天上の 17





 銃声が、聞こえた。
 幸村は馬を走らせていた。たどり着いた先は、驚くほどの人が事切れていた。それが人かと判断するのすら難しいほど、その場はたくさんの骸が転がっていた。一瞬、過去の合戦が思い出された。脳裏に閃いたその光景を振りかぶるように消し去る。過去を振り返っている場合ではない。
 聞こえた銃声に幸村は馬を走らせた。兵たちに守られるようにしているのは、よく知る人だ。
「左近殿!」
 馬から飛び降りた。走りよろうとする幸村の行く手を阻む者はいなかった。
 左近は幸村の顔を見ると、自暴自棄のように笑った。
「俺もヤキがまわったな」
「撃たれたのですか」
 驚くほど、幸村の声は冷静だった。混乱の極みにあるこの合戦場において、それは一種異様なほど。
「ここは退いてください。護衛いたします」
「…幸村」
「銃で撃たれた傷は、必ず熱を持ちます。あまり無理はなさらず」
「なんで、ここに来た」
 痛みに顔を歪ませて、撃たれた肩をかばいながら左近は立ち上がった。雑兵たちが左近の動きにあわせて、囲みを突破させないように左近を庇っている。幸村はそれをすばやく見渡した。敵の数はさほど多くない。
「私が、もののふだからですよ」
 幸村はそう言うと、さぁ、と左近の背後を守る形で立った。
 左近は気力を振り絞って立ち上がった。眩暈がする。血が流れすぎたのか。そう思えば、幸村が後ろから支えてきた。
「…真田隊が来たって話はもう知れ渡ってる。今、豊臣の…勢いを支えるのはアンタだけだ」
 そしておそらく、徳川方に寝返った誰もが慌てている。真田隊の到着により、今、時流はどちらに傾こうとしているのか。大筒はすでに止まり、豊臣方の何人もが裏切り、数の差は圧倒的に徳川方へ有利をもたらしていた。
 それを、引き止めてどちらに転ぶかわからなくしたのは、紛れもない。真田幸村の力だ。
 上田からここまでをひた走り、間に合わせた。その意志の強さが、負けの見えていた戦を均衡を保つほどに引き戻した。
 それは、普通ではありえないことだ。たった一人、数百の兵が来たというだけで、どれほどのものか。所詮戦とは力と数だ。だのに、それをあっさり覆すこの男は。
 こういうのを、なんて呼ぶのかわからない。
「私の首をあげれば、さぞや武功をあげられましょうか」
「そうだ。だから、…俺はいい。一人でなんとかなる」
「…『私は自分が情けない』」
「…?」
「覚えておられますか?」
「…あんたが、怪我をした時だったか」
「そうです。ここで左近殿をおいて敵に向かっても、左近殿が討ち取られてしまっては、結局私は何のためにここまで来たかわからないではないですか」
「……アンタは」
「左近殿が言ったのですよ。『どんな風でも満足しない』と。その通り、私は貪欲なのです。豊臣が勝ち、天下を治め、しかし誰も死んでいない。そういう世を、私は望みます。心から」
「…殿に、あの人にそれが出来ると思うか?」
「その為に、今まで辛い思いをされてきた」
 幸村は、力任せに左近に肩を貸して歩き出した。この状態で敵に襲われればそれこそ終わったも同然だ。本当に、何故こんなにもこの男は。
 まるで御伽噺に出てくる者のようだ。ばったばったと敵を倒して、世界は幸せになりましたとさ、と。めでたしめでたし、で終わる子供騙しの物語の、中心にいるような男だ。
「…幸村、あんたは怖い奴だな」
 希望を、持っていいのか。
 たしかに、戦場に轟くあの声。そして赤の甲冑。六文銭の旗印を見た時、左近は光を見出したような気がしたのだ。絶望で埋め尽くされる瞬間を、それこそ無理やり照らすような。
 幸村が笑った。そうですね、と笑う姿にまた眩暈を覚える。
 三成が、何を思ってこんなに幸村幸村、と夢中になっているのかがわからなかった。武田の時代の幸村を知っていたからかもしれない。
 ただ、今ならわかる。この男をそこまで思う理由が。
 あまりにも眩しい。
 闇を照らす、炎だ。


「左近…!?無事、か…。ッ!?」
 本陣にまろぶようにたどり着いた左近に三成が走り寄る。大丈夫とは言えないらしい左近は、皮肉な笑みを浮かべて本陣入り口そばへ目を向けた。三成もその視線の先を追う。近くから聞こえる声にびくりと肩を揺らした。
「…殿、幸村です。あなたのためにここまで来て、戦っている」
 まさか。そう思いながら三成はじっと声のする方を見つめていた。しばらくすると、悲鳴が上がった。幸村のものではない。
 するりと本陣に入ってきたその姿は、まぎれもなく真田幸村本人だった。
「三成殿、左近殿を」
 それだけ言い置いて、また踵を返そうとする幸村に、三成は慌てて声をかけた。掠れていたかもしれない。裏返っていたかもしれない。
「何故、来たんだ…!」
「―――三成殿」
 戦いの最中だ。今だってその一瞬前に一人の命の灯火を消したはずだ。しかし幸村は何も変わらない様子で笑った。
「私が、それを望んだからです」
「…ッ」
 幸村がまた走り出す。今度はそれをとめられなかった。
 世間は、自分と違う世界を見、それを欲していたはず。
 そのために、排除されるべきは今、まさに豊臣方である自分たちである、と。
 一瞬前までそう思っていた。
(ゆき、むら…)
 たくさんの裏切りがあった。兵力差はすでに話にもならない。しかし、それに臆することなく、幸村はここに来た。この関が原に。
 そして何にも怯まず、望んでここへ来たのだと。
 三成が望む世界など誰も望まず、ただもう負けるのみだと思っていた。本陣に敵が雪崩れ込むのも時間の問題だと。なのに。
 幸村が、ただ一人幸村が言ってくれた。それだけで、こんなにも心が温まる。それを望んだからだ、と。
 泣きたい、と思ったのははじめてだ。
 涙など、流すべきものではなく、自分の理性に逆らって流すものだと思っていた。しかし、今はただ泣きたい。
「…左近、おまえは休んでいろ」
「言われなくてもそうしますよ。…殿、……こんなことは軍師として言いたくはありませんが」
「…なんだ」
「この戦は、勝てる。そう思いますよ」
「……楽観的、だな」
「そうですな」
 しかし、それは三成も同じだった。
 そう、そうだ。勝てる。無条件に、そんな夢みたいなことを信じたくなってしまう。
 幸村一人が来たところで劣勢であることは変わりがないのに。
 どうしてこんなに、顔を上げたくなるのだろう。
 立ち上がり、戦おうと思うのか。
(幸村が…)
 たった一人、幸村がこの場に現れた。
 それだけで。


 徳川方の本陣では、あらゆる情報が氾濫していた。家康は本陣で一人、腕を組んで言葉を失っていた。配下の者たちは、皆それを深いお考えの最中なのだ、と思い込んでいた。殿は落ち着いている。勝利は我々に傾いている。決してそれに、間違いはない。あらゆる希望を、豊臣方からは絶ったはず。
 実際家康が何を考えているのかと言えば、二つの噂だった。
 ひとつ。
 真田隊の到着。これは真実らしい。赤い甲冑の一群が関が原を駆け抜けるのを見たとか、あの六文銭の旗印が、はっきりと揺らめいていたのを見たとか。
 真田は上田城にて家康の息子を足止めしていたはずだった。そこにいたはずの幸村がここにいて、家康の息子が現れない。どちらが勝ち、どちらがその戦で負けたのか。はっきりわかることだった。
(…いや、今はそれよりも)
 もうひとつ。
 死人が蘇ったという噂が、あった。
 どういうことだ。一体何故今、こんなにもありえないことばかりが立て続けに起こっているのだ。
 しかも、その死人の名がたちが悪い。
「ありえぬ。…ありえぬ、よ」
 しかしそのありえない事が、起こっているのだ。

 突如単体現れた男に、立派な甲冑をつけた徳川方の武士の一人が尻餅をついた。その顔は驚きに双眸が見開かれ、それこそ亡霊でも見たかのような顔をしている。
「な、な…!!」
「なんじゃなんじゃ、言葉を忘れたか!?ワシを猿とか言う前に、貴様も十分猿同然じゃな!」
 快活に笑う声の主は、生前と変わらぬ姿で戦場に立っていた。会う人間会う人間みな、驚き言葉を失い、またあるいは腰を抜かして南無阿弥陀仏を唱える始末だ。全く武士ともあろうものが情けない。
 しかしそれは当然のことだった。盛大に弔われたはずの男だった。その男が、何故今生きてこの地を踏むのか。
 まるで血の臭いをかぎつけて、蘇ったかのような恐ろしさがあった。
「知っとるか?海の向こうの国にゃあ、死んで蘇った悪魔が英雄になることもあるそうじゃ」
 ワシのことかのう?と笑う。

 その男の名は豊臣秀吉。
 死んだはずの男だった。

 真田幸村と、豊臣秀吉。今この場にいないはずの二人。その二人が、徳川の士気を大きく乱していた。


「殿、ご安心を。伊達が来ます」
「…何?」
 家臣の一人がそう告げた。家康は驚いたように顔を上げる。今この関が原で、一体どれだけの力がぶつかりあおうとしているのか。
 しかしそれは、好都合だった。
「早駆けの者から言伝を。こちらに向かっているとの事でございます」
「…では、上杉は…直江兼続は討ち取ったということか」
「おそらく」
「…それを敵に知らせよ。どのような手段を使ってもかまわぬ!」
「は!」
 走り去る家臣の背を見つめ、家康がぼそりと呟いた。地の底から響くような声だった。
「わしは負けん。…負けられぬよ…!」
 背負うべきものがあるのだ。
 たとえ亡霊が姿を現そうとも、たとえこの場に現れるはずのない者が現れたとしても。たとえ不義だとどれほど糾弾されようとも、だ。



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Blaze of fire