戦いの勝敗は五分と五分。真田幸村の到着による豊臣方の士気の向上と、徳川方でまことしやかに囁かれている豊臣秀吉の亡霊が戦場で戦っているとの情報。それによる徳川方の士気の低下。 大筒はすでに停止している。小早川をはじめとする一部の豊臣方の諸将は裏切り、徳川方についていた。兵力差は今、圧倒的に徳川方に有利と出ている。 しかし数の力で豊臣方を蹂躙できるとは、とても思えない状況だった。 「真田の援軍で風向きが変わったか」 そう呟いたのは、家康に厚く信頼され、その信頼の強さだけの忠義を傾ける男だった。 さすが真田の血よ、と喜ぶ心も、彼の内にはある。 (稲よ、おまえもあれの一族に連なる者の一人と知れ) 口には出さず、己の娘に対しそう呟いた。 娘の夫はこの真田の兄だ。しかし徳川と豊臣と、もはや道は分かたれた。 「豊臣本陣へ向かうぞ」 彼はそう告げると、すでに別働隊で動いているはずの娘のことを思った。 芯の強すぎるほど強い、良い娘だ。彼女が幸村を討ち取れば、夫との間に何がしかの不和をもたらす可能性はある。 真田信之という男は、決してそのような男ではなかろうが、やはり考えられる可能性の芽は摘んでおくことも必要であろう。 「真田幸村はこの本多忠勝が討ち取る!」 低いがよく通る声が、周囲の空気を震動させた。彼の決意と闘志が滲む声だった。
徳川方に届いた伊達軍の動きは、素早く豊臣方、三成が詰める本陣へと届いた。徳川方の策である。伝令の言葉に、三成はそんな馬鹿な、と叫びかけた。それをなんとか堪え、この事は豊臣方の誰にも知らせてはならぬ、と告げた。伝令として現れたその男は徳川方の間者だが、三成は気付かなかった。素早くその場を後にする伝令の様子など気にも留めず、呆然と空を見上げた。 すでに陽は西に傾きはじめている。周囲は何もかもが茜色に染まっていた。 (兼続が?) 放っておけばいくらでも喋る、あの生気に溢れたような男が、討ち取られたというのか。あの傾気者、前田慶次がついていながら? それこそ、今幸村がこの関が原で戦っていることよりもありえない気がした。しかし伊達軍は強い。その牙は秀吉にも家康にも隠されているが、彼があの年にして奥州の王として君臨していることを考えれば、それだけで十分彼が、そして彼の率いる軍が強いことを表していた。 「ありえん…!そんなことが、あるものか…!」 声に出して呟いて、可能性を否定した。上杉の軍だとて強い。武田とぶつかりあっていた頃のような決定的な力はないにせよ、彼らには前田慶次がいる。 しかしそれでこそ、一人の力であることはわかっていた。 前田慶次一人がいようとも、戦とはそれでどうにかなるものではない。御伽話のように、たった一人の誰かが全てに打ち勝つなど出来ない。 その考えを打ち消そうと必死にしているうちに、突如本陣のすぐそばで鬨の声が上がった。 見れば、すぐ近くに本多の旗印。まさか、と息を呑むよりも早く、矢が三成に向けて放たれた。それを鉄扇で弾き、三成はその弓矢の飛んできた先に立つ女を睨む。 「…貴様」 「本多平八郎忠勝が娘、稲。石田三成、その首頂戴いたします!」
秀吉が向かったのは特に彼が良くしてやっていた福島正則と加藤清正のところだった。思えばこの二人は三成と仲がよくなかった。 その結果として今、彼らは豊臣から離れ、徳川方についている。 だからこそ、秀吉は二人の元へ向かった。 「…ッ」 秀吉様、と声にならない声が聞こえた気がした。ああ、やはり出てくるべきではなかったと心の片隅が痛む。 今更、彼がどうこうするつもりはない。 ただ、聞きたいことがあって彼はこの二人の前に現れたのだ。
「それで、おまえさんらは満足なんか」 たとえばここで徳川が勝ったとして、どれだけ武勲を挙げようと、彼らが重んじられることはないだろう。単純な頭で考えればそんなことはないと思うかもしれないが、徳川は決して豊臣方を良く思っていない。特にこの二人は秀吉の寵臣としてつかえていた。その彼らを、あの狸が信頼するわけがないのだ。 うまいこと言いくるめられ、決して永くは続かない。 それらを口先三寸であれうまく掻い潜ることは、彼らには出来ないだろう。 伊達政宗が秀吉に謁見した時のような豪胆さもない。それぞれはそれぞれの強さがあり、豪胆ではあるが、背負うものが、今徳川方にいる理由が、あまりにも軽い。 「………」 彼らは何も言わなかった。言わないが、戦う意思だけは見せた。 清正が先に槍を強く握りしめなおした。戦うのだな、と秀吉の瞳はすっと細められた。しかし秀吉は動かない。 しばしお互いは睨みあった。 彼らには彼らの言い分があり、決して軽い気持ちでこの離反を決めたわけではないのだろう。 伝えるべきだった様々なことを、伝えきれなかったのだろう。 皆が笑って暮らせる世、というのは。 「…皆が笑って暮らせる世、はな。ワシ一人が死んで終わるような世のつもりでは、なかったんじゃ」 「…何故、今更そんなことを言うのですか!何故、今更戻って」 「そうじゃな。ワシは卑怯なんじゃよ」 秀吉が、笑う。桜並木の下で、ねねや、秀吉と、そして三成とで手作りの茶漬けを食べていた時のことが思い出された。おそらく、秀吉も正則も清正も、全員そのことを思い出していただろう。 清正が槍を振り上げた。何か叫んでいたようにも思う。しかしそれは、秀吉には届かなかった。きっと言葉にならない声だったのだろう。 瞬間。 戦場に轟く銃声。 腕から弾かれた武器が、折れて地面に転がった。 その衝撃で、清正が落馬する。正則が馬から降りて、走りながら抜刀する。 再び、銃声。 正確に、的確に、正則の利き足を貫通するようにどこかから銃撃された。 呻き声を上げながら、正則が転がる。痛いだろう。治療が早ければ死ぬことはないはずだった。 「殺さん。武士として、どんだけ苦しもうが、ワシはおまえらを殺さん。とにかく、ここから去れ」 秀吉の言葉に、二人は顔をあげようとしなかった。 武士として、その場から逃げ出すなどどれほどの恥になろうか。 どれだけ辛いことを科しているかもわかっている。しかしそう言うより他なかった。 もう、いい。 「その方が、ねねも喜ぶ」 「………」 ふと秀吉が辺りを見渡すと、すぐ近くに酷く目立つ女が立っていた。 「任せてもええか?」 「よろしおすえ」 大輪の花のように微笑む、合戦場にそぐわない女。 「お二人とも、よろしゅう。ここから女一人で逃げるいうのも、こわいわぁて思うてましたのよ」 まだ二人は顔を上げない。怖いなんて言いながら、あちこちで人が死んでいる光景に、彼女は怯んでいる様子もなかった。肝が据わっているのか、それともそういう感覚が麻痺しているのか。とにかく彼女は気丈に言ってのけた。 「お二人とも、頼りがいがあってええ男やわぁ。おおきに、よろしゅうな」 秀吉が去り、走り去った後、阿国は二人を力任せに起こした。いつまでもこんなところで転がっていては、打ち首とられてしまう。 「あら、怪我されてはるん?」 無理やり茂みに二人を連れ込み、阿国は正則の怪我を簡単に手当てした。 足を撃ち抜かれている。これではおそらく長い時間歩くことは難しいだろう。 「…女」 その手当てを見ながら、まだ軽傷の清正がぽそりと呟いた。 「なんでっしゃろ?」 「ここが、どういうところかわかっているのか」 「重々、わかっとりますえ。天下分け目の関が原」 そう口にしながら、阿国は安心しきっている様子だった。今の今まで、生きるか死ぬかの境目で戦っていたということをまったく思ってもいないようだ。 「おまえを殺すことなど、造作もないのだ」 「嫌やわ、転合いわはって。うちを討ち取って、何の武勲があげられるわけやございません。清正はんも、正則はんも、そんな面倒しやしまへん」 花のように笑う女だった。 害があるかもしれない。害はないかもしれない。ただ美しく、目に優しく。 「さ」 立ち上がる阿国に、清正は泣きたくて、でもそれを我慢してぐっと堪えた。 秀吉が生きていた、それがどうしてかはわからない。 ただ、わかっているのは、もう二度と秀吉と顔は合わせられないということだ。 豊臣という大きくなりすぎた家を、守り立てるはずだった。 道は、分かたれて、今ではもう遠い。 (…やはり、嫌いだ) 三成。 奴の歩く道が正しいだなんて思わない。が、それでも、たった一人、豊臣に仕え続けている彼が羨ましくも思えた。
気がつけば周囲は死屍累々となり、立っている者の数の方が少なくなりつつあった。 幸村は、肩で息をしていた。 上田城での戦いの後ここへ急行し、また戦い続けている。幸村の連れてきた兵も、もうほとんどいなくなっていた。 あまりにも無理をしている。 先程、左肩を矢が突き刺さった。そこから少しずつ力が零れだしているような感覚がある。力を振るうよりも素早く、外へ外へ。 「………」 消耗している彼の前に、誰かが立ちふさがった。名乗りをあげていたようだったが、聞こえなかった。幸村は彼が抜き放ち振りかぶる瞬間、走り出して十文字の槍を渾身の力で突き上げた。 相手はそれを間一髪で刀で防いだ。しかし幸村の押し込む力の方が強い。 ぎりぎりと力がぶつかりあい、その力を逃がそうと男はこちらも渾身の力で押し返した。ぱっと火花が散るように見えた。うまく力を逃がすことが出来たと思った男は、次の瞬間重い音と衝撃に、己の身体に視線を落とす。 幸村の槍が、再び彼に迫り、今度はその切っ先が甲冑を貫いていた。 なんで、とかそんなようなことを呟いた。 そのまま崩れ落ちる。幸村は槍を手放した。 息が荒い。 己のその息遣いが、あまりにも激しく聞こえた。脳の奥に直接響くような感覚だ。空気が薄いような気がした。どれだけ深呼吸を繰り返せども、落ち着ける気配がない。 それなのに幸村の感覚はすでに研ぎ澄まされていて、次にどこから何が来るか、まるで予見するように見えていた。 来る。 幸村は自分の手に武器がないことに気付き、先程の相手の身体を見た。うつ伏せに倒れる男の身体を無造作に足で蹴ると、骸が重たく転がる。抜刀された刀がその身体の下に見えた。何も考えずにそれを拾い、強く握り締める。 そしてその瞬間、突風のような風が頭上を吹き抜けた。 刀を手にしたまま器用に転がった幸村は、体勢を立て直して振り返る。 「………」 相手は強い瞳で幸村を見据えた。強い意志の見える瞳だ。兜の下でもそれがはっきりわかる。 「真田幸村」 「…本多殿」 お互い、しばし睨みあった。二人のその様子に、周囲は誰も手を出せず、一騎打ちの様相を呈しはじめる。 誰も、割って入れるはずがなかった。 かたや家康に過ぎたる者と言われ、誰もがその武勇と心根に一目置く本多忠勝。過去、どれだけ家康に危機が迫ろうとも、必ず彼がその危機を救ってきた。 手にする武器は、止まり木代わりに寄ってきた蜻蛉すらも真っ二つにされるという蜻蛉斬。 かたや、家康が恐れる真田昌幸の次男。最も濃い血の匂いの中生きる、武士の中の武士だ。今ですら、上田の戦いの後、関が原へ急行した。ここにいてはいけないはずの男だ。彼の旗印の六文銭が風に揺れ、不気味に敵の心を支配した。 「槍は、どうされた」 「そこに転がる男が欲しがったので、冥土の土産に」 「成る程、真田の槍ならば良い土産にもなろう」 幸村はじっと忠勝を見つめる。その視線を真っ向から受け止める忠勝も、決して幸村から目を逸らさなかった。 「一度」 幸村がゆっくりと語り始めた。 「本多殿とお手合わせ願いたいと思っておりました」 そう語りながら、幸村はざっと周囲を見渡した。 辺りにはたくさんの雑兵が転がっている。 その死体の山の中、幸村が目で追うのは。 「行くぞ。真田幸村。今ここで、戦国の決着をつける!」 忠勝が、蜻蛉斬を振り上げた。
左近は本陣の最奥で怪我の手当てを受けていた。 しかし傷は思っている以上に左近の身体を蝕んでいる。左近は笑う余裕すら、なかった。 「……」 血がだいぶ流れた。明らかに足りなくなっている。眩暈と頭痛が酷かった。それよりも、肩に重く痛みがのしかかり、身体全体に負担をかけていた。 手当てを終えると、左近はそのまま一人にしてくれと頼み、周囲からは人払いをさせていた。今はとにかく、誰にも会いたくなかったのだ。 一人になって、考えなければ。 幸村が来たことで、戦場は五分の戦いを続けている。敗北の見えていた戦に、活路が見えはじめている。 おそらくまだしばらくはもつだろう。しかし敵の数は多い。決して時間はかけられない。多くの時間をかければかけるだけ、数の力に押し返される。 短期決戦に持ち込まなければならない。 かといって、ここで決定打になるような他の切り札を、左近は何も持っていなかった。大筒はすでにその動きを停止している。 幸村の他の援軍はあるはずがない。考えられるとすれば、兼続たちが到着することだが、それは難しいだろう。 「にゃっははー。ずいぶん暗いんじゃなーい?」 場違いな明るい声に、左近は慌てて顔を上げた。 「お、まえ」 「幸村様が来たからって希望でも見ちゃった?」 彼女の姿は、幸村が三成を庇って倒れて以来だった。久しぶりだ。 何故この合戦場に、と思う。が、それと同時に、幸村がここにいるのだから当然なのか、と思うと納得がいく。 厳密には今、幸村の下で働いているようではなかったが。 「ひとつ教えてあげる」 「何?」 「良くない報せとすごく良くない報せ、どっちがいい?」 武田にいた頃、よく幸村についていたくのいち、武田が滅び、今では特に真田についているわけでもないようだったが、幸村に何かがあるたびに現れる。左近はじっと女を見つめた。 「…じゃ、すごく良くない報せを頼む」 「にゃは、いい根性!…伊達がもうすぐ到着しちゃうよ」 「…伊達が?」 どういうことだ。 兼続の策は、日の本をひとつの戦場と見立てたものだった。左近からすれば壮大すぎて笑ってしまうような夢見がちな策である。 それを、そう指摘してやれば兼続は少し気分を害したか、しかし指摘されたことは想定していた事だったのか、不敵に笑って答えたのだ。 「勝つための策は今からまだまだ作るぞ!」 そう言い切った。 どこまでが彼の策かは知ったことではない。左近にとってこの関が原は、三成に報いるための戦だ。 不義を憎む志。あの時たしかに、三成はそう言った。同志が欲しいのだと言っていた。家臣が欲しいのではない。同志が欲しい。 その言葉に不覚にも心が熱くなった。それと同時に、ずいぶん寂しい人だと思った。それは、彼の周囲は敵しかいないということに他ならず、実際その通りだった。 それだけの禄を出すと言った三成の周囲に、同じ志の相手がいなかった。 それは寂しいことだ。悲しいことだ。 しかも三成は戦場を駆け抜け武勲を挙げる男ではない。それ以外のところで、頭をひねり、円滑に事を進めるための男だった。 だからこそ、周囲に誰もいなかったのだ。幼い頃から共に兄弟のように育ったはずの二人からも、今は裏切られている。 そんな彼と、最初に友になった男だ。直江兼続という男は。 「…上杉はどうなった」 あの男がいたから、今この関が原で戦っているのだ。 それなのに、幸村が生きてここに来たというのに、この策を弄した本人がいないのか。そんな馬鹿なことが。 「知らないか、上杉の、直江兼続だ。どうなった?」 戦場で、たった一人のことを調べるのは難しい。彼がどうなったかなどと、このくのいちが知るわけがなかった。 だがつい聞いてしまうのは、俄かに信じがたいことだからだ。 「あのねぇ。それどころじゃないよー?」 「どういう」 「いなちんが本陣に来てるんだよー?」 その言葉に、左近は勢いあまって立ち上がった。 本陣に徳川軍が? しかも、本多忠勝の娘が? 「…っ」 刀を持とうとした。が、大振りの刀は傷を負った身には決して易しいものではなかった。振り上げようとしても力が入らない。 「あのね」 「……なんだ」 「あたし、あんたのこと嫌いじゃないよ」 「……?」 「幸村様は一番ね。好きとかそういうのもう飛び越えちゃってるの。あの人は生きてなきゃいけないの。あたしには、そういう人」 「…だろうな」 「あんたは、だから嫌いじゃないの。幸村様があんたを守ろうとしたんだから、私も守ったげるよ」 「……面倒な女なんだな」 「にゃはは」 戦というのは、大きな力がぶつかりあい、たくさんのものを消耗する。それは人であれ、それ以外のものであれ、戦によって生まれるものなど何もない。 その中で、流れのようなものを感じる時はままあって、例えばどちらが勝つのかといった気運のようなものであったり、誰を中心にしてその風が巻き起ころうとしているのかだったりする。 左近は今、確かに感じていた。 風は西に吹いている。その風は、たしかに真田幸村が巻き起こし、彼がその中心に立っている。 上杉のことについては、左近は考えるのをやめた。 そう簡単にあの男がくたばるわけがない。そしてあの男についている、戦さ人がいる。長篠という地で、幸村を救い上げた男だ。 そんな奴がいるのだ。きっと伊達軍の後ろから、不義だ不義だと叫びながら、上杉軍が到着するに違いない。 左近は顔を上げた。眩暈も頭痛も、貫通して風穴のあいたはずの肩も、痛みは決して引かないが、そんなものにかまっている時ではなかった。 「……真田の戦、見届けてやるか」
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