幸村の感情は素直に見える。石田のことを慕っているのはなんとなくわかった。ただそれが、島にも直江にも、別の人間に対するもので、石田自身に対するものでないことも、わかる。 昔はそういう風習もあったということだし、幸村が好いている相手が男なのは別段問題にしなかった。そもそも彼の感情が本当に恋愛事に通じているのか、よくわからなかったのだ。真田幸村という人を彼らがまだよく知らないためでもある。 しかし問題は。 「石田!」 明日から夏休みという日、呼び止めたのは直江だった。 石田は普段通り不機嫌そうだ。校舎内は人が多くて暑い。クーラーもないから、当然の話だった。 「少し話がある。いいか?」 「…涼しいところでなら聞いてやる」 「じゃあ図書室だな」 図書室は、クーラーが効いている。図書室や他にもホールなどがある棟は最近新しく作られた場所で、特別授業の際に使うことになっている。その棟のみクーラーが完備されている為、よくここでたむろする人間が多かった。 「で、なんだ」 「ああ、いや。幸村のことだが」 石田たちがこうして学校にいる間は、幸村は一人でいる。外には出ないように言われていた。彼らがいないと危なっかしいことこの上ない。それは直江も島も同感で、三人とも別にそれを過保護だとは特に考えていない。 「幸村がどうかしたのか」 「いや…その、あいつが来た目的とかは、何かわかったのか?」 「…わかるわけがないだろう。気がついたらここにいたと言われては」 何を今更、という風に肩を竦める石田に、直江は言葉を選んでもう一つ問うた。 「じゃあ、どうする気なんだ?」 「…は?」 「これからどうするつもりだ?幸村をずっとおまえが預かるのか?」 「…仕方、ないだろう?」 直江か何を言おうとしているのか、石田はうすうす感づきはじめているようだった。だが、指摘されたくないのだろう。自らその問いに導こうとはしない。 「おまえがその気なら、別にいいんだ。それはいい。ただ、な。おまえの気持ちを聞いておきたい」 「…俺の?」 「幸村を、好きだろう。おまえ」 「………ばかばかしい」 「そうか?おまえ、凄く辛そうだぞ。ちゃんと考えろ。あいつはこの時代の人間じゃない。今日帰ったら、もういないかもしれない。それにあいつは、おまえを通して誰かを見てる。いや、みんなに対してそうだ」 直江の言葉に、石田は頷いた。今更だ、とでも言うように。 「似ているんだそうだ」 「おまえ、それでいいのか」 「……別に…」 「よくないだろう、なぁ?よくないよな?」 図書室の最奥は、いわゆる辞典の類の並ぶところだ。よほど専門的なことを知りたい人間以外は、特に面白みのない背表紙ばかりが並ぶこの棚のあたりには誰も来ない。新棟につくられた図書室は無駄に広いから、多少声を上げても注意されることは少なかった。 「……幸村が、呼ぶ声が、な」 三成が、ぼそりと呟いた。 「痛い」 意味ははっきりとはわからなかった。が、何を言おうとしているのかはわかった。 「あんまり痛くて…だから、なら、いいかと思ったんだ。誰かの身代わりでもいいか、と」 だけどそれは日に日に痛みを増す。 自分は石田三成ではない。だから余計、痛い。 「…島はどう思っているか知らんが。少なくとも私は、おまえがあんなに幸村に無防備なのに驚いた。いい傾向じゃないかとも思ったさ。人あたりのきついおまえが、そんな風になるんだなとな」 直江の言葉に、石田は僅かにむっとしたがそれは言わなかった。 「だが、それはやはりよくない、と思う。わかっているか?おまえの気持ちは最初から、成就しない」 幸村は別の誰かを見ている。 幸村は、この時代に生きる人ではない。 「…知ってる」 知ってるさ、と笑う石田の表情の、その影が濃い。 誰だって好いた人間がいれば、その相手に振り回されるものだ。 そういう奴を、直江はたくさん知っている。よく相談もされる。誰だって真剣だ。他人が聞いたら馬鹿らしいくらい馬鹿な悩みだってたくさんある。 だけれども、どんな奴でも、それでも少しは希望があった。 だが石田にはあるのかわからなかった。 なんでそんな不器用なんだ、と、そう思う。なんでそんなに、不器用な恋しかできないのか。
「よう」 「島殿?お一人ですか」 部屋で大人しく待っている間、幸村は外を眺めてばかりいるようだ。 「外に猫がいませんでしたか。真っ黒の」 「さぁ、見かけなかったな」 そうですか、と幸村は外を気にしているようだった。猫の声が聞こえるのです、という幸村に、とりあえずとペットボトルの水を渡してやれば、ありがとうございます、と丁寧に返してきた。 そういうものを、冷蔵庫に入れたり、もしくは蓋を開けて飲むということも、覚えた。 「どうかしたのですか?」 「抜けられない用事があってな。たぶんしばらくすれば、二人して帰ってくる」 さてどうしたものかな、と島は彼がいつも座る定位置についた。 「…なぁ、あんたこれからどうするもりだ?」 「…これから、ですか」 「どうやって戻るのかとか、わからないんだろ」 「…そう、ですね」 気がついたらここにいたという幸村の話では、きっかけが何だったのか。わからないはずだ。 帰れるかどうかもわからない。 「戻らないとまずいだろうな」 「………」 「そうしないと、歴史が変わる」 「…歴史、が」 話の運びとしてはやや強引だったが、幸村は話題そのものを気にしているようだ。そのまま進めることにした。 「あんた前に、自分がどんな風に生きたかを知りたい、って言ったよな」 それは、幸村がこの部屋で目を醒ましたばかりの時のことだ。 とにかく揉めている彼らに、そんなにこの名は有名なのか、と尋ねた。 しかし誰も答えてはくれなかった。 そこまで有名なはずがない。自分はただの真田家の次男だ。 「今でも、知りたいか?」 島の言葉に幸村の表情が変わった。逡巡している。自分の運命がどんなものだったのか。それを知る。 「今日はその話をしに、ここに来た」 どれほど経った頃だったか。 ようやく幸村が口を開いた。 「教えて、ください」 そうだ。聞かせないといけない。何故かはわからないが、そうしなければいけない気がする。幸村は、ここにいていい人間ではない。元いた時代があり、彼はその時代を生き抜いた。その彼が、この平成の世にいていいはずがない。石田が幸村の頭を撫でた、その次の日から彼の様子が気になった。 石田に対して特別な感情でも持っていそうな目。だが、それは石田本人に向けられたものではなくて、己の生きた時代の人へ向けられたものだ。 だが、毎日が平和すぎて彼は戻らなくていいという気でいるように見えた。 「真田幸村は、な」 ぽつぽつと語り出した島の言葉に、幸村は静かに耳を傾けた。 最後まで。 どこかで、猫がニャア、と鳴いた。
直江とは近くで別れた。アパートを見上げれば部屋の明かりがついていない。幸村はどうしたのだろうか、と思うと途端に不安になった。 先程、図書室で直江が言った言葉が脳裏をよぎる。 「…ッ」 慌ててアスファルトを蹴った。そのまま階段を駆け上がる。ドアノブに手をかければ何故だか鍵はかかっておらず、開け放った扉の向こうには、誰もいなかった。 思わず、その場で力が抜けた。へたりこんで部屋の中をただ眺める。 誰もいない。 制服が汚れようがなんだろうが、気にしなかった。玄関にへたりこみ、もう動けない。 薄暗い部屋の中。朝までは確かに幸村がいて、部屋はどちらかといえば手狭だった。 なのに今感じる、この部屋の空虚な空間といったら。 どれだけそうしていたか知らない。 ふと、足音が聞こえた。 階段をのぼってくる足音。そして、猫の声。 どくり、と心臓が跳ねた。 猫は階段をのぼる主に抱かれているようだった。部屋の前までくると、突然猫は逃げ出したらしい。甲高い鳴き声を一つあげて、猫の軽快な足音が小さく聞こえた。それから、それに驚く知った声。 どくり、どくり、と鼓動が早まっている。 それから、ドアが開いた。そこには、石田が玄関でへたりこんでいて、まるで幽霊でも見たような顔で幸村を見上げている。 「…あ、みつなりどの…」 驚いたような声だった。 「………幸村」 「どうしたのですか。そんな場所では汚れます…もしや、具合でも…」 「…外に出るなと言ったはず、だ」 「すいません。猫の声がしていたので気になって」 「…かえったのかと、おもった」 「………」 石田はそう呟くと、ゆっくり立ち上がった。埃で制服は汚れたが、気にする余裕はどこにもなかった。立ち上がれば幸村との距離が酷く縮まる。 「…すいません。…みつなり、どの」 「……俺は!石田三成なんて奴じゃない!」 「―――はい…」 唐突に声を荒げても、幸村は驚かなかった。 石田が幸村を抱きしめても、動じない。 「俺は…っ」 「…もう、この夢も醒めるべき、なのでしょうね」 幸村の冷えた声に、石田は驚いたように身体を離した。 「私は、私の生きた時代に戻って、生きなくては」 「…何を」 「あんまりにも、優しくて、平穏で…甘えていました」 幸村の言葉が遠い。どこか遠くを見るような目で、しかし今までと違う、凛とした眼差し。 「帰る方法が…わからない、んだろう?」 「先程、わかりました」 「…ッ」 「誰かが私を呼ぶ声がするのです。私は、ただその声の呼ぶ方に、走ればいい」 「……戻るな!」 「駄目ですよ。それでは、歴史がかわってしまいます」 「そんなもの…!」 「よくないですよ。もし変わってしまったら、どうなるかわからないのですから。…私は、この平穏な時代を壊したくない」 幸村がそう言った瞬間だった。 突然部屋の中が一瞬明るくなった。続いて、ドン、という音。 打ち上げ花火だ。 そういえば、今日はどこか近くで花火大会がある。本来であればここで、島や直江とともに見る予定だった。 「…あれ、は…」 「花火だ。打ち上げ花火…」 ドン、という音のすぐ後にまた夜空に華が咲く。それは一瞬咲き誇る儚い華だ。幸村を解放してやると、今度はそれがよく見える窓へ歩み寄った。 「…凄い」 石田はそんな幸村のもとに歩み寄ると、クーラーをとめて窓を開いた。 むっとした空気とともに、よりリアルになった打ち上げ花火の音が鼓膜を震動させる。そのたびに、夜空に華が、美しく散る。 はじめて見るそれにすっかり心を奪われている幸村は、石田がどんな顔をしているか知らない。 戻る、と言い出した彼を、止められる術などなかった。 石田本人も、何も直江に言われずともわかっていたことなのだ。真田幸村がこの時代の人間でないことなど。 だけれども、このままずっとここにいるような気がしていた。 たとえ自分でない人の名を呼ぼうとも、幸村は自分に向けてそう呼ぶのだ。 それでいい。誰かの身代わりでも、いい。 そう思うのに。 だのに、戻るという。彼が生きた時代は戦国時代と呼ばれる。彼は、大きな戦に参加する。そして、討ち死にするのだ。 そんなことを、させたくない、と考えるのは間違っていないはずだ。 彼が切なげに呼ぶ「石田三成」も、きっと同じことを言う。 どうにか、止めたい。 どうにか、この気持ちを。 直江の言葉がよぎる。あまりにも、成就しない。そうだ。知っている。わかっている。だが、わかっていたとしてもそれでどうにかなるわけではない。 ただ、それだけのことだ。 石田は、そっと幸村を背中から抱きしめた。 「…何故、私はこの時代に来たのだろう、と思っていました」 幸村の淡々とした声が聞こえる。相変わらず彼の視線は花火に釘付けだ。 「…少しの平穏を、味わう為だったのか。それとも違うのか」 石田はそれにこたえられない。 「でも、私は…あなたに会えてよかったと、思っています」 「…帰るな」 何とか、いえたのはそれだけだった。ただ、自分の気持ちを何度も繰り返し繰り返し。それしか言えない。 「……申し訳、ございません」 そしてそれに対する答えも、決してかわりはしない。 石田は幸村を振り返らせた。花火は次第に間隔を短くして、多くの打ち上げ花火が夜空を彩る。 嫌がられる、とはなぜか思わなかった。そっと口付ければ、幸村は抵抗もせずにそれを受け入れた。それがまるで、餞別だ、とでも言うのか。 そんなこと、言わせるものか。帰るなんて、もう言わせない。そう思って幸村の歯列を割って、強引に深く口付ければ、幸村が小さく喘いだ。 (…ああ) どうやっても、駄目だ。 帰ってしまう。この男は自分の時代に戻る。呼ばれる声に振り向き、元の時代へ戻る。 こんなに、心臓が高鳴って、こんなに、ほしい、と思うのに。 「…ゆき、むら」 ようやく解放して、熱っぽく名を呼べば、幸村の頬が紅潮する。
「… 」
その時。 名を呼ばれた、と思った。 ただ、後になって考えれば、その時本当に名を呼んだのか、記憶が曖昧だった。幸村の肌に直に手を差し込み、傷のあたりをそっと撫でるように触れれば、くすぐったいのか逃げようと身じろぐ。 彼が着ているものを剥いで、今度は舌で。 そうしている間にも、やはり考えるのは一つしかなかった。 嫌だ。嫌だ。 そう考えるたびに、幸村が声にならないような声で名を呼ぶ。 ただその声が、三成を呼ぶものでないことだけはわかった。 帰ろうとしている。 だから、名を呼ぶ。 嬉しいのに、嬉しくない。 そうして、気がつけば花火大会はフィナーレが近いようだった。一際美しい打ち上げ花火に、夜空が明るくなる。 終わりが、近づいている。
「もう、いくのか」 島がそう言うと、幸村は赤の甲冑に身を包んで頷いた。 「さびしくなるな」 直江がそう言えば、幸村も頷く。 石田は何も言わなかった。 「いろいろ、良くしていただいて…ありがとうございました」 「…いや」 「私が生きた時代よりも四百年も先の世では、こんなに平穏な日々が送れるのですね。そう思えば…」 関が原で、西軍は負けた。島左近は関が原で討ち死に。その間に逃げ延びた石田三成も、たった一人、彷徨い続けた後に徳川軍の残党に見つかって、六条河原で処刑される。 上杉は、これを受けて伊達・最上領よりの壮絶な撤退をし、以降直江兼続は上杉家の為、東軍に。徳川方として戦う。 そして、真田幸村は。 「幸村」 石田が名を呼べば、幸村は何も言わずにこちらを見た。 何を言うべきかわからない。何を、どう言えばいいのか。 不用意に口を開けば、きっと「帰るな」とまた言ってしまう。それはもう、昨日の夜、幸村と肌を重ねた時に何度も言った。どんなにしても、幸村の意志はもう変わらない。 ならば、もう言うべきではない。 言葉に迷い、口を閉ざせば、幸村が笑った。 「…見ていてください」 「………」 「きっと、家康の首をとってまいりましょう」 「………ッ」 言葉に詰まった。 叫びたい。帰るな、戻るな、そんなさびしい時代に、戻る必要なんかない。歴史が変わったところで知ったことか。そう、何度も。 だが、そうはしなかった。幸村がその言葉を望まないことは、わかっている。 「勝て、よ。幸村」 「…はい!」 そうして。 幸村は彼にしか聞こえない声に向かって走り出した。 唐突に突風が吹きぬけて、その場にいた三人が、皆目を閉じた。 それは本当に一瞬のことで。 気がつけば幸村の姿はどこにもなかった。 「…いっちゃいましたねぇ」 しみじみと島が呟く。そうだな、と直江が頷く。 そして、動けないでいる石田の背を、両方から強く叩いた。 「何を…」 「泣いても、いいんだぞ」 もうどこにもいない。もう、会えない。 だからどれだけ泣いたところで、彼にその姿は見られることはない。 そう言う直江に、石田はいつものように笑って見せた。 ただ、何も言わなかった。
その後、夏休みが終わってまた学校が始まった頃。 図書室で、本を開いた石田はそこではじめて、涙を零した。 慶長二十年、五月七日。 真田幸村率いる真田隊は、大阪夏の陣で奮戦。 真田軍は越前松平勢を突破。徳川家康の本陣まで攻め込んだ。 家康は自害を覚悟したが、数の力に追い詰められ、戦死―――。 歴史は変わらなかった。彼がここにいた証拠は、もうどこにもない。 ただ、この胸の痛みだけが、彼がここにいたことを証明する。 (幸村) 夏休みの間中、歴史に関係する本を開くのが怖かった。 だから、終わるまで開かなかった。 だけれども、何も変わらなかった。 彼はどう思って死んでいったのか。 (…幸村) もう、わからない。 涙が、止まらなかった。 (ゆき、むら) 生きてほしかった。好きだった。もう二度と会えない。もう二度と、あの声を聞けない。もう、どこにもいない。もう、真田幸村は。 苦しい。 でも、たとえば。 彼が四百年後の世界のことを、思い出してくれればいい。 そっくりな奴が、また仲間内で笑いあっていたことを、少しでも思い出し、少しでも。 彼の、孤独が、癒せたなら、いい。
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