幸村の待つ部屋に稲姫が訪れた頃には、屋敷に現れた頃の興奮はすっかり醒めた様子だった。 そのかわり、すっかり己の行動に恥じ入って、向き合ってからもなかなか口を開こうとしない。
本多忠勝の娘、稲―――。あの本多忠勝の娘とあって、弓の腕はなかなかのものらしい。数ある真田と徳川の戦のうち、彼女が援軍に駆けつける事も少なくなかった。
幸村は戦場の彼女しか知らない。 一体、何を思ってここへ来たのか。確かに彼女がここに現れた時、真田の名を口に出していたから、用はあるのだろうが。
奇妙な間に困って、幸村は何か語り口を見つけなければ、と考える。 そうしていた時だった。 この奇妙な間を、辛く思っていたのは何も幸村だけではなかったらしい。
「あのっ」 切羽詰ったような声音で、最初に口を開いた稲は、自分の声が裏返り気味だったことに驚いたような顔をしている。 「はい」 逆に幸村は、稲姫がようやく口を開いてくれた事に安堵したものか、僅かに微笑んでいた。
「その、いきなり申し訳ありませんでした」 「いえ。何か大切な用がおありなのでしょう?」 「…あの」 しかし切り出したはいいものの、やはりまだ迷いがあるのだろう。また不自然な沈黙が訪れる。
「………」 「不思議ですね。私と、あなたはいつも戦場でしかお会いしていませんでしたが」 「…そうですね」 家康とも語ったことを、稲姫にもそう言ってみる。考えてみれば、徳川方にいる信頼厚い家臣たちとは当然戦場でしか会うことはなかった。
それは当然の話だ。 「あの…先の豊臣との戦で…」 「………」 「昌幸様は、残念でございました。父、忠勝もそう言っております」
「…忠勝殿が。それは…ありがとうございます」 「…あの、…あの方、は」 「…あの方?」 「…信之様、です」 消え入りそうな声で稲姫が口にした名に、幸村は僅かに驚いた。
「…兄は、今は療養しております。戦での怪我が、あまり治りが芳しくなく…」 「…大丈夫、なのですか」 「生きてはおります。生きるか死ぬかという境にいるわけではございません。しかし…兄も、父の処断されるのを見ておりましたから。気落ちはしております」
兄の信之は、いかつい顔をしている。弱い男ではない。耐えろと言われたら幸村よりもうまく耐えてみせるし、現実を見据える目にも長けている。 しかし今回の件では、兄は目に見えて気落ちしていた。
幸村の言葉に、稲姫は酷く悲しそうな顔をする。まるで自分のことのように。 「…それは……」 「しかし、兄も男ですから」 「そう…そうですね。早くお元気になられれば…」
「気にしていただいていたのですね」 「えっ」 「違いましたか?兄のことを、気にして下さっていたのかと」 「あ…あ、あのっ。あ、あの方、信之様に、戦場で助けていただいたこと、が」
「…そうなのですか?」 稲姫の言葉に純粋に驚いて、思わず聞き返す。稲姫は頬を赤らめて必死に言葉を紡ぐ。 「助けたといっても、特別なことをされたわけではなくて…。信之様は覚えてらっしゃらないかもしれないのですけど」
「兄はあまりそういうことを口にしないのです。無口、といいますか」 「ずっと、お礼を言いたいと思っていて…」 「そうですか…」 「あの、手紙を…書いたら、届けていただけますか?」
「勿論です!」 「あ、ありがとうございます…。よかった…」 稲姫が心底ほっとしたように呟く。 その様子に、幸村は自然と笑みがこぼれた。
稲姫は想う相手がいる。兄がどんな風に彼女を助けたかは知らない。 だが、それ以来ずっとこんな風に想っていたのか。 その手助けが出来るなら、いいと思った。
それに、彼女の文が届くことで兄の気持ちが少しでも晴れるなら。 そう思っても、いたのだ。
三河に三成と左近が訪れたのは、雨がようやくあがった、その翌日だった。
その間に、家康から幸村を屋敷でもてなしている旨の書簡が秀吉に届いている。土砂崩れに遭い、連れていた共に犠牲を出した。傷の癒えていない身体での一揆の鎮圧での疲れもあろうから、家康の屋敷で存分にもてなす、という内容のものだった。
別に何の裏もないものだ。せいぜい、豊臣が真田を攻め落とすまで犬猿の仲だった真田を、徳川がもてなしているという事に若干の違和感はあったものの。 しかし三成は行くと言って聞かない。仕方なしに左近が秀吉に申し出て、幸村を迎えに出た。名目上は同盟関係にある家康が、豊臣配下の幸村をもてなしていることを直接礼を言う、というものだ。その為に、三河へ二人で向かった。
逸る気持ちもあるのだろうが、その執着ぶりも全くただ事ではない。 (大丈夫かね、この人は) 無言で馬を駆けさせる三成を横目に見ながら、左近は冷静にそんなことを考えていた。幸村を迎えに行くという事でもなければ、家康のところへなど死んでもいかないというくらい、三成は家康を毛嫌いしている。
性格的に合わないというのもあるのだろうけれども。 そんな奴のところへ、わざわざ出向こうというのだから、やはり幸村は三成にとって特別な存在なのだ。
おまえの力が必要だと言って憚らない三成の、その姿に心を打たれるか。それとも恐ろしいと感じるか。 それは人それぞれだろうが。 (あいつは、どう思ってるかね…)
ただでさえ、それまで幸村と三成は酷く仲の良い親友関係だった。 幸村は三成を尊敬していた。自分にないものを持っている。幸村が思い描くよりもずっと先を見ている、そう言っていた。
そういう相手から、幸村は手ひどく裏切られているわけだ。 何故、と思う気持ちは強いだろう。その理由を、三成が口にすることもないだろう。 (嫌な予感がする)
何がどうというわけではない。 そこまで具体的な何かが、左近の胸の内にあるわけではない。 ただ、一つ動き出した事に対して、歯車が回るように何かが連鎖し始めているのだ。それだけは感じている。立ち止まれはしない。
すでに天下は豊臣に大きく傾いている。 少なくとも西は完全に豊臣のものだ。今は同盟を組んでいる徳川も、そのうち豊臣の毒牙にかかる。 真田の時のように。
大きな力で背後を守っているように見せて、別の勢力と戦わせ続ける。消耗し疲弊したところで、同盟を破棄する。共倒れしてくれそうならばそれでもいい。秀吉はこちらに最小限の被害でもって、食いとどめる術に長けている。
あの真田昌幸が、それに気付いていなかったというわけではないだろうが。 (少なくとも幸村は知らんことだ) 三成が幸村に対して、そういう感情を持ったことは誤算だったが。 たどり着いたところでは、まず家康が二人を迎え出た。
「これはこれは。わざわざのお越し」 「くだらん社交辞令はいい。幸村はどこだ」 「真田殿は奥の部屋に」 「そうか。此度は幸村が世話になった。秀吉様も徳川殿のところにいるならばと安心しておいでだ」
「それはそれは」 「部屋へ案内してもらいたい」 「ふむ。勿論、そのつもりなのだが今は真田殿には来客がありましてな」 「…来客?」
徳川のところにいて、幸村に? 左近も三成も、同時に不審な顔になった。家康はそれに苦笑して続ける。 「女人ですのでな。多少、気も遣いましょう」
「…女?どういうことだ」 「どうされましたかな。恐い顔をされておいでだが」 「………」 「すいませんね。秀吉様には早くに連れて帰れといわれているもんで。失礼しますよ」
ゆったりと歩く家康の足がようやく止まり、中に声をかける。 桜の花びらが、ずいぶん続いた雨のせいで全て落ちていた。土の上、白かあるいは桃色か。薄く色づいた花びらが落ちて、雪のようだ。
「成る程、仕方ありますまい。真田殿、稲、よろしいかな」 「はい」 連れられた部屋の奥から幸村の返事があった。 数日ぶりの幸村の声に、三成が僅かに安心したような表情を浮かべた。もちろん一瞬のことで、そんなものは左近くらいにしか判別のつけられない程度のものだ。
襖が静かに開き、幸村が出てきた。幸村は三成を見た途端に表情を硬くして、無表情に徹した。 「幸村、迎えにきた」 「…すぐに出立ですか?」
「なんとも慌しいことですな。少しゆっくりされてはいかがかな。多少のもてなしもいたしましょう」 「いや結構。先程左近も言った通りだ。秀吉様には早く戻れと言われている」
「…わかりました。しばしお待ちください」 幸村の声音すらも硬質だ。完全な手負いの獣状態の幸村を、三成も無表情に見つめていた。しかしその双眸の奥底に、昏い色が浮かんでいるのもわかる。
「…あの、申し訳ありませんでした」 「いいえ。きちんとお話が出来て、よかった」 部屋の奥にいる女―――稲姫の声に、幸村の声が和らぐ。
明らかに警戒の欠片もない、心を許しているような声音だった。 それは三成も気付いているのだろう。表情には出さないが、握り締めた拳にかかる力は相当なもののように見えた。
「稲よ、話は出来たのか?」 「はい。ありがとうございました」 「そうかそうか。それは良かった。忠勝も心配しておるぞ」 「はい」
稲姫と家康の会話はどこか親子めいたものに聞こえる。秀吉と三成もこれに近い関係だが、ふと。 その二人を見つめる幸村の表情が気になった。 「徳川殿。このたびはありがとうございました」
「いいやいいや。昌幸殿の話が出来て、わしも楽しかった」 幸村の表情が柔らかい。対する家康も同じだ。当然の話ではあるが、その場にいる三成と左近が、完全に蚊帳の外という状態だった。
ほんの少し、家康のところにいただけで、仇敵として戦い続けていた相手と意気投合したとでもいうのだろうか。 左近の胸によぎった嫌な予感が、こういう形で現実になるとは思わなかった。
徳川家康と、真田幸村が信頼しあう関係になったら。 もちろんまだ、こんなことを気にする段階ではない。しかし今の幸村は、明らかに豊臣よりも徳川に信頼を寄せているように思えた。
彼の表情や、その口調がそれを物語っている。恩になったからというだけではない。もっと何か。通じるものがあったというような。 「…行くぞ、幸村」
三成は気付いているだろうか。いいや、気付いていないはずがない。 幸村の感情の向く先を、特に気にしているこの男が。 気付いていないはずがない。
「…殿」 「左近、行くぞ」 左近の声にも振り返らず、三成は先頭を歩き出した。 さっさとこの屋敷から、そして徳川の領地から出ようとでも言うように。
それに幸村が続く。二人の背を見つめて、左近はやはり止めるべきだったのか、とそう思った。 あの時、真田に戦を仕掛けると提案した時に。
それでは幸村の心など手に入らない、と。 だが、それでも三成は止まらなかっただろう。もうずっと、三成は幸村を欲していた。それを知っていたからだ。
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