雨が降ると思いだす記憶がある。雨が降ると、夢に見る景色がある。
倒れて動かない人。血の臭い。雨の臭い。
いつも見る夢だった。
まただ。
これが夢だと知っている。過去にあった記憶を、ただひたすらに繰り返すだけの夢。倒れている自分。手にしていた槍も、その手のひらからこぼれてぬかるんだ土の上にただ転がっている。
霞む視界の中。痛みのせいで意識を保っているような状態で、必死に槍に手を伸ばした。
あの時はじめて、「逃げねば」と思ったのだ。
戦う場から逃げる。力を出して敵と戦い刃を交えた上での撤退とは違う。 ただ、その場から、戦場から逃げなければ、と。
あの時に、一度自分は死んだ。
助けられた命も、果たして助けた人が、今の地位を捨てるほどの価値あるものかわからなかった。価値のあるものにするためには、何か―――信じられるものを見つけなければ。そう思っていたところに、兼続と三成に出会った。
力でねじ伏せられる戦。世はすでに天下の趨勢が決まりつつあるあの小田原で。
夢はいつも、繰り返される。そうして繰り返し見る戦場はきまって雨上がり、まだ灰色の雲が厚く空を覆っていた。土は雨でぬかるんでいる。最強の呼び声の高い騎馬隊。そして、まだ敵と切り結ぶにも至らないような場で次々と鉄砲の餌食となっていくその瞬間。
必ずそこから繰り返される。
幸村にとって、それは悪夢に他ならなかった。
「よぅ、幸村。兼続の奴知らねぇか?」
翌日。もう太陽も中天を超えたくらいの頃合いに、慶次が顔を出した。酒宴がどうなったかは知らないが、ザルとしか思えない慶次だ。おそらく最後まで呑んでいただろう。実際幸村のところに顔を出した慶次はこれでもかと酒のにおいを漂わせていた。
「兼続殿はお忙しい方ですし、もう出られたやもしれませんね」
「いや、そりゃねぇだろ。幸村に挨拶してねぇならまだそこらにいるんじゃないかねぇ…」
言われてそういえばそうかと納得した。
兼続の性格を考えれば、互いに城内にいるのだから、出る時は幸村と三成のところへは必ず顔を出すに違いない。しかしすでに昼もだいぶ過ぎた頃合いだ。城内にいるならばどこにいるのだろうか。考えられるのは、あとはせいぜい三成のところくらいだ。
「三成殿のところでは」
「あぁ…そうかもしれないねぇ。よし、いっちょうつきあってくれねぇかい」
「…三成殿のところですか?」
「あんたがいた方が機嫌がいいんだよ、あの御仁は」
「………」
酒くさい慶次が一人で三成のところへ顔を出して、いざそこに兼続がいなければ、三成は不機嫌になるだろう。さすがにそこらへんは、慶次も三成という人の人となりを理解しているようだ。
幸村がいればその不機嫌を多少は緩和出来るかもしれない、と慶次は考えているのだろう。
だが、幸村にしてみれば三成の隠していた感情を、慶次が気付いているのではと一瞬ひやりとする。
「昨晩はどちらが勝たれたのです?」
慶次の誘いを断らず、幸村は立ち上がった。並んで廊下を歩く。昨晩のことを尋ねれば、慶次は珍しく頭をかいて苦笑した。
「さぁてなぁ。実のところ覚えてねぇんだ」
「珍しいですね。慶次殿がそこまで酔われるとは」
「ああ、そうかもしれねぇなぁ。兼続も機嫌が良かったし」
「え?」
「ん?」
「兼続殿が?」
「ああ、そうだよ。一度出た後戻ってきてな。ずいぶん上機嫌で、俺たちの勝負に割って入ってきたぜ」
「な、なんと。用事があると仰っていたのですが…終わられてから、ということでしょうか」
「そうなんじゃねぇのか?」
用事がある、と言っていた。確かにそれで、兼続のかわりに向かった先には三成がいた。考えてみれば、兼続が仕組んだことだとも今ならばわかる。
そういえば久しぶりに三成と話せた。それ以上のこともあったが、行為がどう、というよりも三成の優しさが伝わってきた。話すことが出来てよかった。良かった、と思えるのも、兼続のおかげだ。
兼続と三成は互いをよく理解した親友同士だ。幸村に割って入ることのできないところもある。
「…兼続殿に、礼を言わねば」
「うん?」
「い、いえ」
しばらく歩いていれば、少し離れた廊下から兼続のよく通る声が聞こえてきた。どう考えても一人ではない。しかもその口調からして、十中八九三成と一緒なのがわかった。
「もういいから黙れ兼続…」
「何故だ!嬉しいなら嬉しいと声をあげるのが一番だぞ!」
兼続の機嫌の良さは相変わらずのようだ。その上、三成がげんなりしているのもわかる。慶次と幸村は互いに顔を見合わせた。二人はまだこちらが廊下にいることに気づいていないらしい。
「おう、兼続こんなとこにいたのかい」
慶次が声をかけ、続いて幸村も顔を出した。幸村からすれば、昨夜の行為のあとすぐのことだから、三成の顔を見るのが恥ずかしい。が、三成は幸村を視界に入れても特に反応を示さなかった。
「お、慶次!ずいぶん遅かったな!」
「酒臭いぞおまえら」
兼続も慶次も相当酒くさい。その上二人が部屋にいては余計だ。三成は実に正直に嫌悪を露わにした。
「はは、仕方ないねぇ。朝まで呑んでたしな」
「そうなのだ。昨日の酒は実に陽気で楽しいものだったのだぞ」
「そうかそれはよかったな。出ていけ」
三成は真顔でそう言うと、さっさと出ていけとばかりに手で追い払う素振りをした。慶次がこの部屋に来たのは兼続を探してのことだし、幸村もそれに付き従っただけだ。別段幸村がいようとも、三成の態度が軟化したようにも思えないが。
「何っ!友をないがしろにするとは不義だぞ三成!」
「酔っ払いのたわごとを聞く暇などない」
「ははは、相変らずだねぇ」
断固として部屋を出ようとしない兼続に、慶次はただ笑っているばかりでこれもまた出ていこうとしない。どうも兼続はもしかしたらまだ酔っているのではなかろうか。そんな気がする。
「か、兼続殿」
助け舟を出す気のない慶次に、幸村がようやく兼続に声をかけた。振り返った兼続は…慶次の後ろから見ているだけではわからなかったが、完全にまだ酔っ払った顔をしている。
「幸村!」
「は、はいっ」
その兼続に唐突に詰め寄られ、手をとられた。ごくごく至近距離で、兼続が容赦ないよく通る声で叫ぶ。
「この不義なる狐を改心させてやってくれ!」
「兼続!」
途端に、三成が身を乗り出した。兼続の頭を近くにあった書物で叩くと慶次へ鋭く視線を向ける。連れていけ、という無言の主張だ。慶次はわかったわかった、と肩を竦めて兼続を引きずるようにして連れていく。子猫が親猫に連れていかれるように首根っこ掴まれてずるずると引きずられていく様はなかなかの見ものだった。兼続は廊下を引きずられながらしばらく、幸村と三成の名を呼んで騒いでいた。それにかぶさるように、慶次が豪快に笑っている。
「…ずいぶん、酔ってらっしゃいましたね」
「先ほどまでここに来てまた呑んでいたからな」
「…ま、まだ陽も高いというのに」
正直兼続がそんな風に羽目を外すのは珍しい。一体何故、と三成に問えば、三成はちらりと幸村を見て言った。
「祝いの酒だそうだ」
「…祝い」
何の?と問おうとして、口をつぐんだ。兼続が昨夜のことを仕組んだのだとしたら、翌日三成のところへ来てこうして祝い酒を呑もうというのはどういう意味か。
「先走るなと言っても聞かん」
やれやれといった様子で三成は文机の上に残された盃を片づけようとして、ふと顔を上げた。
「幸村」
「は、はい」
「呑むか?」
良いことを思いついた、とばかりの表情に、幸村が少しばかり驚く。差し出された盃を前に、断ろうとして―――三成もそれを察したのだろう。口を開いた。
「昨日は、ほとんど呑んでいなかっただろう」
「…それは、その…そういう気分でなかったというだけですので」
「今はどうなのだ」
「…それは…昨日よりは、もちろん…ただ、今はまだ」
「気にするな」
「しかし」
珍しく強引な三成にどことなく違和感を覚える。差し出された盃を、仕方なしに受け取れば、座れと短く促され、盃を受け取った以上それを拒むこともできずに言われるままに座った。
「三成殿」
「言い訳は何とでもなる。兼続に無理やり呑まされた。それでいいだろう」
「…これは、三成殿。兼続殿が言う通り不義ではありませんか」
「酒を持ってきたのはあいつだ。昼から酒を呑む不義を最初にやったのは兼続だ」
三成の言葉は彼らしくなかった。不機嫌なのかと思えばそうでもないようだ。饒舌なのが、三成が不機嫌でないのを表している。
そう気付いたら、注がれた酒を断ることも出来ない。幸村は静かに酒を飲みほした。そうすれば、すぐにまた酒が注がれる。
残っていた酒を幸村一人に呑ませようというのだろうか。そう思ったが違うようで、少しずつではあったが三成も呑んでいた。
政務が忙しいのではないのかと思ったが、それを口にするのはやめた。
「変な気分ですね」
「そうだな」
まだ陽が高い。なのにこうして酒を酌み交わすというのもあまりないことだ。しかも戦の前というわけでもない。
そしてもう一つ。
昨日のことなど忘れたように、三成は以前のままだった。関係がぎくしゃくする前のように、普通に、気負う必要もなく話している気がする。
実際のところ、大雨に降られた日以来三成と言葉を交わすのには気力が必要だった。女を抱くように幸村にもそう思っていると言われて驚かなかったはずもない。
驚いたあまり、変なことも言った。
ただ、あの時言ったことは全てが自棄の上で出た言葉ではない。幸村にとっては本当のことだっていくつかあった。最も本心そのままだったのは、三成にそんな風に想ってもらえる価値などない、ということだ。
女のように柔らかい身体もしていない。兼続のように三成と対等に論議を交わすことも出来ない。武でもってしか三成の役には立てない。これは今も思っているそのままのことだ。
「幸村」
「は、はい」
「昨日は眠れたか」
唐突な問いに、幸村は生返事ではい、と答えた。無論それが適当なものだったことはすぐに伝わっただろう。こういう時の三成の鋭い視線は威力があって、とても黙っていられなくなる。
「あ、いえ…その、あまり…」
「そうか」
だが、そんな状態でも眠りは訪れた。そして朝、久しぶりに見たのは雨の記憶だった。雨の記憶と直結して、それは思い出される―――敗戦の記憶だ。
昨夜は結局雨は降らなかった。昨日の厚い雲はどこかへ追いやられて、今日は清々しい空模様だ。
そういう日に、あの雨の陽の記憶を遡って夢を見るのは珍しいことだった。
「眠くなったら、ここで寝ていけばどうだ」
「いえ、大丈夫です」
「…まぁ、酒はまだある」
そう言って注いでくる酒を、幸村は律儀に受け続けた。三成は幸村を酔い潰そうとしているわけではないようだし、裏も感じられない。ただ思いついたから酒を酌み交わし、眠いなら寝ていけと言っているようだった。
たしかにあまり眠れていないからか、少しだけ身体はだるい。だが、それも指摘されなければ気付かないくらいだ。
「…三成殿は」
たぶん、あの夢を見たせいだ。
「なんだ」
「…その、怖いと思うことは、ありますか?」
「…怖いこと…」
「はい」
幸村にとって雨の日の記憶と、あの敗戦と、そして恐怖は全て繋がっている。雨を見て恐怖を感じるというほどでもないが、それは鎖のようにつながって自分の記憶を引き出す。だから雨はあまり好きではない。
「…俺はあまり戦が得意ではない」
「………」
「本陣にいて、前線の伝令を聞くのが、怖い」
「………」
「戦は大きな流れ…川のようなものだ。流れ出せば止まらない。氾濫するのを防げるかどうかは、皆の働きで決まる。皆が一人の…大将の為に働けば、天下太平も近くに来るだろうが…」
三成の視線は幸村を通り越してどこか遠くを見ているような気がした。知らず、口を開いた。
「私が」
考える前に話していた。
「私が…その不安、取り除いてみせます」
「…幸村」
三成は驚いていた。だがそれもつかの間で、三成が酷く優しい笑顔を浮かべる。
「ああ、…頼りにしている。幸村」
「はい…!」
ぐ、と酒を煽った。三成が酒を注ぐのでまた呑んだ。
そうして、気がつけば眠っていた。雨のにおい。戦場の気配。ここのことを知っている。長篠―――。
ああまた夢を見ている。そう思った幸村は、それでも繰り返された今までと同じように、鉄砲隊の攻撃にさらされて落馬してぬかるんだ地に転がった。痛みも、あの時と同じように覚えている。
「次の…発砲までに…」
逃げねば。それもいつもと同じだ。繰り返し見る夢は、過去の出来事をただ忠実になぞるだけなのだ。
そうして。
慶次に命を助けられる。
「生きようぜ、幸村!」
怪我を負い、武田を失うかもしれないという敗北の焦燥に追いやられた自分とはあまりに違う慶次の迷いのない声。
いつもは見送るしか出来なかった幸村は、違っていた。
「―――はい…!」
「いい返事だ!」
慶次が笑う。幸村は前を、ただまっすぐ見つめた。
大丈夫だ。これは夢だとわかっている。自分は生きて、生き伸びて、この夢の先にいる人に逢いたい。
あなたの不安は私が取り除く。あなたのことは私が守る。あなたの想いも、望む未来も。
「…三成殿!」
夢の中、空に太陽がさしかかり、視界が開けた。その先に、茜色の明るい髪の人がいた。
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