ぐ、と三成は己の鉄扇を握り締めた。大一大万大吉の旗が不安定に風に煽られはためいている。 遠くからは大筒の炸裂する音が聞こえる。鼓膜を揺らす震動音。風にそよいでやってくる、火薬の臭いと人の死の臭い。 風は、東から吹いている。 左近はすでに本陣を出ていた。数では圧倒していた豊臣方は、気がつけば相次ぐ裏切りにあって確実にその数を減らしている。 何が人の和だ。結局数の力に支配されて終わるのか。 状況は圧倒的不利だった。あちこちで聞こえる怒号はどちらのものか。本陣を空けるわけにはいかず、三成はずっとその場に座して、叫び出したいのを何度もこらえた。 こんな時、秀吉だったらどうするのか。 あの人に出来ても自分に出来ないことは多すぎる。他人を魅了する術を知らない。人心を掴むような、鼓舞することすら出来ない。その証拠に、もうずっと島津は動いていない。これだけの戦を前にして、だ。義戦だ。彼らの得意とする作戦は、正々堂々とした勝負においては邪道だ。だけれども、これは戦だ。すでに裏切りはあちこちで起こり、心は折れる寸前だ。逃げ出している兵士も多い。 島津は逃げずにそこにいる。豊臣の世が崩れ去るのをただ傍観しているように。 そんな中、左近はそれでも前へ進もうとしている。勝ち目はない。あまりにも、絶望的だった。 左近も運がない。人を見る目がない。 そう自嘲して、三成は血がにじむほど拳を握った。 それは全部自分のせいだ。あまりにも、あまりにも幼かった。 心で戦など出来るはずがない。人は強いものを好む。結局は支配されたがる。徳川はその器にかなっている。 悔しさのあまり、眩暈がする。歯を食いしばり、不甲斐なさを何度も罵り、そんなことをしていてもしょうがないと立ち上がり、遠くから聞こえる大筒の音と、馬が地面を揺らす震動を聞き、人々があげる声に苦しんだ。 もう何度も、斥候からの最悪の事態へ坂道を転がるように突き進んでいることを聞いている。 小早川が裏切った。毛利も、他の武将たちも。 秀吉が没してから、一体どれほど自分の思う通りに事が成っただろう。結局いい気になっていただけか。秀吉に信頼され、それを当然とし、豊臣の、血こそを天下を統べるに相応しいと信じ、徳川の天下を狙う動きに不義だと罵ってみても。 世間はそうは見ていないのだ。 自分が見る世界と、違う世界を、世間は欲している。 誰かがここにいてほしかった。誰でもいい。この気持ちは間違っているのか。信じた道は間違っているのか。どうすればよかったのか。 兼続は、幸村は、どうしている? 会いたい。会いたい。誰かこの声を聞いてくれ。
幸村は馬を、ただひたすらに駆けさせた。全力でだ。何頭潰しているかわからない。身体も悲鳴を上げている。率いたはずの兵士たちは、だいぶ脱落していた。当然だ。戦の直後にまた戦へ転じるためにひた走るなど正気の沙汰ではない。わかっている。あまりにも酷いことをしている。これが天下を分ける戦なのだ。その為の戦であり、終わらせるための戦だ。頭ではわかっている。だから兵たちも何も言わない。 しかし、終わらせるのは本意なのか。よくわからない。結局自分は戦でないと生きられない。人と人の命がぶつかりあい散り行くあの場でなければ、自分を生かせない。 それは、戦とともに終わるべきだとも思う。だからこんなに戦場を求めて走るのかもしれない。 兼続と約束したのだと建前を作り、三成の義戦に助力するためだと叫びながら、そうではないのかもしれないと心のどこかの冷静な部分がそう呟く。 もうそれでもよかった。ならば戦に殉ずるまでだ。 三成は、きっと喜んでくれるだろう。 合戦場はまだなのか。三成の姿は見えない。当然だ。まだ遠い。 辛かった。今こうしてひた走っているうちにも、三成は討ち取られている可能性だってある。そう思うと怖かった。そう思うと、休む余裕はどこにもなかった。兵に無理をさせている自覚はある。馬を何頭潰したかわからない。身体のあちこちが、悲鳴を上げている。 意識も何度か飛ばしているかもしれない。時折ふっと視界が変わるのは、そのせいか。だとしたらもう本当に、関が原こそが自分の死ぬ場所かもしれない。 三成のもとにたどり着いて、そして死ぬ。 ああ。 なんて甘い夢だろう。 ぐ、と歯を食いしばった。朦朧とする意識を引き起こし、幸村は強く前を睨む。 進め、とまるな、走れ、そしてたどり着け。 戦場に。 ふと視界が開けた気がした。遠く向こうから、狼煙が見える。 あれは、何の狼煙だ。誰があげているものだ。ここはどこだ。 自分は。 何を望んでここへ来た? こちらに気づいて顔色をかえる誰かが見えた。旗印、あれは誰だ。どこの人間だ。走り寄るなり抜刀するその姿。あれは。…あれは! ほとんど無意識に槍をふるった。一閃、男が吹き飛ぶ。 ざわめきが届いた。見えているか、連れてきた兵たちは、真田の旗を揚げているのか。赤い鎧が見えるのか。 「なぜここに真田が…!!!」 その声に、呼応するように叫んだ。 「まだだ!真田幸村、三成殿の加勢に参った!!」
風が、西に吹き抜けた。
|