花に嵐 10




 戦が始まった。
 徳川と伊達が、国境沿いでにらみ合う形で布陣を敷いた。
 季節は初夏。桜の散る季節は終わった。雨が全てを流す季節は終わった。これからは、全てが輪郭すら曖昧に勢いを増す季節。
 家康に要請されて、豊臣からも援軍を送ることになった。
「睨みあいで終わるでしょう」
 三成は冷ややかな声でそう言った。居並ぶ武将たちの中、どこからともなく根拠を問う声が飛ぶ。
「徳川の後ろには我々がついている。伊達がその危険をおかしてまで徳川を攻めることに何の得がありますか」
 豊臣はすでに西から南にかけた地方を手中におさめ、従属させている。徳川は豊臣とは対等な形での同盟を組んでおり、従属はしていない。結果として、徳川を攻めればひいては豊臣を攻めることになる。
「しかし伊達が布陣したのは間違いがない」
「徳川が攻める気配を見せたからです。今の徳川は、豊臣の力を借りて増長している。勢いに乗られては困るから、先に警戒した。それだけの話」
 豊臣に名を連ねる武将たちを前にして、三成はいつもよりもずっと研ぎ澄ましたように鋭さを増していた。
 その場には、幸村もそして信之も加わっていた。末席に加わって、幸村は何も言わない。
 信之は真剣に三成の言葉を聞いているようだった。
「援軍は」
「力を見せ付ければすぐに伊達は退きましょう。しかしそうまですれば逆に調子づかせる事もありえます。必要最低限かつ、確実であるべきです」
 冴え渡るような声だった。一歩ひいた形で左近はそれを聞いて、思わず口笛の一つでも吹きたくなるような気分でそれを聞いている。
 淀みのない、迷いのない声だ。冷酷さすら感じる声音は、居並ぶ武将たちを黙らせるに足る迫力があった。
 何が彼をそうさせたものか。
「秀吉様」
 誰を援軍に向かわせるか。三成は名を呼んだだけだったがそれこそが決断の時だった。
 今までずっと黙っていた秀吉がゆっくり顔を上げ、その場にいる大勢の男たちを品定めするように眺めた。
 最近の目立った戦は真田との戦のみ。春のはじめにそれがあり、豊臣は圧勝している。力自慢の武将たちは、今こそ己の腕を見せる時でもある。
 そこで、唐突に立ち上がった者がいた。
 何も言わず立ち上がった男に、秀吉はじっくりと彼を見据えて問う。
「なんじゃ、どうした?」

「援軍の任、この真田信之にお任せいただきたい」

 信之がそう言った瞬間、周囲がざわついた。
 左近はその瞬間の幸村を見逃さない。
 虚を突かれたような面持ちで、己が兄を見上げている。信之といえば最近ようやく傷も癒えて、今日はじめて秀吉に拝謁した。それまでは左近が一度、見舞いと称して訪れて以来、一度も顔をあわせていなかった。
 ささやかで愚かしい抵抗だと思っていたが。
「ほう、行ってくれるか」
「なにぶん傷が深く、力自慢とはいきませぬが。しかし忍耐強く退却を待つにせよ、何がしかの策を打つにせよ。今の私には向いていると存じます」
 秀吉はふむ、と頷いた。頷いた上で、指揮杖を掌の内で弄ぶように叩けば、ざわめきのおさまった広間の中、その音が妙に耳をつく。
「怪我はもういいんじゃったか。では頼むか」
 視線の鋭さに反して、声音は明るい。どちらが彼の本音を示すものかは、握った指揮杖の音でわかった。
「はっ」
 幸村は、そんな兄をじっと見つめていた。兄の信之の決意に反して、幸村の顔に浮かぶのは戸惑いの色だ。三成の吹っ切ったような鋭さに比べると普段の冴えが鈍っているように見える。梅雨の頃が来る前から、そんな顔を浮かべていた。いや、もっと前か。真田家がなくなってからずっとあんな顔色だったか。
 桜が散り、夏へ向かいはじめていた頃、左近は三成に問うた。幸村を切り捨てることは出来るのか。三成は迷った末に心を決めたようだった。はっきりとその口で幸村の首を刎ねると言った。
 もちろんそれは何かがあったときの話であって、何事も起こっていない今、そんなことになるとは思えないが。
 評定が終わり、解散となった。信之は一番にその場を後にした。すぐに援軍に向かうためだろう。かわりに、幸村はしばらくその場から動かなかった。
 秀吉も去り、多くの武将たちがその場を後にしても。
 幸村は動かない。そして三成も、左近も動かなかった。
 俯いたきりの幸村に対し、三成はしばらくそんな幸村を眺めていたが、ようやく立ち上がり、その場を去ろうとする。が、数歩いったところで幸村が今日はじめて声をあげた。
「お待ちください、三成殿」
 三成はその声を背を向けたまま聞いていた。
「…なんだ」
「………込み入った話が」
「左近、先に行っていろ」
「はいはい」
 何の疑いもなく人払いをさせる三成に内心苦笑して、左近はその場を後にした。そうすれば、広間には二人きり。一体何の話をしようというのか。
(それにしても)
 秀吉の態度は彼にしては珍しいほどに冷たい。真田の兄弟に対する彼の視線は、敵に対するそれよりも厳しいかもしれない。
 やはり、秀吉は真田を取り込んだことを身の内に毒を抱えたと思っているのか。普段の秀吉は常に明るい。あまり辛い様子も見せた試しがない。何を思って真田にその皮を剥がして相対するのか。
 秀吉の声にしない言葉は、幸村や信之には伝わっているだろう。
 彼は―――幸村はいつも信じる者の為に戦ってきた。武田の頃も、真田として戦っていた時も。
 彼にはいつも信じるに足る者がいて。
 しかし今はどうだ。
 信じるものはあるか。真田に力を貸してくれていると思っていた豊臣は裏切った。三成はその真田を攻略するために真っ先に策を打ち出した。
 幸村にとって、今この立場こそ辛いものだろう。地盤はすっかり揺らいで、平衡感覚すら保てないかもしれない。
 そうなったら、三成はどうするだろうか。


「…三成、殿」
 二人きりになってはじめて三成は幸村の声を間近で、二人きりで聞くことが久々であることに気づいた。
 名を呼ばれたことに、喜んでいる自分がいる。
「なんだ」
 それを巧妙に押し隠して、三成は幸村の次の言葉を待つ。
 顔を上げてくれないか、笑ってくれないか、そう思うがそれは叶わないだろうことも知っている。
「秀吉公は何をお考えですか」
「…何、とは?」
「あの方は私ども真田を信じていない。…どれほど忠誠を立てよと申されますか」
 そう言った幸村の拳が、握り締められて震えている。
「…では幸村は俺や秀吉様を信じてくれているのか」
 昔はこんな問いかけをされる事はなかった。こんな風に返す必要もなかった。もしそれが必要であったとしても、幸村は笑って勿論ですと返してくれていただろう。
「それは…」
「信じられないだろう。ならば幸村。おまえが、俺にそれを問う権利などない」
 言葉に詰まる幸村は怒りの為か震えている。
 理不尽な思いだろう。裏切ったのは豊臣からだ。忠誠を強いるのも豊臣からだ。どれだけ尽くそうとも、秀吉は疑いを向け続けるかもしれない。
 今は辛いだろう。だが忠誠を誓ってくれさえすれば。
「…一つ、どうしてもお聞きしたいことがあります」
「………」
「…三成殿、は」
 幸村の緊張が伝わってくるようで、三成までもその感覚が伝染してくる。自然と指先が冷えた。
「…真田と同盟を組んでいた頃、とても良くしていただいておりました。私は…三成殿は素晴らしい方だと思っておりました。常に自分の心に素直で、率直で、純粋で…」
 何を言おうとしているのか。いつもは回る頭もこの時ばかりはぴくりとも回転していないように感じられた。
 ただ、それは三成に昔を思い出させるのに十分すぎるほど十分だった。
 昔、面と向かってそう言われた。幸村は笑顔で、狐と呼ばれる自分に何を言っているのかと否定すれば、それでも笑顔で。
―――たぶん、あの時からだ。
「信じて、おりました。…しかし」
 あの時、そう言われた。その時から酷く幸村を意識するようになった。
 幸村の笑顔が脳裏にこびりついて離れなかった。言われた言葉が忘れられなくて、逢いたくてしょうがなくなった。まだそう思うのか、本当にそう思っているのか。確かめたくて。
「…今はわからないのです。あなたが、本当はどう思っていたのか」
 本当にそう思っているのだと、誰からか悪い噂を聞いたとしても幸村は信じてくれていた。皆は近寄らないから気づけないのですと笑う幸村に。
 その時、本当に欲しいと思った。
「三成殿は…何を思って親しくしてくださっていたのですか。私は、」
 一度そう思ったら、もう止まれなかった。
 この気持ちが友情というものも越えていると気づくまでには時間もかからなかった。
「私は…何を信じれば」
「幸村」
 俯いたきり動かない幸村のもとに歩み寄り、三成はあの日と同じように肩に手を置いた。ほんの僅かに唇を重ねる程度だったそれを思い出したのか、幸村が過剰な反応を見せる。
「俺の気持ちは…伝えたはずだ」
「…三成殿」
「ふざけて男と口付けるほど物好きではない。俺は」
「そうではありません。…三成殿が…あの頃親しくして下さっていたのは、真田を攻め落とすための策だったのではないか、と」
「…ならば、聞かせてやろうか。いつからそう思っていたか。策などなかったと。…幸村を、こんな風に思うきっかけも、俺が今どう思っているかも。…策があったと思うのか」
「…っ、では何故です。何故真田をあのような形で…!」

「おまえが欲しかったからだ」

 息をすることすら出来なくなって、幸村はひきつった表情のまま顔を上げた。
「おまえが、欲しかった。だから真田を攻めて」
 真田を攻める。策などないに等しい。正面からぶつかりあい、制すれば。
「…父上が処断されたのは、その為、ですか」
「従わなかったからだ」
 幸村はどんどん顔色を失っていく。今にも倒れそうな顔色だった。しかしその双眸に宿った深く暗い色。信じるものを失った。そういう、瞳だった。
「三成殿…」
「俺は、幸村が欲しかった。それだけだ」
 三成は本気だ。どこまでも本気だった。ただ純粋に、幸村が欲しかった。
 その為に機をうかがい、ついにその時が来たのだ。だから秀吉に進言し、真田を攻めた。策は恐ろしいほど当たった。
 徳川との戦に疲弊していた真田はあっさりと崩れた。
 幸村の守る城門前まで、三成がたどり着くのに苦労はなかった。
「それだけだ。幸村。…俺は狐と言われる男だ。先に信じたのはおまえで、…俺はそれが嬉しかった。俺を信じてくれる男を欲しいと思った」
 幸村の頬に一筋、涙がこぼれた。
 それを見て、じくりと胸が痛む。
「…あなたは…」
 何が最初で、何がきっかけで、何が間違いだったのか。
 もう三成にはわからない。
 ただ何もかもが見失いそうなほど、一つだけ。胸に深く突き刺さってもう離れない。
 幸村のことを想う、気持ちだけ。
 いつから、こんな風におかしくなっただろう。
 いつから、こんな風に。
 自分でも怖いくらいに。



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なんだかとても恥ずかしい内容な気がしています…。