戻ってきた幸村に、秀吉は何も言わなかった。 一揆の鎮圧についてはよくやった、と声をかけたがそれ以上は問わず、すぐに下がらせた。 家康の様子はどうだったか、とようやく口を開いたのは、幸村を下がらせてからしばらくしてからだ。 問われた三成は、特に顔色をかえずに答える。 「いつもの通りでした」 「そうか」 急ぐからといってもてなしも受けず、さっさと退散してきた以上、三成にはそれ以上を言うことはできなかった。秀吉は特にそれ以上を問うわけではなく、何事か思索をめぐらせているようだ。上手に座したまま、動かずにいる。 「…三成、ご苦労じゃったな。よく休んどけ」 「はい」 「左近は少し残ってくれんか。頼みたいことがもう一つある」 「…は」 左近は内心首を傾げながら頷いた。秀吉が左近に直接何かを頼むということは珍しい。左近はあくまでも三成の家臣だという態度でいるからかもしれない。 三成が下がり、またしばらく時を経てから秀吉が口を開いた。 「すまんな」 「いえ」 「家康殿はどんな様子じゃった」 「……いつもの通り、でしたが?」 それについては先程三成が言った。左近にしてもそれ以上を言えるわけではない。 「では、真田は?」 「幸村ですか?あれも別に…」 「どんな様子じゃった。何でもいいから話してくれんか」 「…何故その質問を俺に?」 「左近の方が公平な視点じゃろう」 しれっと言った秀吉に、左近は舌をまいた。三成では幸村に対する視点が公平でない、と言ったも同然だ。わざわざそれを言うということは、三成の幸村に対する感情を、彼は知っていて黙っているということか。 知っていて、三成の言うとおりに真田を落とした。 「…そうですねぇ。家康殿とはずいぶん親しげでしたが」 「ほう」 「とはいえ、今ではあの真田も家康殿と争う立場にないわけですから」 「左近はそう見るか」 「今のところ、謀反の気配はない、と俺は思いますね」 「…そうか」 秀吉はどうにも納得がいっていないようだった。もともと叛意があるのかを試す為に幸村を一揆の鎮圧に向かわせた。まだ傷も癒え切っていない幸村をつかって、だ。 どういう方法をとるのかは幸村に一任された。 幸村はそれに対し、武で制した。 見事に退けたおかげで、しばらくは農民の一揆は起こらないだろう。 「しかし、大殿はそう思わないのであれば。気にかけておきますよ」 それだけ言うと、左近はその場を辞した。 秀吉は明らかに幸村を警戒している。今は怪我の療養で顔をあわせないが、おそらく兄、信之に対しても同じだろう。 真田は―――真田昌幸は、確かに素晴らしい将だった。巡らせる策謀は常に有効につかわれた。徳川が真田を落とせなかったのは、ひとえに昌幸の軍略の賜物だ。そしてその策謀を、間違いなく動かす。それが幸村と信之の力だった。 それを、秀吉は気にしている。侮れない、とそう考えているのだ。 「……厄介だねぇ」 ぼそりと呟く。 秀吉はおそらく、身の内に爆弾を抱えたと思っている。 真田という爆弾だ。 三成は気づいているだろうか。秀吉が、そう思っていること。 いっそ外に一切出さず、戦にもつかわず、幽閉でもした方がよほど気楽な話だ。しかし真田の武力は侮れない。 「…面倒くせぇなぁ」 しかし、わざわざ三成ではなく左近に言ってきたことには意味があるはずだ。そこに私情を交えるな、と。 おそらく秀吉はそう言っている。幸村に関する全てのことについて、秀吉が欲している情報は私情の挟まない公平な意見だ。 「兄上」 秀吉のもとから辞去して、幸村がすぐに向かったのは兄、信之が療養している屋敷だった。秀吉から直々に譲り受けたもので、真田兄弟に対する扱いは実に良い。 信之は幸村の無事の姿に特に顔色を変えず、一言ご苦労だったな、とだけ言った。屋敷を空けていたのは僅か数日の間だったが、その間に彼は彼なりに、心の整理をつけたのかもしれない。 「兄上は意地悪でいらっしゃいますな。良いことがあったのなら、幸村にも教えてください」 「…?何のことだ?」 幸村の含み笑いに信之は純粋に首を傾げている。 さらにおかしくなって、幸村は預かってきた文をちらりと見せて笑った。 「兄上、徳川の本多忠勝、その方の大事にされる娘御をお助けしたことがあるとか」 「…助け…」 はて、と本当に首を傾げる信之に、幸村はまたおかしくて笑った。 稲姫も忘れているかもしれないと言っていたが実際本当に忘れているのかもしれないところが恐ろしい。 「稲殿からの、兄上に宛てられた文です」 「…稲殿から」 何か思い出したのか、信之はやたらと緊張した面持ちで幸村から文を受け取った。相変わらず無表情だが、血の繋がりからかなんとなく今の兄はどういう気持ちでそれを見ているのか、わかる。 まず意外だと思っているだろう。浮いた話の特にない人だから、まず女性からのこういう文を貰うことも少ない。 そして妙に浮き足立つような、そんな気持ちもあるのだろう。 「…詳しい話は、聞いたのか?」 「いいえ」 「…そうか。…大したことはしていないのだが」 それからぽつぽつと、信之が語り出した。 徳川方は大筒を用意して、戦場にこれでもかと砲撃が繰り返されていた。 大筒は威力は絶大ながら、万能の武器ではない。戦場に敵味方が入り乱れていれば使うことは躊躇われる。大筒の使用方法としては、敵を引き寄せて使うというのが常套手段だった。 しかしその日は、稲姫の隊が陽動に出ていた。彼女は女ながらにそういう作戦をうまく立ち回る。だがこの時はそれがうまくいかなかった。 どういう行き違いがあったのかは知らない。 だが、徳川方の中で足並みの乱れがあった。 砲撃にさらされたのは信之の隊で、彼は砲撃が始まってすぐに下がれと命じた。命は無駄に散らすものではない。 ―――下がれ、全速力でだ! このまま突っ込んでいっても兵の消耗が激しい。砲撃が止むのを待つか、それとも、と考えていた時だった。 耳に飛び込んできた女の悲鳴。 振り返ればそこには、見覚えのない女がいた。武装しているところを見れば、おそらくあれは徳川方の兵だろう。 何故こんなところに徳川の兵が、と思ったが、それよりも、信之の視界に今まさに彼女の隊が味方の砲撃の餌食になろうという絵図が浮かんだ。 敵である以上放っておけばよかったが、唐突に手綱を引き、誰かが叫ぶのも構わず砲撃の中を戻った。 考えてみれば、よくあの砲弾の雨の中を馬が怖がらずに走ってくれたものだと思うのだが。 あとは、その女をどんなに衣服が乱れようと気にせず馬上から引きずりあげて、砲弾の届かないところまで連れて戻った。 連れ戻ってから、ようやく彼女が本多忠勝の娘だったことを知ったのだ。 結局その戦は、真田の勝ちだった。信之が成り行きで捕えたのが徳川の将だったこともある。また、家康はずいぶんこの稲を気に入っているようだ。彼女の解放と共にいくつかの真田側が出した条件を飲んで、ひいていった。 ―――あの、あなたのお名前をお聞きしてもよろしいですか。 砲撃から救うためとはいえ、物凄い力で引きずりあげられた時はそれこそ悲痛な悲鳴を上げた彼女だったが、解放される事になったあとは凛としていた。 ―――真田信之。 ―――…さなだ、のぶゆき…さま。 彼女が自分の名前を復唱していたのは覚えているが、それっきりだった。 そもそもそんな成り行きで真田は勝利を手にしていて、助けたんだか勝利をもぎ取ったんだかよくわからない戦だった、と。 (だから言わなかったのか) そういえば稲姫を捕虜にした戦があった。幸村は別働隊だったせいで、信之側で何があったのかよくわかっていなかった。とにかく父からは信之の手柄として聞かされていたし、それはそれでとても誇らしい話だったので。 「…兄上、お返事はされないのですか」 おそらくは、信之の気性を知っていて父もそれ以上言わなかったのだろう。 「…する」 一言そう呟いて、信之はもう一度文を見つめた。 何が書いてあるのかはわからないが、さぞ綺麗な文字で、そして墨使いの素晴らしい文に違いない。勝手にそう思って、幸村は部屋を後にした。 そして、部屋を出た瞬間。 「―――…」 すっと心の冷めるのがわかった。 「…幸村」 三成がいた。 何故ここに、と思ったがすぐに合点がいった。 この屋敷は秀吉が用意した、秀吉の館だ。彼から譲り受けているとはいえ、確かに譲渡されたわけではない。いわば口約束のようなもの。そして三成は、秀吉が持つ館の管理を任されている。 「…少し、いいか」 「…はい」 三成の表情は強張っていて、昔のような笑顔を浮かべない。 「一揆のことだ。それと、土砂崩れについて」 「……」 幸村は三成のあとに従い、広間へ向かった。 彼の背中を見つめながら、思う。 昔はよく文のやり取りをしていた。とはいっても三成は忙しいのかすぐに間が空いた。忙しい最中に文をよこされては困るだろうと思って、こちらもそのように合わせた。 しばらく間があいた頃、唐突に三成が単身馬を走らせて甲斐信濃の真田の領地にやってきた。 ―――幸村、何かあったのか。 彼は息せき切って唐突にそう言った。別に何も、と答えれば三成はさらに続けた。 ―――文…が。何かあったのかと思ったのだが。 三成に合わせただけだと答えれば、彼は酷くうろたえてすぐさま近江へ戻ろうとした。それを引き止めて。 (あの頃はよく笑っていた。私も、三成殿も) 今はもう笑わない。 笑えない。 唐突な戦。疲弊していた兵。多くの者が死んだ。何故まだ生きているのかと思うことがある。 何故あの時、自分は処断されなかったのか。 あんな風に笑いあっていても、友だと思っていても。 所詮、今この乱世の世では、どうにもならないことだとでも言うのだろうか。 だがどうしても拭い去れない。 計ったかのような隙をついた戦だった。徳川が退却した後を狙うかのように。真田は消耗していた。いつもの半分も力を出せなかった。 豊臣は、ほとんど兵を失わなかった。 (最初から…そのつもり、だったとしか思えない) 三成があんなにこちらに友好的だったのも、豊臣が手を貸してくれていたのも。 そうやって、疲弊し消耗しきったところを、虚をついて滅ぼす。 (この人は) わかっていてやっていたのではないのか。 文が少しいつもより遅かったといってやってきたのも、全て計算されたことで。 (もし私がここで、刀を抜いたらどうするつもりなのだろう)
そんなことばかり、考える。
|