家康は忠勝を側に控えさせてしばらくじっと瞑想していた。 春の陽気はもうすぐ夏へ向かおうとしている。桜の花は三河ではもうほとんど散ってしまっていた。 夏が来る。雪が溶ければ、それは戦がまた始まることを意味していた。 次の相手はおそらく伊達だ。奥州諸国のうるさい奴らを伊達政宗が父や祖父を遥かに凌ぐ勢いで平定した。 若くて、派手好き。しかしただの若武者ではない。一大名としてしっかり地に足をつけ、現実を見る力に長けている。 家康の、伊達政宗に対する評価はそういったものだった。 油断していればいつか喰われる。 「…忠勝よ」 「は」 「稲はいかがしておる?」 その問いに、忠勝はあくまでも無表情を崩さず言い放った。 「浮き足だっておりまする」 そう聞かされた途端、背後から感じる重圧がさらに強くなったような気がして、家康は苦笑いを浮かべた。 理由はわかっている。真田信之に宛てた文に返信があった。文を書けるほどに具合も良くなってきているということだろうか。実に良いことだ。 「稲も年頃…。こういう話があっておかしくないのだな」 しみじみと呟く家康の背はどことなく疲れが見えている。 忠勝はそれを知っていたが、立ち止まらせるわけにはいかなかった。 「ワシも年をとったものだ」 「殿」 「忠勝、頼みがある」 家康は相変わらず庭先を眺めながら言った。忠勝が何がしか言おうとした言葉は家康の双眸に飲み込まれる。 「上杉に使者をたてる。準備をしてくれぬか」 「はっ」 この日の本の国は今、春がもうすぐ終わって夏になろうとしている。戦が始まる。西から南にかけては豊臣が勢力を伸ばし、完全に手中におさめている。毛利も、長宗我部も、島津も全てが豊臣に従属した。 同盟を組んでいた真田は、手切れとなった途端に急襲し、制圧。 さらに徳川とはその後に同盟を組んだ。 地理的な問題で、豊臣の手が及んでいないのは北に位置する伊達、そして上杉だけだ。 伊達家はそれまでは奥州を平定できてなかったが、政宗が父や祖父よりも血気盛んに、野心に溢れてそれを成した。 上杉家には、直江兼続がいる。 謙信の死後は家督の問題でもめていたが、景勝が跡目を継ぎ、兼続が彼を強力に後押ししている。秀吉に天下が取れる男だと言わせたことのある上杉における随一の家臣。 一見すれば天下は豊臣の手に収まり、泰平の世が来る足音が聞こえるようだ。だが、そうではない。 家康は庭の木々をきつく睨みあげた。 誰が敵で誰が味方か。これをはっきりさせなければならない。
もうすぐ夏が来る。 春は終わりに近づいている。三成にとってはあまり好ましくない季節だ。 蒸し暑くて、汗が張り付いて苛々する。何もかもが勢いを増して、止められなくなる。大地に根を張る木々も、農作物も、そして戦も。 三成は左近のへたくそな演奏を背にして仕事を続けていた。 政務をこなす時の三成は恐ろしく集中している。やりだせばキリのない仕事を、いつまでもやっている。その集中を途切れせるための蛇皮線だ。 知っている、が、うるさい。 (…くそ) 最近はとにかく何もかもがうまくいっていなかった。 農民の一揆が多発している。それだけ民の不平が高まっているということだ。あちらが収まったと思えばこちらがといった風に。 武器となるものを奪えという案もあったが、そうしてしまっては彼らの農作に使うものまで奪わねばならない。 穏便な方法があるはずである。彼らのために、金を出してやるのはいい。 しかしそればかりでは武門の恥だと、そういってくる者も多い。 ならば武で制すればいいが、それだけではないのだ。 そこまで考えていた瞬間だった。 唐突に左近がこれでもか、と外した音を弾いた。 「いい加減にしろ!」 「殿もずいぶんと我慢強くなられたものですな」 やれやれ今度からは別の手を考えなければ、と左近は肩を竦めている。そんな場合ではないというのに、気の抜けた左近の様子に苛立ちは更に頂点へ上り詰めそうだ。 「話があるならば普通に話しかけろ」 「後にしろって言われちまうからこうしてるんですがねぇ。まぁいいでしょ。殿、最近幸村とはどうです」 途端に、三成は睨み殺しそうな眼光を向けてくる。 明らかに苛立ちは頂点だ。人を呪う方法でも知っていたら実行しかねない。 「ずいぶん仲良くされていたってのに、うまくいかないものですかね」 「そんなことを聞きにきたのか、左近」 「そうですよ」 「…何を考えて」 幸村に、己の気持ちは伝えた。伝えてしまった、というのが正しいが、とにかく伝えた。 一揆の鎮圧に出た幸村を、土砂崩れに遭い部下を失い途方に暮れていた幸村を。 助けたのは、徳川だった。どうにも三成はあの男のことをよく思えない。 長らく真田と徳川は争ってきたというのに、助けられた後の幸村はそんなわだかまりも何も捨てたようにすっきりした顔をしていた。 幸村の口から、家康をよく思っていることを知って。 どうしても、どうしてもそうかと納得できなかった。 違うだろう、家康は敵。幸村が良く言うのは三成のことであって、他の誰かではない。そうでなければいけない。 なのにその時、幸村は確かに家康に好意を抱いていた。 そんなことは嫌だった。そんな風に、どこか遠くへいってしまうような。 そんな感覚は味わいたくなかった。 だから。 何故あの時、あんなことをしたのか。何故己の気持ちを伝えてしまったのか。考えてみれば、目を逸らしたくなるくらい簡単なことで。 (嫉妬、していた) あろうことか家康にだ。 自分が失ってしまったものが、そこにあるような気がした。 幸村が向けてくれる笑顔も、その言葉も。 もとは自分のものだった。誰のものでもない。それが向けられていたのは自分で、家康や、ましてや別の人間の誰でもなかったはずなのに。 こんなに醜い生き物だったのか。自分は。 「殿、最近幸村とは逢ってないんですか」 「…理由もなく逢うことなど…」 望まれてもいないのに。 「ま、幸村よりも今は兄の方です。信之。あいつは今、よく徳川に向けて文を送っているんですよ」 話が切り替わったことに、三成は一瞬遅れて気がついた。 それがどうした、と切り捨てることも出来たし、そうしようかと思ったが、思いとどまる。 「…徳川に?怪我はもういいのか」 「さぁて。そうそう簡単に治る傷でもありませんがね」 豊臣との合戦で真田の抵抗は激しかった。特に信之は、幸村が捕縛されてしまったことを知ってもなお激しく抵抗した。 幸村の分まで抵抗したと言っていい。 あの戦での豊臣方の被害は決して多くはなかったが、それでも多くは信之の手による被害だった。 その彼が、怪我をおして文を送る相手。 「―――…何が言いたい、左近?」 左近は笑っている。が、目は笑っていない。 「殿。一つ聞いておきたいのですが」 「…なんだ」 「幸村が敵になったら、幸村を切り捨てる必要が出たら、どうされます?」 言われた途端、どくり、と心臓が高鳴った。 幸村が裏切る。誰をだ。何をだ。 三成か、豊臣か。 幸村を切り捨てなければならない時とはどんな時だ。何故そんなことを―――。 「…左近」 「はい」 「そうなったら、俺が幸村を―――…」 出来ますか、とそう言われているような気がした。左近の目が、そう問い詰めているようで、三成は言葉を詰まらせる。 しかし昔のように幸村が裏切るなどあるわけがないと一笑に伏す事も出来ない。幸村が俺を裏切る事などないと、言い切る自信が、なかった。 しかし。 殺せるか。 幸村が欲しくて欲しくてたまらなくて、彼を捕縛した。今や飛ぶ鳥も落とす勢いの豊臣の目指す天下に、幸村は賛同してくれていたはずだった。だから、わかってくれると思い込んでいた。 しかし実際はどうだ。 幸村の心は頑なに閉ざされた。 かわりに彼は徳川に今まで見えなかった面を見出して、好意を抱いている。 それが、手に取るようにわかった。 裏切ったら。 幸村は徳川へ行くのか。あの男の目指す天下の為に、自分にあの槍の切っ先を向けるのか。 (…幽閉できればいいものを) 幸村だけを閉じ込めて、誰にも触れさせず、誰の目にも届かない場所で。 強く唇を噛んで、三成は拳を震わせた。 そんなことはありえない。そんなことはしない。そんなことには、なり得ない。 念じるように願う。 しかし、自分の心の中にふつふつと暗い感情が沸き上がるのも知っていた。 もしそんなことになったなら。 「…俺が幸村の首を、刎ねる」 生ぬるい風が、三成の首筋を撫でるように通りすぎた。 聞こえてくる新緑の葉の揺れる音。 もうすぐ春が終わる。もうすぐ夏が来る。何もかもが勢いを増して、そうして。
戦が、始まる。
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