花に嵐 7




 秀吉は広間に座したまま動かずにいた。
 だいぶ時は経っていたし、それを理解もしている。
 が、動く気になれずにじっとしていた。
「おまえさま」
「おぅ、ねねかぁ」
 音もなく広間にやってきた妻に対し、秀吉は一瞬破顔するがすぐに元通り難しい顔になる。何か難しいことを考えているのだろう。
 ねねは特に何も言わず、秀吉のそばに腰かけると広間から見える庭先の桜を眺めた。
 数日の豪雨のせいで桜はその花弁の大半を散らしていた。今では新緑が芽生えはじめ、薄い桃色の中に瑞々しい緑がのぞいている。それはそれで、風情のある光景だった。
 しばらく互いに無言で、互いに見ているものの先は全く違っていた。
 が、そのうちごろりと秀吉がねねの膝の上に頭を乗せる。無断だったがねねは微笑んでそれに応えた。
 そしてまた、散った桜の大木を眺める。
 秀吉もまたその視線を追って桜を見つめた。
 真田と手切れになり、疲弊したその軍に向けて進発したのはあの桜が咲き始めた頃だった。
「…花に嵐、か」
「うん?」
「なぁ、ねね。わしが頼んだら、ねねは…頼まれてくれるか?」
「おまえさまの頼みなら、なぁんだって聞いてあげるよ。あ、浮気以外だからねっ」
「ん、うんうん。いや、そうか。わしはねねがいて幸せものじゃな」
 そう言って秀吉は笑う。
 しかしねねは同じように笑いながら気づいていた。
 何か心に残ることがあるのだと。
 だからわざわざ口にしたのだ。ねねが自分の為に手を汚せるか。
 しかしそんなこと愚問だ。知っているだろうに。知っていてなおも問わねばならぬほどに不安なことがあるということか。
 秀吉は立身出世の人だ。ありえないほどの出世をしているとそう思う。
 ずっとその横に立ち、その姿を見つめてきた。彼がかわっていくのも、彼がいろいろなものを失うのも見ていた。だから知っている。
 だから、最後まで彼の横に立って彼の姿を見つめているのも間違いなく自分だろう。
「……わしは、あまりねねを使いたくはないんじゃがなぁ」
 本心なのだろうから、ねねは頷いた。
「………じゃが、おさまらん気がする」
 秀吉の言葉には彼にしかわからない含みがある。何かが起こるのかもしれないことは、彼の言動でわかるが、それ以上のことはわからない。悪戯にそれ以上を口にする気もないのだろう。
 秀吉はまた黙りこくった。
 視線は桜の大木へ向けられている。ねねもそうした。


「幸村、傷の具合はどうだ」
「…だいぶ、良くなっております」
 向き合ってしばらく。無言の末にようやく三成が口を開いて問うたのはそういう内容だった。
 傷をおして一揆の鎮圧に向かったことを三成は知っている。
 秀吉に命じられれば断ることは出来ない。幸村も、これは試されていると知っていたから不平不満も言わずに兵を率いて出立したのだ。
「徳川とはどんな話をした?」
「…昔話を少々」
「戦の話か」
「真田と徳川に、それ以上もそれ以下もございません」
 三成の問いに返す、己の声の硬さに幸村はあらゆる感情を越えて笑い出したかった。
 昔はこんな風ではなかった。昔はもっと柔らかで、たとえば先程の言葉に三成がどれほど黙りこんだとしても不安も息苦しさもなかった。
 しかし今はどうだ。
(どうしようもない…)
 彼を尊敬していたし、その真っ直ぐなところをとても好いていた。彼の鋭すぎるほど鋭い眼差しは常に真っ直ぐ前を向いている。誰と対していても。
 そう出来る堂々とした姿勢がとても好きだった。
 しかし今ではその視線が怖い。
 彼に対し、疑念がある。だからだ。だから彼の視線を受け止めるのが怖い。
「…徳川家康を、どう思った」
「……どう、とは…」
「幸村の感じたままでいい」
「…わかりません」
 三成が何を望んでその質問をしているのか。何を考えてその問いかけをしたのか。
「なに?」
「徳川殿とは決して親しくはございませんでした。だからこそ、今回は…驚きました」
「………」
 三成の表情は厳しい。いや元々こうだったか?
「…………父のことを、残念だと」
 言うべきではない事だった、と気づいたのは一瞬後だった。三成の表情が見る間に凍えたのがわかった。昌幸を処断したのは、豊臣だ。三成はその豊臣に仕えている。処断した側なのだから。
 そして彼自身も、昌幸の処断は見ていた。
(この人は)
 どう思っただろう。あの時。真田昌幸が処断される瞬間。
 顔色一つ変えなかったこの人は、その整った冷たい顔でどう思っていたのだろう。少しばかりは、何かを感じていただろうか。それとも。
「………」
 真っ直ぐな人だと思っていた。冷たい眼差しだけれども、他人から佐和山の狐と称されるけれども、この人は芯が真っ直ぐで、純粋だと思っていた。
 思い違いなのか。
 この人が好きだなと思ったのは、間違いだったのだろうか。
「…幸村」
「はい」
「あまり徳川には近づくな」
「…え?」
 今、情勢は完璧に秀吉の手にある。京を中心に、西から南はほぼ制圧している。残るは東から北。大きなところでは上杉、伊達。そして徳川だ。
 その徳川と豊臣は同盟を組んでいる。
「何故、ですか」
「………」
 言葉に詰まる三成に、不安が募る。
 何があるというのか。
 徳川は今、豊臣と同盟して昔から小競り合っていた伊達と一戦交える気らしいことを噂で聞いている。
「三成殿」
 唐突に脳裏に、稲姫の姿が思い出された。兄の信之のことを語る彼女の姿にはどれだけ救われたことだろうか。
 今や真田は領地も城も何もかもを失い、秀吉に屈した。
 そう評されるだけだった彼らに対してこれだけ心を砕いてくれた人がいたのだと。
 彼女の言動の端々から感じられる、淡い恋心も。
 そしてそんな彼女を見守る家康の優しい目も。
 まるで己の娘を見守るような。
「…三成殿」
 三成はしばらく俯いたきり、黙っていた。
 答える気はないのだろうか。所詮真田には答えられないということか。
 知らず、ため息が漏れた。それは痛いほどの沈黙の中、存外大きく響く。
 その瞬間だった。
 ざぁ、と庭の木々が大きく揺れた。突風だった。屋敷の中にいても、その風を強く感じた。身を竦めかける幸村に、三成が動く。
 上手に座していた三成が立ち上がり幸村のすぐ傍まで歩み寄った。
 はっとして顔を上げれば、三成が対面に座していた幸村の肩を掴む。両の手で、掴まれた肩は大きく揺れた。
 酷く近い。
「みつ…」
「幸村」
 己の名を呼ぶ三成の声音に、熱を感じた。
「くだらん感情だ」
「……え?」
「くだらない。だが、それだけにどうしようもない感情だ。幸村」
「…は、い」
 なんだ、これは。
 混乱する頭で必死に考える。酷く近くに三成の整った顔があり、名を呼ばれるたびに脳が灼かれたように痺れる。

「俺はおまえが欲しい」

 その言葉の意味が理解できるのにどれだけ要しただろうか。
 気がつけば、三成がその腕に力を込めて、幸村を抱きしめていた。
 されるがままにそうされていたことに気づいても、動けない。声も出ない。
 それをどう思ったのか。三成の右手が幸村の顎を持ち上げる。
 何をされているのか。何が起こっているのか。
 今この人は、何と言ったのか。
「み、」
 発した言葉は最後まで声にならなかった。
 三成の唇が幸村のそれをふさいで、幸村の中で何かが灼き切れたような気がした。



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さよならだけが人生さって孫市も言う秀吉が言っててもいいよね(笑)