あなたのために、時を跳ぶ 3




 薬のおかげか、とにかく幸村は夜には起き上がれるほど体調を取り戻し、部屋にやってきた直江がそれを喜んだ。
「はいノート。必要でしょう」
「ああ、すまん」
 粥がうまかった、という話で盛り上がる二人をさておいて、とりあえず石田は島からノートを受け取るとぱらぱらと確認した。
 何故だかすっかり意気投合している二人は石田の部屋にあるものを適当に説明を始めている。まあそれはそれで悪いことでもないし、別段何の問題もないのだが。
「そうだ、とっておきを見せてやろう!」
 直江の声が一際大きく響いた瞬間、石田は島のノートを引っつかんで直江の頭をこれでもかというくらいの勢いで叩きつけた。
 バシン!!という乾いた音が部屋に響く。
「痛いぞ!!」
「痛くしたんだ!!今何を幸村に教えようとした!」
「そんなもの決まっているだろう!おまえの秘蔵のビデ…」
「死ねぇぇぇぇぇ!!」
 途端に部屋の中で格闘が始まった。飛び掛った石田の身体を防ぐように直江が己の鞄でガードする。そういう攻防が続き、幸村がぽかん、と開いた口をふさごうともせず目の前で繰り広げられる大乱闘を見ていた。
「ちょっと、そこいると危ないですよ」
「え、あ、は、はい」
 おろおろと四つんばいに島の方へ歩み寄ると、テーブルの向こうでいまだに繰り広げられている乱闘を遠巻きにした。止めなくていいのか、と島を見たが、気にする様子は全くない。
「あ、あの」
「うん?ああ、あの二人はいつもああだから気にする必要ないですよ」
 本当のところは夜だしここはアパートの二階だし、止める必要があるのだが、幸運なことに階下の人は夜勤が多いらしく夜はほとんどいない。大家もおおらかだ。時折隣室の住人が、うるさい、とばかりに壁を叩くがそれもお互い様だと石田は言う。
「…いつもああなのですか?」
「そう。大抵あと数分もすると終わる」
「…仲がよろしいのですね」
「まぁ、そうかもな」
 幸村は島の言葉に、とても懐かしいものを見るような目で二人を見ていた。
 おそらく、真田幸村が生きていた時代にも、こんなかんじの二人がいたのかもしれない。
「…いいですね…微笑ましい」
 ぽつり、と幸村が呟く。島は読んでいた本にしおりをはさむとテーブルに肘をついた。
「何だか懐かしそうだな」
「…私の、友に似ているのです。あなた方が」
「…へぇ。俺も?」
「ええ」
 幸村の友人という人がどんな人物だかは知らない。が、興味があった。
 もともと島は石田よりも日本史に詳しい。
「あんた、そういえば何してたって言ってたっけ?」
「…上田にて、示威篭城を」
「誰相手に?」
「徳川秀忠率いる兵などを、足止めしておりました」
 ああ、と島はそこで合点がいった。たしか関が原に遅刻したとかなんとか、小学校の頃学校の図書館にあるような歴史の漫画で読んだ記憶がある。
 ということは、彼は関が原のあたりを生きていたということか。
「それで、どうしたんだった?」
「……関が原で、三成殿が、負けたと」
 みつなり、みつなり、と島はぶつぶつ呟いて、ようやく関が原を徳川に対した武将を思い出した。石田三成について、あと知っていることと言ったら茶の話があったな、という程度だ。
「じゃあ、あんた大変だったんだな」
「…そんな、ことは」
 島の言葉に、幸村が俯く。辛い記憶なのだろう。己の与する側が負けたとあっては、それも当然のことか。
「…三成殿や、左近殿や…兼続殿が今、どうしているか…それが気がかりで」
 幸村の声はだんだんと辛そうで、膝の上、握り締める拳に力がかかってくるのを見て、ああ、やばい、と思った瞬間だった。
「おい、島!」
「え」
 突然石田がこちらを向いていた。今の今まで直江と取っ組み合いをしていたはずだったが、いつの間に終わったのやら。
「幸村に何かしたのか?」
「ちょっと話ししてただけですって!」
「じゃあどんな話をしてたんだ」
 石田は酷く怒った様子で膝立ちのまま幸村のもとに歩み寄る。
「おい」
「あ、いえ、平気です。すいません。島殿が悪いのではないのです」
「本当か」
「本当です。少し思い出していただけで」
 納得のいかない様子の石田は、しかし幸村の言葉に一つ息を吐いて頷いた。
「そうか」
 そして、その手が幸村の髪をかきまぜるようにして撫でた。
 それを見て、島も直江も一瞬目を疑ったが、その場では口にしなかった。
(ずいぶん気に入ったもんだな)
 昨日は嫌がっていたはずだ。彼を一人に部屋に置いてくるようなことまでした。その時は確かに、幸村をどちらかというと嫌悪していたような。そこまでではなくとも、少なくとも彼を本物だと信じていなかった。当然態度もここまで柔らかくはなかった。
 石田はとかく人見知りが激しい。さらに性格もきつい。だから友人も多くはない。自分から誰かに触ろうともしないし、触られるのも嫌がる。
 石田に何の躊躇いもなく取っ組み合いが出来るのは直江だけだし、彼の頭の上で本を読んでいられる(嫌がらせとして)のも島だけだ。
 その彼が、こうまであっさり他人に触れるとは。
 島はそれを不安に思い、直江はそれを喜んだ。
「ところで腹が減ったな」
 直江がその場の微妙な間を取り繕うように言った。いつもならば適当にファーストフードなりなんなりで済ませるのだが、今はそうもいかない。
「何か作れ」
 石田が面倒そうに言う。彼としては当然の成り行きなのだが、他人から見ればずいぶん偉そうなことこの上ない。
「おっまえな…。いや、そうだな。幸村の食べれるものを石田は作れんしなぁ!」
「うるさい!」
「いやあんたら二人ともうるさいです」
 大して広くもない部屋で、この時代を生きる三人は、あの時代の事など知るわけもない。
 
ただ、幸村だけが時折取り残されて、己の時代を思い出す。
 三成や、兼続や、左近や、他にも、たくさんの人がいた。
 何故自分だけがここにいるのか、どうしてここにいるのか。
 何を、するためにここに来たのか。
 わからなくて、ただ途方に暮れるのだ。

「…おい」
「はい」
 直江と島が帰った後も、何故だか落ち込んだ様子の幸村に、石田は困ったように呼びかけた。もちろん声音にそんな様子は微塵もない。どちらかといえば憮然としているようにすら聞こえる。
「本当に、大丈夫なのか」
「…身体の方は、もう」
「…いや、その…何か嫌なことでも思い出したのか?」
 石田の声に優しさのようなものを感じて、幸村はじんわりと微笑んだ。
 とても似ているが、違う人だ。
 あの人もこうしてよく心を砕いてくれた。優しい声音に、その人が何故あんなにも勘違いされているのか。それが理解できなくて悲しかった。
「似ている、と」
「…友人というやつにか?」
「…石田、三成殿と言います」
 石田はどこか気持ち悪そうに己の身体を見た。何が似ているというのかよくわからない。面差しや体つきか、それとも性格か。
「いつも、優しくしていただいておりました。よく心配をかけたものです」
 幸村が懐かしそうに笑う。その目が、自分を通り越して別のものを見ている。それを、やはり居心地良くは思えない。石田本人はそれ以上でも以下でもない。自分の生まれる前、四百年も前の人間など知ったことではないし、やはりそんな風に他人を透かして見られるのは、己を見ていないようで嫌だった。
 思わず、幸村の肩を強く掴む。
「…どうか、しましたか?」
「…い、いや…その」
 掴んだもののどうすればいいかわからず、石田は困惑気味に手を離そうとした。が、幸村の手が己の手に重ねられて、びくりと反応する。
「え」
「…手が、暖かいなと思いまして」
「…あ、あぁ?そ、そうか?」
 石田自身はどちらかといえば女みたいに手が冷たいとかよく言われる。
 しかし幸村が言ったのはそういう意味ではないのだろう。
 それは、「生きている」という意味での暖かい、だ。
「すいません。…少し、思い出してしまって」
「………」
 幸村の言葉に石田は黙るしか出来なかった。
 考えてみれば妙な体勢だ。対面に座る、その片方の腕が幸村の肩へ伸び、その指で肩を掴んでいる。その指を幸村が掴んで離さない。
 微妙な近さだった。
 しかもそれ以上幸村も何も言わない。
 その微妙な距離が、石田を緊張させた。思えばこんなに無条件に誰かの肩を掴もうなどと、普通はしない。
数日前に会ったという人物に対して、こんなにも無防備に近寄ろうなどとしない。
 そのはずなのに。
「…そんなに、似ているか?」
「……すいません。あまり、嬉しくないですよね」
 そう言って、ようやく幸村は石田の手を離した。石田は、自由になった手をそろそろと手元に戻す。
「なんて、呼んでいたんだ?」
「え?」
「俺とよく似た奴のことをだ」
 石田は視線を逸らして尋ねる。幸村はしばし逡巡したが、それに答えた。
「…三成殿、と」
 そう呼んだ声が、酷く甘く聞こえて石田は息を詰めた。
 そんな風に呼ぶ相手だったのか。自分によく似た人間を、そんな風に切ない声で呼ぶのか。
「…じゃあ、そう呼んでいい」
「え!?」
「…何か、あるんじゃないかと思っただけだ。おまえが真田幸村で、俺がおまえの友人に似ているっていうのは、きっと偶然とかではなくて、その」
 必死に早口でそう捲くし立てれば、幸村は呆けたように石田を見つめて、そして唐突に身体を動かした。飛びつくように石田に抱きついてくる。
 それを、真正面から、ややバランスを崩しながら受け止めると、石田は唇を噛み締めた。
「…みつなり、どの」
 そう小さな声で呼びかける幸村が。
(震えている…?)
 石田はどうすべきか悩んで、おそるおそる背に手をまわした。それから、その背を撫でながら、安心させるように軽く叩いてやる。
(…嫌だ、な)
 呼んでいいと言ったのは自分自身だ。あまりにも懐かしそうな、切なそうな声で呼ぶから、だからつい許してしまった。
 だけれども、そうすべきではなかった気がする。
(痛い)
「三成殿…」
 幸村の呼ぶ声が、痛い。
 なんでこんなに痛いのか、なんて考えなくてもわかった。
 自分よりずっと筋肉質な身体。肌を見れば傷だらけの、その男に抱きつかれて嫌悪の一つもわかない。
 自分でない誰かを呼ぶ声が、こんなに痛い。
 そう思うのは、そう感じるのは、全部この男のことが。
(特別、だからだ)





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