雨の日に、幸村は一揆鎮圧の為に出立した。 鎮圧には時間はかからなかったらしい。が、幸村は戻らない。 しばらくの間、領内に残って現状をその目で確認してくる、というのが一応の名目だった。秀吉はそれを疑っていない。いや、疑っているかもしれないが、表向きそれを見せない。 (…避けた、か) しかし三成は、その真意を知っている。 頑ななまでに拒絶してきた幸村の、あの暗い目は、忘れられるものではない。 書き物をやめて、雨の音に耳を傾ける。三成はこの雨の音が案外好きだった。雨によって、それ以外の音が遮断されたように静まりかえり、人の行き来すら少ない。そういう日は何かに邪魔されることも少ない。 しかしその日の雨は、また特に酷かった。 雲の上、誰かが桶でもひっくり返したのかというほどの土砂降りだ。 こうも酷い雨、さてこれは農民にとって吉と出るか凶と出るか。 どちらにせよ、雨が上がれば仕事も増えるだろう。 雨が上がったら。 (…幸村は戻ってくるだろうか) 何故だかはわからないが、もう戻らないのではないか、とそんな気がしてならない。 くだらない感傷だ、と三成はそれを何度も否定してきた。 だが、幸村が出立してからずっとだ。さほど離れているわけでもないのに、何故だか酷く遠くに感じられる。領内の話なのだから、どうせなら三成自身が馬を走らせて、迎えに行くことだって可能だ。 だが、なぜだかそうすることは躊躇われた。 あの目が。 暗い色を宿す目が、その影が、それを誰が作ったのか、そう考えれば考えるほど。 ―――幸村が欲しいと思った。 だから、それを実行した。 だけれども、それで幸村は諾々とは従わない。 ではどうすればいいのだろうか。どうすれば、幸村は三成の手の内に入ってくれるのか。 どうすれば。 幸村が、手に入る? そう考えていた矢先だった。ばたばた、と乱れた足音が響く。左近ではないようだった。その不快な足音に、三成は不機嫌に眉根を寄せる。が、それは次の瞬間、霧散した。 「失礼いたします!」 その時、三成は何の音も聞こえなくなるほど、強い眩暈を覚えた。 真田幸村、土砂崩れに遭い行方も知れず―――。 三成は、指先が唐突に冷えるのを感じた。心臓の音がうるさいほど高鳴っている。喉が渇いて声が掠れる。 「どういう、こと、だ」 「詳しいことはまだ…。ただ、土砂崩れがあった、と」 「それに幸村が巻き込まれたというのか!?」 「そ、そういう報告でございます…!」 恐ろしいほどの三成の形相に、相手はすっかり怯えて震え上がっていた。 三成は決して感情の起伏の薄い人間ではない。どちらかといえば、常に不機嫌顔で、家人たちとてそれはよく知ったことだ。 だが、この時の三成の表情は、羅刹のような顔だった。 しかしそんな怯えきった家人のことなど気にもせず、三成は立ち上がり、厩へと向かおうとした。足音も高らかに、とにかく急いでいた。 立ち居振る舞いなど気にも留められないし、今この大雨の中、出たところでどうなるとかそういう計算も出来ない。 「殿」 そうやって煮え立った頭で向かう途中、その行く手を遮ったのは左近だ。 「左近、邪魔だ!」 「もう状況の確認のため、先発隊を向かわせてますよ。殿が出る必要はありません」 「何を言っている。こんなところでくすぶってなどいられるか!」 「殿、他にもやることはあります。土砂崩れは何もここだけじゃないでしょうしね」 「…何故、ゆきむらが」 そんな場所で一体何をしていたというのか。 「わかりませんな。ただ、この雨の中、強行軍で戻る必要はどこにもありません。幸村に何があったか、それを確認させるために先発隊を出してるんでしょう」 「……くそ」 「あの真田幸村が、こんなことで死ぬとは思えませんよ、殿」 でも、それならどうしてこんなに心臓が痛いのか。どうしてこんなに指先が冷えて震えるのか。どうしてこんなに喉が渇いて、声が掠れるのか。 どうしてこんなに、不安なのか。 思い返す幸村は笑わない。三成の脳裏に焼きついた幸村の表情は酷い目をして敵を睨むそれか、それとも予想もしない裏切りにあって、酷く傷ついた顔か。 それが、余計に三成の不安を煽った。 今の三成には、自信がない。幸村が戻ってくる、と信じる地盤がない。その地盤を最初に崩したのは、間違いない。 己自身だ。
なんだか嫌な気配がする、とそう思った。 一揆の鎮圧の為にこの地に来て、鎮圧自体には時間はかからなかった。 武で制するも、金でどうにかするも、はたまた真田の智略でどうにかしてみせるか、どんなやり方でも幸村に任せる、と言った秀吉は、その瞳の奥で決して笑っていなかった。常から明るく派手好きなところのある秀吉は、時折そういう風に人を試す。明るい笑顔の奥底で、人を試すために冷静に他人を見つめている。 それは幸村にもわかった。 幸村はそれに対し、武で制した。それが秀吉の目にどう映るかはわからなかったが、今はそれどころではない。 嫌な気配があった。何がどう、とは言い切れない。 ただ、この農民の一揆には裏で煽動する人間がいるような、そんな気がする。 もちろんそれは、今のところ幸村にとって胸騒ぎ程度のものだ。 しかしこの村は、三河に近いのだ。 三河は今のところ、秀吉とは同盟を組んでいる。秀吉が、真田と手を組むことを断って、組んだ相手は徳川家だった。秀吉がどういう考えで徳川と手を組んだかはわからないが、徳川は順調に領土を広げつつある一大勢力だ。一筋縄ではいかないし、互いが互いを決して良くは思っていない。 だから、幸村は戻らなかった。 この胸騒ぎがなんなのか、何のためのものか、それを知りたかった。 それに。 (今は…会いたくない) 三成と顔をあわせたくなかった。 同盟を組んでいた頃、しょっちゅう三成は幸村を呼び寄せ、また幸村のところへ何のかんのと用事を作っては顔を見せていた。 その男が、まさかあんな風に真田に手ひどい裏切りをしてこようなど。 今ならば思う。あれは、ああして同盟の期間中、ごく親しく付き合っていたのは、あの戦への伏線だったのか、と。 そうして、真田を滅ぼすつもりだったのか、と。 三成は、そしてその彼のもとにいる左近は、どちらもまた策に秀でた者だ。智将として名高い。そういう計算を、していなかったと言われて、素直に信じることが出来るだろうか。 だからこそ。 今はまだ、顔をあわせたくなかった。酷い言葉を吐いてしまいそうで、感情に任せて何を言ってしまうかわからなくて、ならば逢わない方がいい。 戦場で逢った時、三成は笑っていた。 その感情の、起源が幸村にはわからない。 あの時あの瞬間、幸村の目には三成は異常にまで見えた。 際立った容貌が、嬉々として真田を潰そうとしている。 そういう人ではない、と思っていたから、幸村は怖かった。 一体何をどう思い、どう感じてあの場で笑ったのか。どうしてあの場で、幸村を捕縛したのか。 何故父や他の者にしたように、処断しなかったのか―――。 わけがあって、生かされているのだ。 そうとしか思えなかった。 一揆の鎮圧の為に出立した日から、弱い雨が降っていた。その雨が、ついに今まで止むことなく、次第に雨脚も酷くなり、今では土砂降りだった。 このままでは地盤が緩んで何かしら災害が起こる。川に近い家は、川の氾濫も恐ろしかった。 そうやって、領内を見回っていた時だ。 ふと、幸村は振り返った。山がうなっている。地面が揺れている。 この、感覚は。 「―――!走れ!」 今まさに、考えていた通りのことが起きた、と思った瞬間だ。山の斜面が崩れた。幸村は慌てて馬の腹を蹴る。馬がいななき、途端に走り出した。供の数人がその声にハッとしたが、動けなかった。 地響きとともに、彼らを飲み込むようにして踏みならしてきた道が消え、土砂が覆った。その凄まじい勢い。 分断された。 供としてついてきていた数人はどうやら土砂に巻き込まれたようだった。生死のほどは、その場からはわからない。が、確実に今、幸村は孤立した。 「………」 ここにいては危険だ、と幸村は焦燥を隠しきれず、舌打ちする。 危険だとわかっていたのに近づいた。その迂闊さが今こうして被害を生んでいる。 呆然と、だが次第に、己のあまりの愚かさに自嘲の笑みかもれる。 (こんな風だから…裏切られたのかもしれないな) 戦でない場所で部下を失うなど。 幸村は、雨に張り付いた髪をかきむしって、うなだれた。 そうして、しばらくどうにも出来ずにいれば。
「おや」 知った声がした。 「やはり崩れたか…。と、そこにいるのは、誰だ?」 よろよろと顔を上げる。そしてそこにいる、男に。 幸村は力なく視線を向けるしか出来なかった。 (ああ) あの胸騒ぎは、全てはここに起因するのか。ここに結びつくのか。 「どうされた。…ずいぶん途方に暮れておるようだが」 徳川家康。 恰幅の良いその男が、驚いたようにこちらを見ていた。
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