花に嵐 4




 雨の勢いは増すばかり、視界は暗く、先も見えない。
 花が散るな、と幸村は外を眺めていた。
「雨が気になりますかな」
「…徳川殿」
 桶をひっくり返したような、とでも言うような大雨は、些細な音すらも遮る。家康がすぐ近くにいたことに気づけなかった幸村は、驚いた顔を一瞬見せて、だがすぐに感情を押し殺した。
 向き直り、家康の対面に座して深々と頭を垂れる。
「此度はさまざまなお心遣い、痛み入ります」
「なんのなんの。屋敷の者に不手際はなかったですかな」
 そう言って笑う家康の顔には、戦場で見るような殺気は微塵もなかった。
 それに内心戸惑う幸村は、自分の今の境遇を不思議に思う。
 何故、ここにいるのだろう。
 徳川家康と真田家は仇敵である。ほんの少し前まで睨みあい、小競り合いを続けてきた。しかし決着はつかなかった。真田家が、豊臣に攻め込まれ、真田昌幸を筆頭に処断されてしまったからだ。
 それまで豊臣と真田は手を組み、戦っていた。
 同盟を組み、徳川を攻め込む為に力を貸してもらったこともある。
 全て、昔の話だ。
「不思議なものですな」
 幸村の心を読み取ったように、家康が呟いた。その言葉にはっとして、幸村は自分が黙り込んでいたことに気付く。
「…そうですね」
「少し前まで、真田と我々はことある事に戦っていたものだ」
「その徳川殿の屋敷にいて、もてなされていると思いますと…不思議です」
「それは勿論、わしもだ」
 家康は恰幅の良い身体を揺らして笑った。
 どうして家康と敵対していたのだったか、互いに攻め込み攻め込まれを繰り返していた。
 時には家康を追い詰めあと一歩のところまでいったこともある。
 逆に攻め込まれ、あと一歩のところまで進退窮まったこともある。
「…まさか、このような形で決着がつこうとはな」
 家康の言葉は、幸村には悲しく聞こえた。家康が、真田の負け戦を嘆いているように聞こえたのだ。
「…父も、同じように思っておりましたでしょう」
「そういえば、兄上はどうされた?」
「…兄も私と同じく、捕らえられて豊臣配下となりました」
「昌幸殿は処断されたのでしたな」
「はい」
 とはいえ幸村と違い、兄の信之は酷く痛めつけられており、思うに任せない状態で生かされている、といってよかった。
 信之も幸村も、父が処断されるのをこの目で見ていた。その上で、息子二人を生かした。秀吉がどうしてそういう采配を下したのかは知らない。
 が、あれは見せしめだった。それだけは感じている。
 逆らえばこうなるというのを、父・昌幸を使って示された。
「大変、残念なことだ」
 家康がしみじみとそう呟いて、ため息をついた。
「この雨だ、しばらくはこちらに滞在されてはいかがですかな」
「…ありがとうございます」
「なんのなんの」
 部屋を用意させよう、と家康が出ていき、また一人になれば雨の音が耳に痛いほど響く。
 家康からの言葉は幸村にとってすんなりと耳に馴染んだ。あれだけ戦い続けた相手だ。多くの家臣を殺されたし、たくさんの犠牲を払った。
 しかしそれは家康も同じだ。
 そしてそれだけ戦い続けてきた相手だからこそ、あの言葉を言われて、これだけ身に染みたのか。
 家康のことは、決して相容れない相手だと思っていた。
 だけれども。
(こうして、実際に語らってみれば…)
 父のことをよく知り、正しく評価してくれている。
 妙に心に響いた。嬉しかった。
「真田様」
「は、はい」
 振り返れば、屋敷の者が申し訳なさそうに幸村を見ている。
「お部屋へご案内いたします」
「申し訳ない」
 案内役を仰せつかった老人は、廊下を歩きながら何度か幸村を気にするように振り返り、ついにおずおずと話しかけてきた。
「あの、真田様。一つ、お聞きしても…」
「はい」
 何か言いたいことがあるのだろうと思っていたから、その切り出しにも動じずに幸村は頷く。老人はやはりどこか迷った様子で口を開く。
「…その、私のよく知る人で、真田様のご兄弟のこと、安否をとても気にされている方がおりまして」
「…私たち兄弟の、ですか」
「はい」
 そういえば家康も、信之のことを気にかけていた。
 ということは、家康とも近しい人ということだろうか。
「私はこの通りですし…兄は、今は怪我の療養をしております」
「ご無事なのでしょうか」
「無事、ではあります。傷がおさまるのには時がかかるかと思いますが」
「さようでございますか…。大変な戦でございましたとか」
「……そうですね」
 脳裏に蘇るあの戦。
 徳川との戦が続き、民も兵も疲弊していた。
 その虚をつく形で、豊臣との戦が勃発した。それは、真田からしてみれば、俄かには信じられない戦でもあった。
 ほんの少し前まで同盟を組み、またそれ以上にも親しく行き来をしていたのだ。だけれども、そんなものはあっさりと通り越して、豊臣は―――三成は幸村に刃を向けてきた。

―――俺にとっては好機だ

 そう言っていた三成の目は、確かに獲物を屠ろうという獣のような目だった。
「…しかし、お二人はご無事でようございました。きっと喜びます」
「…どなたが、私どもを気にしてくださっているのか、お聞きしてもよいでしょうか」
 当然といえば当然の問いに、老人はやはり酷く困った様子でおろおろとして必死に頭を下げる。
「…申し訳ございませぬ。思わせぶりな事をしておりますな。しかし、おそらく私の口からこの事、申し上げるのはあまり喜ばしいことではないと思うのです。おゆるしくださいませ」
「……そうですか。わかりました」
 誰だろう、とは思ったが、それ以上は詮索しないことにした。
 案内された部屋は、どうやら庭にある桜の木のそばにあるのだろう。雨の臭いに紛れて、花のにおいがする。
 きっと晴れれば、部屋の中にも桜の花弁がひらひらと降り注ぐ。
 だけれども、きっとこの雨で花は散るだろう。
 花は陽の光を見ない。
(私は)
 あの時、どうすればよかったのだろう。



 
それから数日、雨は降り続けていた。
 幸村の怪我も決して完治しているわけではない。
 一揆を鎮圧した時もその怪我をおして出陣したのだ。家康は秀吉には書状を送ってあると言うので、結局幸村は数日を家康の屋敷で過ごすこととなった。
「しかし、いろいろご迷惑を…」
 そういう話をしていた時だった。
 突然、屋敷が騒がしくなって、人の出入りが多くなった。何事かと屋敷の者に問えば、突然の来客らしい。この大雨の中をおして来るとは、何かあったのか。一瞬その可能性を考えて、幸村も身を引き締める。
 が、突然の来客とは女で―――本多忠勝の娘、稲だった。
「おお、おお稲よ!!どうしたというのだ」
 家康の出迎えに、稲姫は興奮した様子で詰め寄った。
「と、殿!真田様がいらっしゃるというのは、」
「…忠勝に送った書簡を読んだのか?稲」
 やれやれという様子の家康に対し、稲姫ははっとして押し黙った。
「まったく、このように身体を冷やして。稲は忠勝とは違うのだぞ。少しは己を労わらねば」
「…も、申し訳ありません…」
 よい、というように家康は身体を揺らしながら笑うと、屋敷の者に稲を任せることにしたようだった。
 幸村を部屋へ案内したあの時の老人が、やはりおろおろとした様子で稲姫の元へ歩み寄り、湯を用意させることにしたようだった。

「さても申し訳ない。驚かれたかな」
 家康は苦笑気味に幸村にそう言った。
「今のは…」
「家康には過ぎたるものが二つあり、というのを知っておられますかな」
「はい」
「そのうちの一つ、本多忠勝が娘、稲という。良い娘だが、父に似て無茶を平気な顔でやる」
「さようで…」
「おそらくあれは、真田殿に話があるのだ。お相手願えればと思うが」
「は、はい…」
 まるで娘を思う親のような柔和な表情で笑う家康を、幸村は妙な感慨で見つめていた。身体を労われという家康は、稲姫を家臣だというようには扱っていなかった。
 その様子に、どことなく亡き父を思い出していた。
 ここ数日、家康のもとにいて酷く困惑していた。
 悪人の面しかないものなど、この世のどこにもいないことはわかっている。
 真田にとって徳川がそうであったように、彼らは幸村にとっては敵であってそれ以上ではなかった。
 だけれども。
 あの戦以来、あらゆるものが崩れていっている。
 敵だろうか。味方だろうか。友だろうか。
 揺るがないものだと思っていたものが、簡単に崩れて形が変わる。
 今の幸村にとって、誰が信じるに足るもので、誰がそうでないのか。
 三成は、幸村にとっての敵なのか。友なのか。信じられる相手なのか。
(見えない)
 今はそういう世であることは承知している。
 敵味方が入れ替わることも珍しいことではない。
 だけれども。
 信じたがっていたのだ。
 三成との関係を。
 幸村にとって三成が、幸村にとって三成が。

 永遠に続く友である、と。

 ありし日のことを思い出せば、胸に迫る感情は何と呼ぶべきものか。
 何故、こうなってしまったのか。
 ただ、見えないでいる。
 三成の見る先の世。三成が望む先を。
 ほんの少し前までは、見えていたと思っていたのに。
 三成の見つめる先に、自分はいるのか。居場所はあるのか。信じるに足る信念があるのか。
 こんなこと、昔はわかっていたのに。

 わかっていた、つもりだったのに。



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あけましておめでとうございます(遅)。ところで羽柴が豊臣に改姓する条件がわかって大変あわあわしていますがこのままいきます(笑)