天上の 19




 幸村の手から、刀が弾き飛ばされた。
 その衝撃に幸村の口から鋭く痛みに呻く声が零れる。
 普段槍を持って戦う幸村にしてみれば、本多忠勝との一騎打ちの前にそれを手放したのは手痛い誤算だった。
 しかし、幸村の目から闘志は失われない。素早く周囲を見渡し、忠勝の背後にちょうどいい得物を見つけた。考える間はなかった。忠勝の槍が、その穂先が、幸村の首を討ち取ろうと狙いを定める。その一瞬の隙をついて、幸村は飛び込むように前転した。ぐるりと視界が回転し、忠勝を背にする恐怖に一瞬首筋に悪寒を感じながら、戦場に果てた誰かの得物を手に握る。
 転がった先にまず一本。さらにもう一本を、地面に刺さったものから抜き取った。抜き取った勢いそのままに駆け込む。
 自然と雄叫びが漏れた。
 それは本多忠勝も同様だ。向き合うたびに二人は声を張り上げ、刃を交えるたびに歯を食いしばった。
「さすが、真田と言わせてもらおう」
 やりあう中で、忠勝がそう言った。心の奥に響くような声音だ。もののふの、言葉だ。
「その戦場の、すべてが己の糧とするか」
「そうでなければ、あなたに勝てないだけだ!」
 間合いの違う武器を持ってしても、幸村は強かった。槍の間合いは知り尽くし、相対する中で、刀の間合いをも知っている。それは忠勝も同じことだ。
 しかし幸村は、手から武器を落とされても戦意を喪失しない。何度でも、また戦場に転がる果てた者の得物を握り立ち上がる。
 それはこの戦場にあって、恐ろしいことだった。
 長引く戦の中、この緊張感の中、人がまず最初に思うのは逃れたいという感情だ。昂ぶっている間は、そして調子のいい間はまだいい。
 しかし一時、その流れが断ち切られ、または状況を他人事のように見つめた時、その一瞬に恐怖は生まれる。
 たった一人のここから逃げ出したいという負の感情は恐ろしい速さで伝染する。
 しかし真田にはそれがない。おそれはないというのか。人としてそんなありえない事が、今の彼に起こっているというのか。
 過去の苦難の日々を思い出す。
 苦しみから、その恐怖から、何度家康は逃げたいと願い、打ちひしがれ膝を折りかけたことか。彼の苦しみを知っている。だからこそ忠勝は、誰よりも強くそこに在ることを彼に誓った。言葉にはせずとも、決して折れぬ彼の槍としてそこに在るのが彼の務めだ。
 その己の姿と、真田幸村の姿が、等しくかぶって見える。
 だからこそ、ここで真田に屈するわけにはいかなかった。
「その覚悟、見事よ」
「真田の心は折れませぬ」
「何故だ。何の為に、その心を折らぬ」
 鍔迫り合いの後、強い音がした。両者の得物がそれぞれ弾かれた音だ。腕の震えが、指先に伝わった。あまりの衝撃に、互いは互いの得物を弾き飛ばし、それぞれを丸腰にした。しばし、互いは向かい合い、動かない。
「貫きたいものがございます」
「申してみよ!」
「私は友を大事にしたい!友の志を、私は守りたい。その為の盾となり槍となる!」
「それが貴殿の守るに値する者か!」
「皆、素晴らしい方です。あなたにそれが伝わらないのが、惜しくてならない!」
 何を言うのか、とは忠勝は思わなかった。大いに共感しうる言葉だった。幸村にとって今の言葉は本心だろう。幸村は、今たしかに、打ち合い刃を交えるこの男に己の友の素晴らしさを知ってもらいたいのだ。
 それは、忠勝の中にもある。
「拙者も、殿の素晴らしさを真田に説いてやりたいが」
「―――無駄でございますね。互いに」
 真田の敵はすでに徳川と定まっている。
 徳川の敵は、すでに豊臣と、それに連なる者と定まっている。
 互いが歩み寄ることなど、もうありえない。
 しかしそれでも、知ってもらえればと思うのは愚かではないだろう。互いが互いを、尊重するからこそのこの感情だ。己の中でひとつ、これと定まった道の先にいる人が、それに値する者であることを知ってほしいと思うのは。
 二人はまた口を閉ざした。手にはあるべき得物はない。しかし、向かい合い、ぶつかりあうその瞬間を待つように。
 そうしてみれば、あちこちからたくさんのざわめきが聞こえた。それはたとえば誰かが刃を交え、誰とも知らない相手を屠ろうとしていたり、号令とともに銃声が飛び交ったり。
 この地には、すでにたくさんの人の死が転がっている。
 そして、二人も確かにその地に立っている。ここで顔をあわせたのならば、それはすなわち生か死か。それを決めねばならない。
 どこかで、誰かの声がした。

 そして次の瞬間、刃の交わる音。

 それが、二人の耳に妙な甲高さで響いた。合図だった。何の打ち合わせなどない。しかし地を蹴り、幸村がその存在を鼓舞するような忠勝の槍を掴む。その瞬間、今の今まで忘れていた痛みが、全神経を圧倒するように襲い掛かった。それは、幸村の身体の限界が近いことを示している。しかし、それでも幸村はその槍をとった。振り返り、同じように誰かが手にした得物を片手に走り出す忠勝の、その猛々しい姿。
 それを認めて、真っ白になる感覚があった。
 何も考えることの出来ない、息すら出来ないその一瞬。
 風が駆け抜ける。
 その風が、二人の決着を告げる。

 そして、その余韻に浸る間もなかった。
 戦場に、また鬨の声が上がる。
「伊達軍襲来!!」




 その報せに腰を浮かせた家康は、ぐ、と拳を握った。
 これで流れはまたこちらに傾く。家康にとって伊達政宗は決して心安い相手ではなかったが、今の援軍は願ってもないことだった。
 そして彼は声を張り上げる。
「伊達が上杉を倒しここへ来たことを急ぎ伝えよ!敵にも味方にもじゃ!」
 少し前に本陣を出ていった本多忠勝に、頼ることの多い家康は、伊達軍の到着に安堵した。あの男へかける希望はあまりにも大きすぎる。彼本人は、その分を家康に、重い荷として夢を託しているのだと生真面目に答える。娘の稲もまた同じく。
 そう、少し前に真田が関が原に現れたことは、家康にとっては不意に脳髄を撃ち抜かれたかのような衝撃があった。
 今の豊臣に力などなく、三成にも、そして秀頼にも何の力もないことを、家康は数の力で知らしめるつもりだった。
 待っても援軍など現れない。現れるのはただただ離反するものばかり。
 その孤独の中で朽ち果てることを、望んでいた。
 三成と秀頼を連れた会見の時に、改めてそう思ったのだ。
 秀頼はあまりにも情けなかった。大切に育てられただけあって、彼のどこかおっとりとした育ちの良さ、品の良さ。それは決して悪いことではない。
 しかし家康は幾度となく戦の中で死を覚悟し、耐え、そして歩んできた。
 彼が歩んだだけの重さが、秀頼には感じられなかった。秀頼はまだ若い。しかし若い者ならば伊達政宗のような野心があってこそだ。
 それでこそ、この乱世を生きる者らしい。
 しかし、彼にはその牙がない。隠せるほどの能もない。
 そして三成はといえば、明らかな敵意をむき出しにし、政事の何たるかすらも見失いそうな男だった。
 あれでは兵は豊臣を見限ると、そう思っていた。
 それなのに、真田だけは違ったのだ。
 あれをこちらの手に完全におさめられなかった。その為の誤算か。
 振り返れば悔いることはたくさんある。振り返れば、どれだけ自分の為に死んだ者の多いことか。
「…真田一人の為になど、死ねぬのだ…!」
 そうだ。たくさんの者が、自分の為に散っていった。これ以上、散らしはしない。三成たちのような、綺麗事でこの戦を染め上げようなどと思わない。
 死ねないのだ。
 絶対に。




 伊達政宗が現れたのは、彼らの明るい色の甲冑の群れではっきりと知れた。
 戦場では目立ってこそだと豪語する彼の性格を現すかのような明るい色の甲冑が、そして伊達の旗印が関が原を駆け抜ける。
 政宗が狙うのが、豊臣本陣であることは知れていた。
 そしてその報せは、戦場のすべてに知れ渡ることとなった。
 三成は渾身の力で稲姫の放つ矢を全て鉄扇で叩き落した。
「伊達軍が、来ましたね」
「…っ」
「直江兼続は」
「…そのような言葉で俺が崩れるとでも思ったか」
 三成は切れ長の瞳で稲姫を射るように見据えた。恐ろしいほど冷たい顔をしている。家康のような、滲み出る何かが、何もない。
 やはりこの男では駄目だ、と稲姫は確信した。
 彼が言う大一大万大吉も何もかも、彼の言葉には伝わる思いがない。
 少なくとも、稲姫には伝わらない。
「友が死んだというのに、冷たいのですね」
「死んでなどおらん!兼続が、そう簡単に死ぬか!」
 そう叫ぶと、三成は鉄扇を握りしめなおして稲姫に突進した。下から切り上げるように、己の武器を振り上げる。稲姫の高い悲鳴が届いた。と、同時に吹っ飛ばされた稲姫が、気丈に地に足をつけた瞬間に矢を放つ。 しかし矢は三成からは僅かに外れた。三成の周囲にいた雑兵にその矢が突き刺さり、一人が呻いて倒れた。
「では何故、伊達軍がここにいるのです!彼は上杉討伐を命ぜられて、奥州から駆けてきたのですよ。真田幸村が、ここに来たことと同じことが起こったのだと何故わからないのですか!」
「そんなことがそう何度も起こるわけがない。これは兼続の策だ!」
「義などと口にするばかりでは、天下はとれません!」
 そんなことがあるものか。三成は腹の底からそう叫ぶと、稲姫にめがけて再び強く打ち付けた。ぐ、と呻く稲姫に対し、三成がもう一度打ちつけようとした瞬間。

「殿!」

 それを叱責するような声が本陣に響いた。それは重傷のはずの左近だ。刀をどうにか掴んで、こちらに来る。彼を守るように、そばについているのは、あれは。
「…何故出てきた!怪我人は邪魔だ!」
「その女は討ち取らずに捕らえるべきです」
「…ッ」
 頭に血の昇った状態の三成に、左近が冷静にそう言った。その通りだ。頭ではわかっている。しかし兼続を死んだと断言するこの女を、三成はどうしても許してやる気になれなかった。
 その様子を見かねたように、左近が続ける。
「兼続殿が気になるのならば行ったらどうです」
「な、なに?」
「殿、我らには真田がいます。伊達が来ようが、関係ない」
「……左近」
 左近の口から、その言葉が聞けるなどと誰が思っただろうか。
 いまや左近は全幅の信頼を、真田幸村に見せている。どういった心境の変化か。
「本陣なら、まぁ俺が。幸いなことに、心強い味方もいますので」
 後ろでくのいちがあたしのこと?と明るく笑う。その声に、そうだ、と思い出した。時折幸村の周囲に現れた、忍びの女だ。いつの間にこの本人に来ていたのか。そんなことよりも、何故左近を庇うようにしているのか。
  彼らの間に何があったのかはわからない。
「左近…おまえ、重傷のくせに」
「なんとかなりますよ。幸村がここに来たみたいにね」
「…あいつは…」
 三成は、空を見上げた。
 茜色の空。
 いや、と思い直した。今はそれどころではない。何かの感慨にふけっている場合ではない。
「…すまん、左近。頼んだ」
「心得ました」
 左近の言葉をほとんど待たず、三成は走り出した。出るぞ、という声にいくつかの制止の声が飛び交う。しかし今の三成を止められる者などいないのだ。
 走り出し本陣を飛び出した三成を見送ると、大きく息を吐き出して、痛む身体を堪えながら稲姫のもとへかがんだ。
「あんたも、ずいぶんとやるもんだ」
「…っ」
「いなちん、おとなしくしててね」
 くのいちが素早く彼女を縄で縛り上げ、拘束した。本多忠勝の娘だ。豊臣方に捕らえられたとあれば、本陣に雪崩れ込む武将たちの動きも止められるだろう。
 残念だが、左近の身体は前線に出られるほどの体力を残してはいなかった。
 無謀にも三成が、西軍総大将が本陣を飛び出していくなど、戦の作法としてはありえない。ありえないが。
「どしたの、気持ち悪い」
 笑っている左近に、くのいちの容赦のない一言。
 しかし左近はいささかも不快に思っていないようだった。
「いや?」
 ありえない事ばかりが起こっている。この関が原で、何が起きようとしているのか。左近にはもう見当もつかない。
 だから後はただ、その「ありえない」を最初に引き起こした真田の力に任せるのみ。伊達が来ようがどうしようが、それがどうなるのか左近にはわからない。すでにこの戦は策が弄されるものではなくっている。
 数が全ての戦ではなく、時の運すら押し返して。
 そんな戦になってしまったら、軍師が出る幕など、もうないのだ。
 あとは、戦場を駆ける、もののふの力だ。

 幸村、おまえに全てがかかっている。



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