あなたのために、時を跳ぶ 1




 関が原にて、石田三成様敗北!

 上田でその言葉を聞いた時、目の前が真っ暗になった。
 何故、とかどうして、とか、そんな言葉が頭の中を駆け巡り、地面がぐにゃりと曲がったような感覚に陥った。視界が歪む。天は常に上にあるはずのもの。それが、曲線を描いて、たなびく雲をいびつに捻じ曲げ、地に足がついているのかもわからなくなって。

 何も言っていない。
 あの人に、何も言っていない。

 叶うものなら、誰か、この残酷すぎる時の流れを止めて、今のこの世界のように捻じ曲げて、そして。

 ずっと言えなかった、言いたかった、たった一つの言葉を。




 暑い。
 今日もまたうだるような暑さだ。日中、外に出るのは自殺行為だ。特にあのアスファルトがいけない。殺人的な照り返しを受けて、空気中に更なる熱を放出する。
 正直なところ、クーラーの効いたこの部屋を出るのは全く気がすすまない。
 とはいえ、定刻になれば奴が来るので、出ないわけにはいかない。
 放っておくと暑さを理由に自主休講とするこちらの目論見をすっかり看破して。まぁしかしそれが嫌なわけではないので、仕方なく引きずられてやってもいいかという気分になるのだけれど。
「…着替えるか」
 ぽつり。呟いた部屋にかえる声はない。一人で暮らしている狭い部屋は、それはそれは頭の痛くなるほど涼しい。
 彼が、重い腰をようやく浮かせた瞬間だった。
「おい!おい、開けてくれ!」
 奴だ。
 時間はいつもの通り。寸分の違いもない。相変わらずそれについては感心する。
 しかし今朝はどうも様子がおかしかった。
「…朝からうるさい。どうした?」
 ゆるゆるとドアを開けてやると、ムッとするような熱気と共に、親友が切羽詰った顔を覗かせる。
「人が倒れているんだ!」

 考えてみればそこで、まずすべきことは救急車を呼ぶことだった気がする。
 しかし二人はそうしなかった。倒れていた人の装束が、どこの時代劇から出てきたのかというような、赤く染め抜かれた甲冑姿だったからかもしれない。
 慌てて担ぎ込んで、ベッドに横たえた。その人は酷い汗と、どこでついたのかわからないくらいの泥がついていた。二人は顔を見合わせる。どこのコスプレだ、などと最初は毒づこうと思ったのだが、その鎧の細部を見るにつれ、コスプレとかそういう域は軽く越えている気がした。さらに、よくよく見れば無数にある鎧の傷。そして僅かに感じる、錆びた鉄のにおい。
「血のにおいがするな」
「……」
 倒れていたのは、熱中症のようなものだろうか。とにかくこの鎧を脱がせて、楽にしてやらなければならない。
 が、二人は甲冑などそもそもはじめて間近で見るものだったので、お互いなんとなく手が出せず、顔を見合わせた。
 テレビで見るような鎧の、そのままがそこにある。触れていいものかどうかもわからず、立ち尽くす。
 そうしていると、赤い鎧の男が身じろぎした。顔色は相変わらず白かったが、それは息を吹き込まれたように。
「…ぅ」
 一度寝返りを打ち、それからその目が。
 ゆっくりと開かれた。黒い瞳が、何もわからず周囲を見回す。そしておもむろに身体を起こす。その反動で、ベッドのスプリングがぎしりと軋んだ音を立てる。
 勢いの強さに、男は意識が反転しかけて呻いた。
「…大丈夫か」
 それにおそるおそる声をかける。すると、しばらく呻いて傾いていた男が何かに驚いたように息を呑んだ。
「みつなりどの…!?」
 何かに縋るような目だった。何かが棲み憑いているような目だった。
 呼ばれて、その目に吸い寄せられるように、動けなくなる。声も出せなかった。
「生きて…生きていたのですね…!よかった…!」
 そう言って、男は縋りつくように手を伸ばす。
 抱きつかれて、普段なら殴るなり何なりして逃げるだろうに、今はそれも出来なかった。彼の目が真剣に、誰かの生に喜んでいたからかもしれない。半端でなく強く抱きしめられていたからかもしれない。



 石田は石田だが名前は違ったし、直江は直江だったがこちらもまた名は違った。教えてやれば、男は何が起こったかわからない、という困惑した様子で二人を見比べる。
 その鎧の男の名は、「真田幸村」だった。
「…それは、戦国時代の武将の名前だな、わかりやすい嘘を…」
 石田は、その名にさすがに不機嫌になる。馬鹿にしているのかそれともなりきりなのか。
 しかし真田幸村と名乗ったこの男は、戸惑った様子で石田を見つめた。
「嘘、ではございません。私は真田幸村と申します」
 真っ向から否定されたことや、石田の視線の冷たさに、幸村と名乗った男は酷くうろたえている。真田幸村と言ったら石田たちでも知っている。戦国時代の終わり頃に活躍した武将の名前だ。
「…ここに来る前は何をしていたのだ」
 直江がそう尋ねると、幸村は何かを思い出して、くっと眉を顰めた。
「…私は、上田城にて父昌幸と共に徳川秀忠に対する示威篭城をし、勝利しました。…兼続殿は、越後にて家康を迎えうち、三成殿が西で挙兵し挟み撃ちにするという、作戦でした」
「……」
 直江はしばらく考える。あの後、石田だけでなく直江もご無事でよかった、と真剣な瞳で訴えかけられた。それがなりきりとか、そういうレベルで通用するようなものではなかったように思うのだ。
「どう思う」
「決定的なことはどうにも…。しかし、あまり嘘をついているようには思ええないが」
「フン、嘘に決まっている。真田幸村だと?有名な武将を名乗ってどうする気かは知らないが」
 二人がぼそぼそと話す言葉を、幸村はぼんやりと聞いていた。
 彼の視界にうつるもの、全てが目に馴染まない。
 自分が横たわっていた寝床も、妙にふわふわとしていて落ち着かない。妙な音をたてる何かが部屋の中にあるらしく、ゴオオ、と僅かな雑音が幸村の耳に障る。何もかもが、幸村の目に馴染まなかった。目の前にいる彼らそのものも、どこの軍の人間なのか。同じ装束ということは、同じ隊のものなのだろうか。どうやら自分の知る三成や兼続とは似ているが別人らしい。
 だとしたら、あの時聞いたあの報告はやはり本当なのだろうか。
「たしかに、真田幸村といったら有名な武将だが…」
「…私の名はさほどに有名でございますか」
「……」
「ここが、本当に、私の知る場所でなく、その…私が生きるよりもずっと先の世であるのならば、一つお聞きしてもよろしいですか」
「なんだ」
「私はどのように生き、死ぬか知っておられますか?」
 そんなもの、と口を開こうとして、しかし石田はほんの僅かの可能性に口を閉ざした。
 もし本当に本物の真田幸村だとしたら。
 絶対、違うと思うのだけれども。
 たとえば彼が今も身につけている赤い鎧。それについた無数の傷。あれの中には、刀傷のようなものがいくつもあった。そして紛れも無い血の臭いもする。
 しかしそれだけで彼を本物だと認められるほど、石田は他人に優しくなかった。
 だが、彼が本物であった場合、彼の未来を口にすることは許されるのか。
 それは直江も同じようだった。しばし逡巡した後、直江が石田のかわりに口を開く。
「…すまんが、知らないんだ」
「……そうですか。そうですよね、私がさほど有名であるはずがない」
 そうやって静かに微笑む彼に、二人は顔を見合わせた。
 どうすべきなのか。
 とにかく今厄介なものがここにある。それだけはわかる。しかし出ていけという気にはどうしてもならなかった。

「お二人さん、いますか?時間やばいですよ」

 シン、と静まり返った部屋の中に突如割って入ってきた男に、石田も直江も二人して救われたような気持ちになった。突破口が見つからずに黙りこくるしかなかっただけに、ありがたい。
「…左近殿」
「あ?なんですかそれ」
「…………真田幸村だそうだ」
「はい?」
 しかし割って入った方からすれば、何が何やらわからずとも、とりあえず面倒事に巻き込まれた、というたしかな予感だけを感じたのだった。


 左近に見えた男はやはりまた左近ではなかった。
 幸村はただ困惑するしかない。
 ここにいる三人が、三人とも幸村のよく知る人々だったのだ。
 石田三成と、直江兼続と、島左近。
 しかしそれぞれは似ていても別の名前だった。よく聞けば、そこは幸村の知る場所ではなかった。三人ともが同じ装束なのは、「がっこう」というところにいっていて、同じところにいるからで。
 よくわからなかったが、ともかくそこに自分だけがいないことはわかった。
 そして三人が三人とも、今日はその「がっこう」に行くのをとりあえず止めにした。
「…まぁなんですけど、とりあえずその格好、暑苦しいんで着替えてもらいたいんですけどね」
「…あ、そう…ですね。ここは戦場ではありませんし」
「……まぁこの時代の戦にその格好じゃ死ににいくようなもんですけど」
 着替えを手渡されて、幸村はまた困惑する。いつも着ているものとは違いすぎて、どうすればいいかよくわからない。
 それを最初に察したのは直江だった。
「ここに腕を通してここに頭を通すんだ」
「…あ、はい」
 三成の部屋にあった唯一の幸村にあいそうなサイズのTシャツを見つめて、幸村はようやくもたもたと鎧を脱ぎ始めた。
 そのたびにがしゃがしゃと音がして、鎧一つ一つの重さを三人にリアルに伝えてきた。
 そして、見えた素肌に三人が三人とも息を呑む。
 素肌に見える、傷。
「…それ」
 思わず無意識に石田が呟く。幸村が視線の先の傷に気がついて、微笑んだ。
「……ああ、長篠で…。鉄砲に」
 他にも刀の傷のようなものも見える。どれもこれも痛々しい傷跡が見えて、その場はすっかりのまれていた。
「すいません、見苦しいものを」
「いや。凄い傷だったから…な。一体どんな戦場を…」
「………語るような、話でもありません」
 幸村はどこかが痛むような顔で、その話題を終わらせた。その傷がついたときの戦の話はしたくないということだった。
「さて」
「ああ、そろそろ行くか」
「え?」
 直江と島が二人で立ち上がる。計ったようなタイミングに、石田と幸村が驚いたように顔を上げた。
「ちょっと待て二人とも。こいつをここに置いていくつもりか」
「おまえがいれば問題ないだろう。狭い部屋で男が四人も膝つきあわせて、暑苦しいだけだ」
「おい、連れてきたのはおまえだろう」
「しかしここは石田の部屋だろう。部屋の主をさしおいて、ここにいるわけにはいかない」
「そんなこと言って、おまえら逃げたいだけ…」
「頼んだぞ、終わったらまた来る」
「ああ、俺も。じゃあまた」
「おまえらぁぁぁぁ!!」
 口のうまい直江たちにまんまと置いていかれた形になった石田は、ぶつぶつと何事か呟きながら振り返った。
そこには、石田には大きいTシャツを着て、むしろ少しきつそうにしている幸村が、どことなく居心地が悪そうにしている。無理もない。今のやり取りから、どう見ても自分が歓迎されていないことくらいはわかるだろう。
 しまったな、と思ったものの、口にしてしまったことは取り返しがつかないし、実際厄介な状況だ。
 あの傷跡や、鎧を見た後では、彼が嘘をついているとは到底考えずらくはなっている。しかしかといって、彼があの戦国時代の真田幸村だ、と証明するものは何もない。
「…おい」
「は、はい」
「なんでおまえはここに来たんだ?」
「……わかりません」
 ただ、視界が歪んで、気がついたらここにいた。感じたのは空気の重さと地面の固さ、そして地平の見えない視界。
「ただ、気がついたらこの部屋に…いました」
「……」
「嫌な、報告を受けました。そんなはずはない、と思い…そうすると地面が歪んだ。倒れたのかもしれません。私には、受け入れがたい話だったので」
 訥々と語る幸村の声は、耳に心地いい。
 さほど広くもない質素な部屋の中、幸村は決して姿勢を崩さなかった。テレビで見る時代劇の人のように座り、話す。
「俺は、まだおまえが本物だとは思っていないからな」
「…どうすれば、よろしいですか?」
「知るか。俺は…ちょっと、出る」
「ど、どちらに?」
「どこだっていいだろう!」
「あ、はい、すいません…」
「……、冷蔵庫に、水が入っている。食べるものもあるから適当に何か食え。じゃあな」
「…お気をつけて」

 

 教室に殴りこんでまず最初にしたことは、あの二人を連行することだった。
 運良く授業が終わったばかりだったため、二人をつかまえるのには時間がかからなかった。
「おいてきたのか?」
 非難がましい直江の顔に、石田は双眸を眇めた。こわいこわい、と降参のポーズをとる直江に怒鳴る。
「あんなのと二人きりにされて、どうしろっていうんだ!」
 その声に、島がふむ、と肩をすくめる。
「まぁまぁ。ところであいつ、倒れてたんなら具合が悪いんじゃないのか?」
「…なに?」
「戻ったらまた倒れていたりしてな」
「…戻ったら、誰もいないに決まっている」

 

 残された幸村は、一人で部屋を見渡した。
 何につかうものなのかわからないものばかりだ。
 本当に、彼らが言うようにここは未来の世界というやつなのか。
 途方もない話に、幸村自身がさらに途方にくれていた。
 なぜこんなところにいるのか、ここに自分がいるのなら、あの時上田城にいるはずの自分はどこにいったのか。
三成が、本当に関が原で敗北したのか。
 兼続はどうしただろう。長谷堂城で家康を待ち伏せていたはず。あの挑発に、家康は乗らなかったということか。
「………みつなり、どの…」
 そんなこと。
 あるはずがない。
 しかし、あの時自分の耳はたしかにあの伝令の言葉を聞いたのだ。
 困ったように幸村はため息をつき、姿勢を崩した。自分以外の誰もいないのに、部屋の中からわずかな音がするのが気持ちが悪い。
 それはコチ、コチ、という音であったり、ゴオオ、という音であったりする。
 ふと幸村の手が何かに触れた。とたんにすぐ近くにあったものから音と、そして鮮やかな映像がうつしだされて、幸村が息を呑んだ。
 あれは人なのか。
 鮮やかすぎて目にまぶしい。一人のはずなのに、いつも誰かに見られているような気がする。息苦しい。ただ、その箱の中にいる人は、何が面白いのかもわからず笑っていた。
 ここが、笑える世なのか。




 
自分の部屋だというのに、なるべく音をたてずにそっとドアを開けた。
 暗い。が、テレビがついている。
「…お、い」
 電気はつけられていない。テレビは今は野球がやっていた。誰かがホームランでも打ったのか、応援団が騒がしく、アナウンサーたちの声が賑やかだ。
「……」
 寝ている。
 いなくなっていないことにどことなく安堵した。
 そして妙に疲れた顔で眠っていることに、不安になった。
「おい」
「…っ」
 電気をつけて、肩を揺らす。途端に眩しそうに目を細め、幸村は酷く安心した様子でわらった。
「…あ」
「大丈夫なのか」
「…はい」
 それから、困ったように幸村がうなだれた。
「あれを、消していただけませんか。消し方が…わからず」
 幸村が指をさした先にはテレビがあった。相変わらずホームランの馬鹿騒ぎの最中だ。スタンド席がうつされ、ファンたちがビニール傘を振り上げている。
「…あぁ」
「この部屋には誰かいるのですか?」
「誰か?」
「一人になったはずなのに、何か音がするのです。聞きなれぬ音で…」
「音…?」
 そう言われて耳を澄ます。が、それらしい音は聞こえない。何を言っているのだろうと思って、幸村の視界の向かう先を見つめる。そこには、時計の針が、正確に時を刻んでいた。
「時計か…」
 手にとって幸村の方に投げた。秒針が動くたびにコチ、コチ、と音がする。
「それだろう」
「…こ、これは…」
「時計だ。別段恐いものでもなんでもない」
「……」
 ふと、幸村の顔色が悪いのが気になった。
 そういえば部屋が冷えすぎるほど冷えている。
 夏の暑さに弱い石田は、いつも直江や島が嫌がるほどに部屋を冷やしている。そのままで出てきた。もしこの男が、クーラーの操作方法を知らないのであればそのままだったはずだ。
「…おい、大丈夫か」
 肩に触れれば驚くほど冷たかった。
 もしこの男が、本当に過去の人間なのだとしたら、人工的に冷やされたこの部屋の室温に身体がついていかなかったかもしれない。
 実際、そう考えさせるに十分な、冷えた身体だった。
「…寒かったか?」
 俺はいつもこんなもんだからな、と付け足すように呟くと、幸村は困ったように笑った。
 その笑顔に妙にむしゃくしゃして、ベッドの上から毛布を引っ張って幸村の身体の上に放り投げる。
「わっ…」
「かぶってろ」
「あ、はい。ありがとうございます…」
 テレビの電源はすでに消していて、石田も幸村も黙り込むともう何の音も聞こえない。気まずい沈黙だけが降りてきて、どうするべきか、石田は酷く困り果てた。こういう時直江や島なら適当な会話を探すだろう。あの二人は人当たりもいい。何故この男を預かるのが自分なのか、と思わず舌打ちをしたくなる。
「…腹、は減ったか」
「もしかしたら、そうかもしれません」
「…ならもっと早く言え。何もないぞ。適当にインスタントでも…」
 仏頂面でほとんど何も入っていない冷蔵庫を開けてみる。気の利いた料理の一つも作れるような状況ではない。そもそも入っているのは水やジュースの類と、それからレトルトのものばかりだ。
 たとえばこの男が本当に過去の人間で、だとしたらレトルトなんて食べさせていいのだろうか、とか、そもそも洋食で平気なのか、とか。
 気にしだせばいくらでも気になることはあった。
「…あの、あまり私のことは…」
「…おまえ、本当に顔色が悪いぞ」
「え」
 蛍光灯の色のせいか、とも思ったがそうではない。一人でいる間中ずっと、彼にとってはわけのわからない音に苛まれてきたのだとしたら、やつれていても当然のことだった。さらにこのクーラーの冷気が、彼の身体に害を及ぼしていたかもしれない。
 自然、手が伸びた。乱暴に額に手を当てて、しばし考える。
「熱があるんじゃないか」
「…混乱しているだけですから」
 だから大丈夫ですよ、と言おうとする幸村に腹がたって、今度こそ本格的に幸村に怒鳴りつけた。
「なら寝ておけ!」



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