、あの目が印象的だっただけだ。片目だけが赤く染まって、それは誰の目をも奪う力があった。
 こんなものは一過性のものだ。何かそれ以上の衝撃でもあれば、きっとすぐ忘れる。
 そこまで考えて、起き上がった。幸村の鉢巻を握りしめて、今考えたことをすぐに否定する。
 駄目だ、忘れられるわけがない。
 そうやって、ずっと堂々巡りを続けていた。
 完全に自分の思考に落ちて、それ以外に対して隙だらけになった瞬間だった。
「三成殿」
 控え目の声。戦場でならば高らかに響く声。
「…ゆきむら?」
 それこそ声がひっくり返って、明らかに動揺したのが伝わる声音だった。三成は慌てて、しかし無意識に幸村の鉢巻を懐にしまいこむ。
 まるでとられないように、隠すように。
「申し訳ありません。少しよろしいですか?」
「あ、あぁ」
 なんとか平常心を取り戻そうとしながら、三成が頷く。その声を待っていたように、幸村が静かに襖を開けた。
 そういえば今日はじめて顔を見た。一日中まともに仕事が進まなくて、ここでとぐろを巻いていたわけだから当然だった。
 久しぶりのような気がして、それを口にしかけて、自分の感覚がやはりまともではないことに気づく。彼の額の傷を処置したのは昨日のことだ。久しぶりとかいう状況ではない。
「…申し訳ありません。このような刻限に…」
「………そういえばもう日も暮れたか」
 延々幸村のことを考えて、日は傾いてしまったわけだ。一日を完全に棒に振ってしまった。そう考えればまずいな、とも思う。なんとか理由を追求してどうにかしなければ。
「それで、どうした」
「私の、鉢巻がなくなってしまいまして」
 そういえば。
 言われて当たり前だと気がついた。そういえば懐にそれがある以上、幸村の手元にはいつも身につけているものがないわけだ。
「どうにも気になってしまいまして」
「手がつかなかったか?」
「は、はい。恥ずかしながら」
 幸村の素直な反応に、三成の心臓がまた狂ったように反応した。
「…あれはいつかけつけているんだ?」
「……そうですね、武田の初陣の頃から、でしょうか。新しく誂たりはしていますが」
「………初陣」
「はい」
 では幸村の昔を知るわけだ。左近からほんの少しだけ聞いたことがある、長篠の激戦の時も、幸村と共に。
一体どんな感傷なのかはわからないが、感情を持たないはずのものにすら、過去を考えて手放しがたい。どういう理屈だ。
「いろいろ考えたのですが…おそらく、昨日の打ち合いの時の後、ここで忘れていったような気がするのです」
「ずっと考えていたのか」
「はい。他の方にもあたってみたのですが、皆知らないと言われるので…三成殿が出てきたらと思っていたのですが」
「………」
 そう思って待っていたのに日が暮れても出てこようとしなかったわけだ。
 こちらも同じように、いやそれ以上に、幸村のことばかり考えながら。
「幸村」
「はい」
「返す」
「あ!」
 懐から出した目的のものを見るや、幸村の表情が柔らかくなった。
 それこそ、あんな目をする男と同じとは思えないくらい、柔らかい、安堵した目をしている。
「ありがとうございます。やはり三成殿が持っていてくださったのですね」
「―――…あぁ、片付いたら、おまえのところに持っていこうと」
 嘘だ。
 本当は、幸村が来なければそのまま幾日でも、下手をすれば自分のものにするつもりだった。返すことなど到底頭になかった。
 当然幸村が探していることは予想がつくのに、だ。
「ありがとうございます!」
 自分には出来ないほど鮮やかに、表情をかえる。
 纏う空気をかえる。
 瞳に宿る色がかわる。
 心臓が、どくり、と音をたてた。
「幸村、」
 何か、言わないと。
 名を呼び、彼の意識を傾ける。はい?と何も警戒していない笑顔がこちらを向く。
 しかし声は出なかった。どういうことかは知らない。
 とりあえず一つだけわかっているのは、幸村がいると自分の中で何かがおかしくなること。

 おかしくなっているのは、自分だけだろうか。


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なんかまだ続きそう。