息すら出来ない。 幸村は自分に何が起こったのかわからず、しばらくされるがままだった。 三成から施された口付けは軽いものだ。言葉の熱っぽさとは違って、その行為自体は酷く弱々しい。 たぶん幸村も、深く激しいものならば反応が出来ただろう。やめてくださいと叫んで突き飛ばすことも出来た。 だが、三成のそれはあまりにも静かで、どうすべきか咄嗟にわからずされるがままになった。 触れている部分が熱い。だが三成の指先は酷く冷たい。 どれだけ経ったかわからない頃、ようやく三成が幸村を放した。そこでようやく、幸村はまともに息継ぎが出来るようになり、苦しかった分を取り戻すように呼吸を繰り返す。呼吸困難にでもなったように己の呼吸が耳につく。 そして三成の視線に気がついた。 おそるおそる顔を上げ、三成を見返せば、彼は酷く熱っぽい視線を向けていた。唐突な行為よりも、その視線に晒される方がよほど幸村には刺激が強い。 三成の瞳の熱っぽさは、間違いなく恋情のこもったものだ。 「……っ」 慌てて視線を逸らす。今自分がどんな顔をしているか、自信がなかった。 「…おまえが」 そうして顔を伏せていれば、三成が途方に暮れたような声で呟く。 「おまえが、徳川と笑って話しているくせに、俺には二度と笑わないような、そんな目でいるから」 言われた言葉に、眩暈がした。 三成に対して笑えなくなっていたのは事実だ。あの戦で捕縛され、父昌幸を処断された上で信之、幸村の兄弟は生かされた。真田の血を根絶やしするわけでもなく、秀吉に覚えがめでたいわけでもない。従わなくば死ぬのみだと言われたような気がしていた。所領も没収されている。真田兄弟のいるべき場所は、ここにはない。その状態で、どうして笑えるというのか。 「…くだらない感情だ。わかっている。…だが」 幸村は言葉を紡ぐことが出来なかった。俯いたきり、顔を上げることも出来ない。 「俺には…おまえが必要だ」 (なんで…) そんな声で。 そんな言葉を。 よりにもよって、自分に。 「……それだけだ。深い意味は、ない」 反応を示さない幸村を見ていられなくなったのか、三成はそれだけ言い置いて立ち上がり、静かに脇を通り抜け何もなかったように歩み去った。 足音が遠ざかり、時折吹く風の音だけになっても、まだ幸村は動けない。 どれだけ経った頃だったか。 ようやくぎこちなく立ち上がった幸村は、三成が去った方を振り返る。 「私も、…あなたが必要でした」 ぽつりと呟いた言葉は無意識にこぼれたものだった。 (でも、今はわからない) 三成がどう思って真田と親しくしていたのか。幸村に向けていた感情は。 彼が本当に望んでいることは。 あの人は、とても純粋で真っ直ぐな人だと思っていた。 三成には否定されたが、それでも心の底からそう思っていた。 だから否定されても信じていられた。 ―――今は、どうだろう。 信じられるだろうか。三成の心を。 あの行為は、あの視線は、全て友人に向ける以上のものだった。 焦がれてやまないものに対する熱を感じるものだった。 三成が、自分に向けてそんな感情を持っていたなどと俄かには信じられない。ああして口付けられたとしても、いまだに信じられないほどだ。 こんなに頑なに三成を、その心を否定したいと思ったのははじめてだった。 幸村は力なく視線だけを動かした。 彼の目にうつった、庭の桜の大木は大半の花弁を地面に降らし、今ではあのあでやかさはない。 だけれども、今の幸村にはそれを惜しむ心はなかった。 (誰か) 嘘だと、夢だと、言ってほしい。 それから数日が経過していた。 信之は未だに戦の時の傷が完治しておらず、決して良好とは言いがたい状況だ。しかし今までよりは幾分顔色が良いように思えた。 動けば傷が痛むのだが、それでも構わず起き上がり、普段あまり向き合わない文机を前にする。 懐には、弟幸村が携えてきた文があった。そこには美しい文字で信之のことを憂い心配しているということがしたためられている。その文字を書いたのは家康の特に信頼する家臣、本多忠勝の娘の稲姫だ。 何と返すべきか。実はここ数日ずっと悩み続けているのだ。 文の中には、いつぞやの戦で助けてもらった事に対する礼もあった。 しかしあれは結局、稲姫―――徳川重鎮の本多忠勝の娘を生け捕って戦を優位にすすめたという結果がある。信之にしてみればあまり礼を言われるようなことではなく、かといって稲姫の気持ちが嬉しくないわけではない。 こういう時、気のきいた返しができればと思うが、信之はそういう事もあまり得意な方ではない。 そんなわけでここ数日、信之は文机に向かったはいいが固まったように動かず、次第に顔色をなくしてぱったり倒れるという事を繰り返していた。 屋敷の人間に幸村には伝えるなと言ってあるし、最近では毎回のことなのでしきりに屋敷の者が彼の様子を伺いに来る。 どうですか信之様、何か思いつかれましたか信之様、あまり難しく考えることはございませんよ信之様、とそのたびに声をかけられて、余計に纏まるものも纏まらない。 だが信之は特にそれを咎める気はなかった。厳つい顔をしているが、そういう事に妙に寛容なのだ。 しかしその日は、様子が違った。 ばたばたと屋敷の者が忙しないのはいつものこと。 やれ茶だ菓子だと用意しては部屋を訪れる彼らはいつもそんな調子なのだが、しかしこの時は誰かが訪れたらしい。 唐突なことで、もてなしが出来ないのか。 幸村は今、秀吉の屋敷のところに赴いていていない。 すぐに慌てた様子の下人が現れた。 「の、信之様!」 「なんだ」 「そ、その。豊臣様からのお使者が」 「すぐに広間にお通しせよ」 いつもの通りにすればよい、と言外に告げたつもりだったが、酷く落ち着かない様子の下人はちらりと廊下を見遣る。 「そ、それが」
「使者なんて大したものじゃないんで、気にしなくていいですよ」 その声に、信之は痛む傷を忘れて気を引き締めた。 相手は、石田三成家臣、島左近だった。 「これは…」 咄嗟に信之は崩した姿勢を直してきっちりと頭を下げる。左近はといえば別段どうということもなさそうな様子だった。 「何、あまり加減がよろしくないと聞いたもんでね。秀吉様が気にして俺を使者によこしたとそれだけです。怪我人にもてなせなんて言いませんから、楽にしててくださいよ」 真田がまだ所領を持ち、上田をおさめていた頃からよく見た顔だ。 三成が来れば大抵彼もいた。そもそも彼のことはまだ信玄存命の頃から見た顔だったから覚えている。とはいえ武田時代のことは信之も若い頃のことだ。あまりはっきりとした記憶はない。 「わざわざ…秀吉様が」 「ええ。それだけ期待されてるんでしょう。怪我の具合はどうです」 「起き上がれるほどには」 「ほぅ、だいぶよくなられたようですな」 それは良かった、と左近は笑う。しかし彼がそれだけの為に来たとは思えなかった。秀吉が本当に信之の傷の具合を気にしていたにせよ、左近が来る必要はない。彼が忙しい立場にいるのは知っている。なにせ秀吉に特に大切にされている、石田三成の家臣だ。 三成が忙しいならば左近も当然忙しい。 「そんなに警戒しなくてもいいでしょう。信玄公の話が出来ると思ってね。殿にも言わずここに来たんですよ」 「…お館様の話ですか」 それはもちろん、出来ないわけではない。 しかし年若かった信之は、幸村ほど信玄に憧れてはいなかった。もちろん信玄を凄い人だと思う。尊敬できる人だ。しかし信之は自然と己の中で線を引き、その線を越えるほどに彼を憧れてはいなかった。尊敬すべき最大の人物は、父の昌幸なのだから。 「…私などに務まるかどうかわかりませぬな。何せ若輩者ゆえ。父がおれば、左近殿も楽しめましたでしょうが」 「それではあなたを見舞った事にならないじゃあないですか」 父のことを口にしても、左近は顔色一つ変えずに即答した。 「しかし何せ傷を負いましてから、ずっと床におりますもので体力がございませぬ。こうしているうちにお見苦しいところをお見せいたしましてもな」 「信之殿がそのような姿、この左近に見せていただけるとは思えませんがねぇ」 「かいかぶりすぎではござらぬか」 左近の返しは早い。信之も顔色は変えずにそれに対した。 何かを試されている気がしてならない。 着物の下では嫌な汗をかいている信之は、しかし顔には一切それを出さなかった。気取られるのを好まなかったということもある。 しかしどちらかといえば、左近のどこか好戦的な物言いに挑発されていたのかもしれない。 「そんなことはないでしょう。真田といえば兄弟揃って武勇に優れ」 「武勇に優れているのは弟幸村のみ。私はさほど戦が巧くは」 「父上から相伝された策の一つも、豊臣の為に使ってもらいたいもんですね」 さらりと言った左近の言葉に、ふと信之は何かの歯車があったような気分になる。 「それは、傷が治りましたら」 「そいつは楽しみだ。信玄公が、真田家を特に気にされておりましたからね」 「幸村でしょう。あいつはお館様を特に慕っておりました」 「あんたはどうだったんだい?」 「無論私もです」 「しかしあの頃は幸村ばかり記憶にありますよ」 「それでよいではありませぬか。私は目立たずとも良いのです」 信之と左近のやり取りはしばらく続いた。他愛のない話題から、唐突に確信を突くような問いを受けることもある。 ただ、その問いは常に父、昌幸のことをちらつかせるものだった。 その時だ。 「あ、あの、失礼いたします」 屋敷の者が慌てた様子で茶を運んできた。 途端、左近がその饒舌な口を閉じ、黙った。 「すいませんね、気をつかわせて」 「いいえ。何せこの屋敷にそうそう来客などありませぬから、どうにも下人どもも緊張感が足らぬ有様」 「いやいや、実に巧い」 信之は左近の笑みに茶の味のことを言っているのではないことを理解したいた。屋敷の者が、いつまで続くかという饒舌な左近の問いの流れを止めた。 表向きは気のつかない者でもてなすことが出来ない風を装って、信之がそろそろ辛く感じ始めたのを敏感に察知して。 見抜かれているな、と思ったが信之は笑顔で返した。 「左近殿の懐が広くて助かりました」 「はは、どうですかね。さてあまり長居しても傷にさわりますな」 「逆に気をつかっていただいて」 「お早く治されることですよ。退屈なのはわかりますがね。起き上がったりせず」 「そうしましょう」 茶を啜り、空にして左近は立ち上がった。 手早く別れの挨拶をして、真田に与えられている屋敷を出る。 ちらりと門構えを振り返る。 真田信之。幸村の兄。覚えていないなどと大嘘で、左近は武田にいた頃の彼のことをよく覚えている。きらきらといつでも若さを振りまいている幸村と違ってとても落ち着いた真田家長男。 戦に出れば幸村と同じくよく働き武勲を挙げた。 傷の具合は決してよくないのだろう。顔色一つかえなかったが、その緊張感が伝わってきて彼の体調が決して元通りでないことを告げていた。 だけれども、かわらぬあの頭の回転。 彼が誰に文をしたためようとしていたのか。 文机に広がっていた和紙には何も書かれていなかった。隠す様子も気にする様子も一度たりとも見せなかったが、信之が誰かに向けて文を送ろうとしていることはわかる。 それも確認しておかなければならない。 例えばそれが、単なる恋文ならばいいのだ。色に惚けてくれるならまだいい。しかしその相手が誰で、その中に何かもっと重要な何かが紛れていないか。それを確認しなければならない。 秀吉は今敏感になっている。西から南、九州地方は全て手に入れた。 今では毛利も島津も豊臣の配下だ。しかしまだ東から北がおさまっていない。徳川とは同盟を組んだ。あとは上杉と伊達だ。彼らは他の小国をおさえて北の大地を平定しようとしている。そうなればあとは彼らが潰し合うだけだ。 ほとんど順風満帆。すでに豊臣はほぼ天下をおさめているに他ならない。 どんな方法でもいい。天下獲りまではあと一歩。王手をかけている状態だ。 なのにどうにも、おさまりが悪い。 「さても面倒な話だ」 肩を竦め、左近は来た道を戻った。 そして屋敷に一人、信之は下人に気遣われながら考える。 (信用されていない) 秀吉の信頼を得るために、幸村は彼農民一揆の鎮圧を引き受けた。信之ほどではなかったが、幸村の怪我も決して軽いものではなかった。にも関わらず兵を率いて出た。一揆の鎮圧は武でもって制され。 (さて豊臣の猿殿は、一体何をご所望か) 完全なる忠誠か。秀吉が望む忠誠とは一体何なのか。 幸村がそれを知ったらどうするだろう。どう考えるだろう。 彼は、秀吉の家臣である三成と親しかった。豊臣の軍が攻めてきたと知った時も辛そうだった。 覚えている。 いつだったか、彼らの元へ遣いで出た幸村が戻るなり多くのことを聞かせてくれたことがあった。 それは、秀吉の目指す天下の話であり、三成のそれに報いようという志の話であったりした。 彼は、間違いなく秀吉を、三成を信頼していた。 しかしそこに返ってくる思いはないのか。父昌幸を処断された時も思った。 これは裏切りだ、と。 もしも、秀吉が真田を疑っているというならば、それは己の身から出た錆であることを。 裏切りは、誰が最初にしたのか、を。
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