育花雨ころに。 6





 それからしばらくして、秀吉が大々的に催した宴があった。
 ここのところ続く大雨で、病になる者が多いと言う。それを嫌った秀吉の大盤振る舞いでの宴となった。
 そうなれば、三成の忙しさは普段とは段違いとなる。
 そして当然、その宴には幸村も呼ばれていた。もともと、秀吉やねねからは覚えのめでたい幸村のこと、呼ばれないはずもない。
 大勢の人間が来る宴だ。忙しさを理由にして幸村と距離をとるのは難しいことではないだろう。だが、距離をとりたいだけではない。本当は、話をしたい。だがうまく話せる気はしない。ただでさえ、自分は言葉で敵を作りやすい。左近にも、兼続にも言われたことだ。
 だから、この状態で幸村と話したとしても、うまく話すことも出来ない。
「しかし宴好きだな、秀吉公は」
 やれやれといった様子で兼続が肩を竦めた。それは三成も思うことだ。宴を催すことの大切さについては、秀吉から聞かされている。とはいえ、単純に秀吉の性格も関係しているのは明確。たとえそれが大切だとわかっていても、三成にはあまり出来ないことだ。
「幸村も来ているぞ。逢っていけ」
「……いや、」
 耳打ちされた内容は予想できる内容だった。この宴こそ、まさに兼続が望んだまたとない機会だろう。それは、三成だとてそうだ。本当のところは幸村に逢いたくてたまらないのだ。だけれども、あの雨の日のことがあるから怖い。
「尻込みしている場合でもなかろう。このままいつまで幸村と接触しないでいられると思う」
「………」
「幸村には私から誘い出す。いいな?」
「…し、しかし」
 思わず口篭もれば、兼続は首を振った。三成の言うことなど聞いてやらないという意味だ。
「場はあの桜の木にするか。花も散った今ならば、わざわざあそこへ出向く者も少なかろう」
「…兼続」
「いいな?私が誘ったら、必ず宴から抜け出せよ。後は私が何とかしてやる!」
 威勢よく背を叩かれて、三成は数歩つんのめった。ここしばらく働き通しで疲れているせいか、一瞬眩暈すら感じた。こんな状態で幸村とまともに話せる気がしない。が、そう言おうとしたところですでに兼続は慶次を連れてその場を後にしていた。
「殿は良いお友達をお持ちですなぁ」
 その入れ替わりに、左近がやってきた。こちらの了承も得ずにほぼ無理やりで何が、とは思ったが、兼続がそうするのはそうでもしなければ発展しないことをわかっているからだ。
「……お節介なだけだろう」
「殿にはそれっくらいがいいってことですよ」
 左近の言葉に、三成は何も言えなかった。実際、これからどうなるかわからないが、少なくとも幸村と話す機会は出来た。
 その先、どうなるのか何もわからないけれど。

 酒宴は、秀吉のもと実に賑やかなものになった。無礼講となった酒宴にはひっきりなしに酒が運びこまれ、次から次へと招かれた者たちが一芸を披露していく。このまま朝まで呑む気かもしれないとねねが先に酒宴を後にした。それに従った者もいた。とはいえ酒に強い者たちにとってはまだまだこれから、という勢いである。
 三成はそれらを確認していた。酒はほとんど呑んでいない。兼続が言ったことが気になって仕方がなかったからだ。
「幸村、呑んでいるか?」
 そんな中、やや足取りのあやしい兼続が幸村のもとへ、酒を持って歩み寄った。兼続の言葉に、幸村ははい、と頷いた。そのわりに盃が重ねられている気配もしない。もともと幸村は酒に強い性質ではあるが、これはほぼ呑んでいないに等しいだろう。
「私は所用あってそろそろ席を外したいのだ。とはいえ慶次があの調子ではうまく抜け出せん。幸村、手を貸してくれぬか」
 見れば確かに慶次は秀吉と差向いで呑んでいる。どうやらどちらが先に潰れるかという勝負に発展している様子で、二人ともまだまだ倒れる気配がない。そして幸村には、兼続の頼みを断るという選択肢もない。あの時の言葉が嘘でなければ、幸村は兼続や三成の頼みを断れるわけがなかった。
「わかりました」
 頷いた幸村を見て、三成は誰にも気付かれぬように席を外した。この宴の中で、三成の行く先を気にする者もほとんどいない。つくづく自分はこういう酒の場に向いていないのだと認識しつつ、しかし今は都合が良かった。
 背後で、幸村が慶次たちに兼続と共に場を離れることを告げている。向こうは多少あの場を離れるのに時間がかかるだろう。
 もう花の散った桜の下。
 それが、兼続に指定された場だった。城の庭に咲くここは、春ともなれば人の来ることの多い場だったが、こうして花の見ごろが終わってしまえばほとんど人の目に触れることのない場所だ。
 大阪城は人が多い。その中で、こうして人気の少ない場所は実に珍しいことだった。
 幸村に逢って、まず何と言おうか。兼続と共謀したことを謝るべきだろうか。それとも、幸村に無理やり過去の話をさせたことを謝るべきか。それとも。
 己の感情に対して、謝るべきだろうか。
 他はどうあれ、最後はどうにもならない。謝罪したところで気持ちは変わらない。
 あんなことがあっても、幸村を想う気持ちはかわらなかった。抱きたい、と思う気持ちが抱けない、に変わったくらいだ。
 本当に、どうしようもない。

「…そこにいるのは…」

 そうして苦笑していれば予想より早く、ひとの声がした。幸村だ。花が咲いていれば桜の白が木の下にいる人を浮き上がらせたろうが、今は残念ながら桜はもう花を散らせた後だ。
「幸村」
「…み、三成殿…」
 声をかければ、幸村が動揺しているのが伝わってきた。何も聞かずにここまで来たのだろうから、当然だ。
「…その、すまん」
「兼続殿が、私にかわって人に会ってほしいなどと言われるのでどなたかと思ったのですが…」
「………」
 幸村はそれ以上距離を詰めるべきか悩んでいるようだった。普段ならば気にも留めないで近寄ってくる距離だ。酷く不自然な距離だった。
 三成も三成で、距離を詰めることが出来ない。声をひそめるには多少遠い距離。そこで二人は二人とも、動けなくなっていた。
「……三成殿」
「な、なんだ」
 何と言うべきかわからないままでいれば、先に幸村が口を開いた。
「…あの時は、申し訳ありませんでした」
「…何故幸村が謝る」
「……混乱していたのです。ですから、おかしなことを口走りました」
 抱いてみせろというあれだろう。確かにその科白を聞いた時には、幸村が自棄になっているとしか思えなかった。自棄にさせたのは、己の言葉のせいだろうが。
 空に浮かんでいるはずの月は、相変らずのどんよりした雲に隠れていた。おかげで、城から漏れる光くらいでしか互いの輪郭をつかむことが出来ない。互いがどんな顔をしているかは、全くわからない。三成にはその方が都合が良かった。幸村の表情を見ないで済む。それと同時に、幸村にもこちらの表情を窺われずに済む。
「……いや、俺が…」
「三成殿は…あれが本心ですか」
「……そうだ。…だが、もういい。俺の気持ちなど、忘れてくれ」
 そうだ。もういい。そもそもが報われるべき感情ではない。わかっていたのだ。少し欲を出した。もともとわかっていたことなのだから。
「…忘れてしまえるものですか?」
「―――…」
「少なくとも、私はずっと考えていました」
 幸村の言葉に動揺した。忘れてくれと言ったものの、そう簡単に忘れることなど出来ない。それは、幸村も、自分も。
「…幸村」
「どうすればいいのかわからないのです」
「……」
「三成殿のことを、嫌うわけでもない。忘れることも出来ない。しかし三成殿は忘れろと言う」
 幸村は、少し困ったように笑った。あの雨の日からだいぶ日は経っている。三成があの時のことを忘れられずにずっと悔やんでいたのと同じように、幸村にも苦しませていたのだとしたら、それこそ言ってしまった事をただひたすら後悔するしかなかった。
「すまん」
 胸が痛んだ。
 友だと認めあった瞬間は確かにあった。友として何の気負いなく話せていたことも。なのにいつからこうなってしまったのか。
「……すまん」
「…何故謝られるのですか」
「俺が…」
「人が人を想うことは、謝らねばならないことではないはずです」
「…そうだとしても、俺のこの感情は」
 捨てなければ。
 そう言おうとして、言えなかった。実際幸村を前にして、そんなことは出来ないと思う。だがそうしなければ。
 少なくとも、今そう言わなければ。
 三成は何とか口を開こうとした。普段、こんなに必死になって何かを語ろうとすることなどほとんどない。必要ないと思えば語らず、言って然るべきと思えばいつでも言葉は出てきた。辛辣な言葉であることが多かったけれど、それはほとんど自分の見たまま感じたままの感情で、それが棘になろうが知ったことではなかった。
 しかし今、ここでどう言葉にするべきか。
 思っている通り、もうこの感情は捨てるから、と言えばいい。だけど言えない。言ったとしても捨てられないのもわかっている。
「三成殿」
 今が夜で、ここが桜がなくただ暗いばかりでよかった。今日は月も雲に隠れている。よほど近くに寄らなければ、こちらの顔など見られない。そう思っていた三成だったが、不意に幸村が一歩、こちらへ歩み寄ってきた。桜の木にもたれる形だった三成の背が、木の幹とぶつかった。
「…私はずっと考えていました。あの雨の日からずっと」
「…幸村」
「驚きました。本当に、とても」
「………」
「私は、ずっと…武田を失ってから、あの長篠で己の拠り所を見失っていました。そして新たな拠り所をずっと探していた」
 幸村の真意がわからない。あの雨の日と同じだ。次に何を言われるかわからない。そんなこと、普段の三成にはあまりないことだ。大抵、次は何を言われるか―――少し考えればわかるのに。
 追い詰められている気分だった。
「……」
「そうして、見つけたのが三成殿と兼続殿でした」
「幸村…」
 幸村は視線を外さない。暗闇の中、光は城の中から漏れてくるわずかなものだけだ。月も隠れている。だというのに、幸村の視線が、まっすぐ自分に向いているのがわかった。幸村の声が、まっすぐにこちらに届く。俯いている時の声ではない。
「私は、そうやって逃げようとしていた。楽をしようとしていた。そんな風に、友だと言ってくれたお二人を利用していた。だから、三成殿が望むなら、この身体など、と思いました」
「……っ」
「だからあの時、そう言ったのです。ですが忘れてくれと三成殿は言われた」
 そうして何もないまま、雨が止むのをただ待った。
 あの時、忘れてくれと言ってから二人は二人とも、何も話すことは出来なかった。無言のまま雨が止むのを待ち、無言のまま城へ戻った。視線を交わすこともなく。
「その時に、このままではいけないと思ったのです。私は…もっとちゃんと、三成殿に、向き合わねば…」
 なんでだろう。
 どうして幸村は、こんな風にこの劣情に向き合おうとしている?もっと、嫌悪を示すことだって出来たはずだ。そうされても何も言えない感情だ。相手は友だ。義を誓いあった…。
「幸村がそんな風に責任を感じる必要は…っ」
「ですから」
「……」
「逃げません」
 じゃり、と土を踏む音がした。幸村がゆっくり近寄ってくる。逃げない、と言って近づいてくる。それがどういう意味なのか。今度こそ理解して言っているとわかった。
 駄目だ。酷く追い詰められている気がする。首をとられるのはこんな気分なのかもしれない。駄目だ。勝てない。そこから逃げられない。
「ゆき、」
「私は、三成殿の感情と真正面から向かい合いたい」
「……それ、は」
 息も絶え絶えになっているような気がした。先ほどから、うまく言葉を紡げない。最後まできちんと話せない。尻切れになっている言葉の先を、幸村がいつも掬いあげる。
「あの時は確かに、自棄だったかもしれません。私は三成殿を利用していた。だから三成殿もそうすればいいと思ったのです。わからない、と言いながら」
 なんでだろう。どうしてこんな風にまっすぐに。
 あの雨の日以上に驚いていた。驚くというよりも、言葉に出来ない感情がぐるぐると渦を巻く。期待させないでほしい。期待させてほしい。望む言葉を待っていいのか。そんなことあるわけがない。それの繰り返し。
「幸村!」
 ついに手を伸ばせば触れられる距離にまで、幸村に間を詰められた。それ以上を防ぎたい一心で、幸村の腕を強く掴む。触れた腕は熱くて、また眩暈がした。
「…はい」
「なんで…」
「…三成殿のご様子は、兼続殿から幾度かお聞きしました。あの雨の日以来、ずっと悩んでいると」
「……っ」
 そういえば兼続には自分の気持ちをぶちまけたのだ。その時に兼続は言っていた。『おまえの味方をしてやれる』と。それがどんな意味だったかはわからない。兼続と幸村との間で、どんな会話が成されていたかもわからない。
「三成殿は真正面から私に向き合ってくださっている。ならば私もそうしなければあまりにも…三成殿にあわす顔がない」
「…幸村は…」
 それは、自分の言葉なのか。幸村が自身で考えて、自身で導き出した答えなのか。兼続に言われたからとも違う、本当に…。
「私は、武でしか三成殿のお役に立てない。それは今も思っています。兼続殿のように、左近殿のように、三成殿のお役には立てない」
「……」
「どうにもならないわが身の不自由さに嘆くより、知りたいのです。三成殿が、どうして私をそう好いて下さるのか」
 とられた腕を、幸村がもう一方の手で包むように触れてきた。
 そこでようやく気付いた。幸村の指先が、熱いと感じた腕の、その指先が冷えていることに。自分が言ったことに対して、これからどうなるかと理解して緊張しているのが伝わってきた。
「…馬鹿、だな。幸村は」
 それでも、この感情を真正面から受け止めてみたいと言う。馬鹿以外に表しようがない。
「はい」
 しかし馬鹿と言われても、幸村は機嫌を損ねる様子はなかった。
「俺と真正面に向きあったりなどしたら、きっと後悔する」
「何もしないより、する後悔の方が良いです」
「だからといって…」
 苦笑するしかない。こんなに指先が冷えて、緊張しているくせに視線はまっすぐ逸らされない。まるで戦に向かうようだ。幸村がそう来るなら、こちらもそのつもりでいかなければいけない。
「愚かとでも何とでも」
「…真っ直ぐに過ぎる」
 その冷えた指先に、おそるおそる口付けた。
 相変わらず、空には雲が覆っていて、月が顔を出す気配はなかった。





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お題ものです。「雨だれ 十題」より「忘れられた雨傘」
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