花に嵐 11




 援軍は真田、と聞いて徳川の陣営はにわかに浮き足だった。
「稲がいれば喜んだろうに」
 家康が思わず率直にそう呟けば、忠勝が微妙に表情をひきしめた。ひきしめた、と言うべきか渋い顔をしたというべきか。普段いかつく無表情の忠勝は、端から見ている分にはそのどちらだったのか判断がつかない。
 が、家康はそんな忠勝を見て苦笑した。
 年頃の娘が、一人の男を気にかける。それを我関せずにいられる父親などいないだろう。ただでさえ、稲姫は忠勝と共に戦場に立っている。普通の年頃の娘などよりずっと同じ場で同じ空気を吸っている。その姿に成長も見ているだろう。
「殿…」
 その時だった。ふっと影から現れた半蔵が、忠勝の横に立つ。音もなかった。直前まで気配も影もなかった。
「半蔵か。上杉はどうであった」
「…上杉景勝から、書状…」
 言葉少なに半蔵はそう言うと、家康の手に上杉景勝からの書状を手渡した。
 それに目を通しながら、家康はふむ、と頷いた。
「…忠勝。援軍は真田であったな」
「は」
 頷く忠勝に、家康はよし、とだけ呟いた。
「上杉は謙信公の頃より、所領を増やす為の戦を好まぬ。しかし豊臣の今の専横にも疑問のある今…良い風が吹いておる」
 ―――豊臣は同盟関係であった真田との期間が切れた途端に攻撃を仕掛けた。それまでは真田と友好関係を築き、徳川を攻撃していたにも関わらずだ。
 同盟を組んでいた間のことではないのだから、それは勿論全面的に責め立てられることではない。だが、それはいまだ豊臣に従属していない東から北にかけての者たちに、不満を抱かせるに十分な要素だった。
 豊臣対真田。あの合戦を、他の土地の者たちは興味深く見守っていたのだ。
「秀吉殿は、人心の掌握というものを心得ている。しかし今回は…焦られたな」
 家康はふとその双眸を閉じて、昔を思う。
 多くの大名が消えていった。裏切りがあり、その上での勝利と敗北があり、築いた信頼もいつかは露と消え。
 そんな中で、家康はずいぶん耐えてきた。秀吉は絶妙な手腕でそれを成し遂げた。
 野心というものを得てから、時はずいぶんと過ぎている。
「半蔵、もう一つ頼まれてくれ」
「……」
「秀吉殿の、健康状態を知りたい」
「御意」
 早合点かもしれない。豊臣にとって真田がそれほどの脅威だったとは思わない。だからこそ気になる。
 その気になれば、いくらでも従属させることが出来ただろう。家康も相当てこずった相手ではあったが、豊臣ほどの力があれば、そこまでする必要もなかったはずなのだ。
「…忠勝よ」
 豊臣とは、互いに奇妙な不可侵な状態が続いていた。
 豊臣が腰をあげて徳川に攻め込むこともなければ、徳川方から豊臣へ攻め込むこともない。徳川方からすれば、目先の真田家が邪魔だという話であり、そして豊臣は敵に回すには厄介すぎる力があった。
 だが、豊臣は真田の援軍として駆けつけることはあれど、戦の主導は常に真田家であり、徳川家であった。
 まるで、そう。
 両者の消耗するのを待っているように。
「は」
 本来ならば、共倒れを狙っていたはずなのだ。だけれども、次の一手を焦った。それはやはり、秀吉の健康状態が思わしくないからではないのか。
「おぬしに異論がなければ、ひとつすすめたい話がある」
「…稲のこと、と存じまする」
 忠勝の声は硬い。ついに来たか、と観念しているようにも感じられた。
「左様。真田信之と稲は互いに文を交わす仲。出会いの形としては多少不思議な縁でもあったが、悪くない話だ。忠勝と、そしてワシの後ろ盾を得、真田家はそれで再興する」
 忠勝の娘。それだけで、十分すぎるほどの後ろ盾を持つことになる。
 幸村と少し話しただけだったが、家康には手ごたえがあった。真田家再興。昌幸の死により消えてなくなった所領。城。そういったものを、決して欲していないわけではない。そして、そんな立場にあって豊臣家に生殺し状態で生かされていることも。
 戦場で見た時、真田幸村という男は真っ直ぐ向かってくる風を纏った焔のようだった。それがあの日、あの雨の日、すっかり消えてなくなったような眼で。気配で。
「…確認したき、儀がござる」
「真田信之にか」
「左様」
 止めたところで聞かないだろう。忠勝の覚悟を決めた様子に、家康は頷いた。
「忠勝の好きにせよ。ほどほどにな」
「御意」
 ほどなくして、伝令の声があった。
「上杉より使者が」
「おお」
 案内されて家康の前に現れたのは、その目に、声に、はっきりとした意志を宿した男だった。
 何度か秀吉の催した宴で見かけたことがある。その男は、よく通る声で言った。
「ご健勝で何よりですな。家康殿」
「若者にそのように言われると、年を重ねすぎた気がしてしまう。―――よく来てくれた。直江山城守」


 秀吉はふと気がつくと、荒野に一人だった。
 足下には多くの骸が転がっていて、そこが合戦場だったことを知る。今秀吉が立つその場も、多くの死体を踏みつけているのだとわかると、にわかに気分が悪くなった。
 しかしどこを見回しても、死体のない場所などどこにもなく、どこも同じ状態だった。
 吹く風は澱んでいる。
 生きている人間の気配がしない。自分以外、動くものの気配もない。
 秀吉は途方にくれて、ただ周囲を見渡すほかなかった。
「…ねねー、おらんかー」
 呼ばなくても、気がつけばいつも戦場を共にしていた妻。しかしどこを見てもねねらしい姿は見えない。
「三成、おらんのか」
 いつも秀吉の為に手腕を発揮する子飼いの将。性格に一癖あって、発揮できる力が前線よりも事後処理や、その他の面での活躍が多いがゆえに理解されずらい。秀吉が見出した若者。
 いつも呼べば、どことなく不機嫌そうであってもかえってくる声がある。
 だがその時にはねねも三成も、誰もいなかった。
 ふと嫌な予感があり、彼はそっとその視線をおろす。自分の目線から、さらに下。足下へ。
 そして、自分の足下にその姿を見る―――。
「ッ!」
 短く息を詰めて、秀吉はその場に転がった。足下に、有象無象の死体が転がっている。今だって自分が踏んでいるその下に死体がある。その中で、先ほどまで自分が踏みしめていたものが、ねねと三成だった衝撃に、秀吉は呼吸が荒くなった。
 なんだこれは。
 何の冗談だ。何故こんな腐臭がする?血と臓物のまざった臭い。尻餅をついた地面からはじんわりと生ぬるい感触が伝ってくる。気持ち悪くなって手を離せば、その手は泥と血に塗れて汚れている。
 思わずその汚れをとろうと、一方の手でそれを払い飛ばそうとした。が、出来ない。もう一方の手も汚れていく。
 じわじわ広がっていく血は、自分のものでもないのに自分が失ったかのような錯覚を覚えた。
「なんじゃ…!なんで…!!」
 口許は歪んだ笑みが浮かんでいる。どうしようもなくなって、笑うしかないような状態で、秀吉は混乱しながら頭を振った。

―――うぬは何を望む。

 その声に、秀吉は咄嗟に顔を上げた。
「のぶ…ッ!」
 信長様、と発しかけた声は最後まで言えなかった。
 顔を上げた先。立っていたのは信長ではなく。

―――御首、頂戴する。秀吉公。

 ぎらりと光る双眸。逆光に隠れてよく見えない。だが、その場にいるその男が誰なのかはすぐにわかった。
 父親の処断を行った時に見た目だ。憎しみに落ちた目だ。
「…ッ!さな、」
 その名も、秀吉は最後まで言えなかった。
 男の槍が、自分目掛けて突き出され、鈍い音がする。己の身を襲う、酷く重い衝撃。

「おまえさま!」

 は、と気がつくと目の前にはねねが酷く心配そうな眼差しでこちらを見つめていた。
「…ね、ねね…」
「大丈夫かい?酷い汗だよ…顔色も悪い」
「…夢…そうじゃ、夢…」
 喉が渇いた。酷く汗をかいている。思わず自分のいる場を確かめるように、周囲に手を伸ばす。畳の目を指の裏に感じて、ほっとする。掌を見返してみても、血も泥もない。
 一つ一つ確認しながら、秀吉は夢と現の境を確認する。一つ一つ違うと確認しては安堵しながら、秀吉は俯いて笑った。
「…どうしたんだい?」
「……三成はどこにおる?」
「呼んでくるかい?」
「そうじゃな…三成に…確かめんといかん」
「おまえさま…政務だったら、後に」
「急ぐんじゃ!」
「………」
 動悸がおさまらない。
 酷い夢だった。悪夢を見なかったことなどない。だけれども、これは。まるで何かを暗示するようではないか。
 まるで。

 滅びの日が近いと知らされているような気がして、血の気が失せる。



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お久しぶりにエンパ話更新です。ゆ、幸村いないけど…!
覚えてる人いるのかしら!?的ですが、またぼちぼち更新していくよ!長くなるよ!もう長編癖も諦めたよ!(笑)