雨の勢いは増すばかり、視界は暗く、先も見えない。
花が散るな、と幸村は外を眺めていた。
「雨が気になりますかな」
「…徳川殿」
桶をひっくり返したような、とでも言うような大雨は、些細な音すらも遮る。家康がすぐ近くにいたことに気づけなかった幸村は、驚いた顔を一瞬見せて、だがすぐに感情を押し殺した。
向き直り、家康の対面に座して深々と頭を垂れる。
「此度はさまざまなお心遣い、痛み入ります」
「なんのなんの。屋敷の者に不手際はなかったですかな」
そう言って笑う家康の顔には、戦場で見るような殺気は微塵もなかった。
それに内心戸惑う幸村は、自分の今の境遇を不思議に思う。
何故、ここにいるのだろう。
徳川家康と真田家は仇敵である。ほんの少し前まで睨みあい、小競り合いを続けてきた。しかし決着はつかなかった。真田家が、豊臣に攻め込まれ、真田昌幸を筆頭に処断されてしまったからだ。
それまで豊臣と真田は手を組み、戦っていた。
同盟を組み、徳川を攻め込む為に力を貸してもらったこともある。
全て、昔の話だ。
「不思議なものですな」
幸村の心を読み取ったように、家康が呟いた。その言葉にはっとして、幸村は自分が黙り込んでいたことに気付く。
「…そうですね」
「少し前まで、真田と我々はことある事に戦っていたものだ」
「その徳川殿の屋敷にいて、もてなされていると思いますと…不思議です」
「それは勿論、わしもだ」
家康は恰幅の良い身体を揺らして笑った。
どうして家康と敵対していたのだったか、互いに攻め込み攻め込まれを繰り返していた。
時には家康を追い詰めあと一歩のところまでいったこともある。
逆に攻め込まれ、あと一歩のところまで進退窮まったこともある。
「…まさか、このような形で決着がつこうとはな」
家康の言葉は、幸村には悲しく聞こえた。家康が、真田の負け戦を嘆いているように聞こえたのだ。
「…父も、同じように思っておりましたでしょう」
「そういえば、兄上はどうされた?」
「…兄も私と同じく、捕らえられて豊臣配下となりました」
「昌幸殿は処断されたのでしたな」
「はい」
とはいえ幸村と違い、兄の信之は酷く痛めつけられており、思うに任せない状態で生かされている、といってよかった。
信之も幸村も、父が処断されるのをこの目で見ていた。その上で、息子二人を生かした。秀吉がどうしてそういう采配を下したのかは知らない。
が、あれは見せしめだった。それだけは感じている。
逆らえばこうなるというのを、父・昌幸を使って示された。
「大変、残念なことだ」
家康がしみじみとそう呟いて、ため息をついた。
「この雨だ、しばらくはこちらに滞在されてはいかがですかな」
「…ありがとうございます」
「なんのなんの」
部屋を用意させよう、と家康が出ていき、また一人になれば雨の音が耳に痛いほど響く。
家康からの言葉は幸村にとってすんなりと耳に馴染んだ。あれだけ戦い続けた相手だ。多くの家臣を殺されたし、たくさんの犠牲を払った。
しかしそれは家康も同じだ。
そしてそれだけ戦い続けてきた相手だからこそ、あの言葉を言われて、これだけ身に染みたのか。
家康のことは、決して相容れない相手だと思っていた。
だけれども。
(こうして、実際に語らってみれば…)
父のことをよく知り、正しく評価してくれている。
妙に心に響いた。嬉しかった。
「真田様」
「は、はい」
振り返れば、屋敷の者が申し訳なさそうに幸村を見ている。
「お部屋へご案内いたします」
「申し訳ない」
案内役を仰せつかった老人は、廊下を歩きながら何度か幸村を気にするように振り返り、ついにおずおずと話しかけてきた。
「あの、真田様。一つ、お聞きしても…」
「はい」
何か言いたいことがあるのだろうと思っていたから、その切り出しにも動じずに幸村は頷く。老人はやはりどこか迷った様子で口を開く。
「…その、私のよく知る人で、真田様のご兄弟のこと、安否をとても気にされている方がおりまして」
「…私たち兄弟の、ですか」
「はい」
そういえば家康も、信之のことを気にかけていた。
ということは、家康とも近しい人ということだろうか。
「私はこの通りですし…兄は、今は怪我の療養をしております」
「ご無事なのでしょうか」
「無事、ではあります。傷がおさまるのには時がかかるかと思いますが」
「さようでございますか…。大変な戦でございましたとか」
「……そうですね」
脳裏に蘇るあの戦。
徳川との戦が続き、民も兵も疲弊していた。
その虚をつく形で、豊臣との戦が勃発した。それは、真田からしてみれば、俄かには信じられない戦でもあった。
ほんの少し前まで同盟を組み、またそれ以上にも親しく行き来をしていたのだ。だけれども、そんなものはあっさりと通り越して、豊臣は―――三成は幸村に刃を向けてきた。
―――俺にとっては好機だ
そう言っていた三成の目は、確かに獲物を屠ろうという獣のような目だった。
「…しかし、お二人はご無事でようございました。きっと喜びます」
「…どなたが、私どもを気にしてくださっているのか、お聞きしてもよいでしょうか」
当然といえば当然の問いに、老人はやはり酷く困った様子でおろおろとして必死に頭を下げる。
「…申し訳ございませぬ。思わせぶりな事をしておりますな。しかし、おそらく私の口からこの事、申し上げるのはあまり喜ばしいことではないと思うのです。おゆるしくださいませ」
「……そうですか。わかりました」
誰だろう、とは思ったが、それ以上は詮索しないことにした。
案内された部屋は、どうやら庭にある桜の木のそばにあるのだろう。雨の臭いに紛れて、花のにおいがする。
きっと晴れれば、部屋の中にも桜の花弁がひらひらと降り注ぐ。
だけれども、きっとこの雨で花は散るだろう。
花は陽の光を見ない。
(私は)
あの時、どうすればよかったのだろう。
それから数日、雨は降り続けていた。
幸村の怪我も決して完治しているわけではない。
一揆を鎮圧した時もその怪我をおして出陣したのだ。家康は秀吉には書状を送ってあると言うので、結局幸村は数日を家康の屋敷で過ごすこととなった。
「しかし、いろいろご迷惑を…」
そういう話をしていた時だった。
突然、屋敷が騒がしくなって、人の出入りが多くなった。何事かと屋敷の者に問えば、突然の来客らしい。この大雨の中をおして来るとは、何かあったのか。一瞬その可能性を考えて、幸村も身を引き締める。
が、突然の来客とは女で―――本多忠勝の娘、稲だった。
「おお、おお稲よ!!どうしたというのだ」
家康の出迎えに、稲姫は興奮した様子で詰め寄った。
「と、殿!真田様がいらっしゃるというのは、」
「…忠勝に送った書簡を読んだのか?稲」
やれやれという様子の家康に対し、稲姫ははっとして押し黙った。
「まったく、このように身体を冷やして。稲は忠勝とは違うのだぞ。少しは己を労わらねば」
「…も、申し訳ありません…」
よい、というように家康は身体を揺らしながら笑うと、屋敷の者に稲を任せることにしたようだった。
幸村を部屋へ案内したあの時の老人が、やはりおろおろとした様子で稲姫の元へ歩み寄り、湯を用意させることにしたようだった。
「さても申し訳ない。驚かれたかな」
家康は苦笑気味に幸村にそう言った。
「今のは…」
「家康には過ぎたるものが二つあり、というのを知っておられますかな」
「はい」
「そのうちの一つ、本多忠勝が娘、稲という。良い娘だが、父に似て無茶を平気な顔でやる」
「さようで…」
「おそらくあれは、真田殿に話があるのだ。お相手願えればと思うが」
「は、はい…」
まるで娘を思う親のような柔和な表情で笑う家康を、幸村は妙な感慨で見つめていた。身体を労われという家康は、稲姫を家臣だというようには扱っていなかった。
その様子に、どことなく亡き父を思い出していた。
ここ数日、家康のもとにいて酷く困惑していた。
悪人の面しかないものなど、この世のどこにもいないことはわかっている。
真田にとって徳川がそうであったように、彼らは幸村にとっては敵であってそれ以上ではなかった。
だけれども。
あの戦以来、あらゆるものが崩れていっている。
敵だろうか。味方だろうか。友だろうか。
揺るがないものだと思っていたものが、簡単に崩れて形が変わる。
今の幸村にとって、誰が信じるに足るもので、誰がそうでないのか。
三成は、幸村にとっての敵なのか。友なのか。信じられる相手なのか。
(見えない)
今はそういう世であることは承知している。
敵味方が入れ替わることも珍しいことではない。
だけれども。
信じたがっていたのだ。
三成との関係を。
幸村にとって三成が、幸村にとって三成が。
永遠に続く友である、と。
ありし日のことを思い出せば、胸に迫る感情は何と呼ぶべきものか。
何故、こうなってしまったのか。
ただ、見えないでいる。
三成の見る先の世。三成が望む先を。
ほんの少し前までは、見えていたと思っていたのに。
三成の見つめる先に、自分はいるのか。居場所はあるのか。信じるに足る信念があるのか。
こんなこと、昔はわかっていたのに。
わかっていた、つもりだったのに。
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