育花雨ころに。 5




 幸村が口を開いた瞬間、三成はどうしようもないほどの罪悪感にかられた。
 雨はさらに激しく降り続けていて、戸板を叩くような雨音が聞こえてくる。古い小屋ではあちこちで雨が漏っていた。だがそれも気にならないほど、三成は幸村を、ただじっと見つめていた。
 辛い話をさせている。それを知っているから、視線を逸らすことは出来なかった。
「完全な負け戦で…私は他の皆がそうだったように、地に倒れて」
 幸村の語りはゆっくりとしていた。それは、幸村があまりこの事を思い出したくないのだと知るに十分で。
 知りたいと思った。だから無理に聞きだそうとした。それ自体も卑怯なやり方だと思う。その上、語りだすに至って罪悪感に苛まれてしまってはどうしようもない。だが、それをやめろと止めることも出来ない。
「その戦が、雨が上がった後、すぐだったので…。あの重苦しい雲を見ているだけで、あの時のことを思い出します」
「…幸村…」
「…それだけ、です」
 その戦とは、おそらく長篠での合戦のことだろう。あの精強な騎馬隊を持っていた武田が、織田の鉄砲隊の前にあっさりと敗北した戦だった。秀吉からその頃の話を聞くにつけ、織田信長という人の恐ろしさを感じたものだった。三成にとって、その戦はただそれだけの話だった。だが幸村にとってそれは、ぬぐいきれない敗北の記憶。その恐ろしさをまさに肌で感じたのだ。
「すまぬ」
「…いえ。ただ…あの時に、感じたのです。私は何も出来ぬ、と」
 徹底的な敗北をその身で体験した。どうにもならない負け戦に、ばたばたと倒れていく武田軍の兵。それらを見て、幸村は雨の日を暗い目で見るようになった。
―――何とかしてやりたい。何とか、幸村を。
「…その私に、三成殿は…きっと、夢を見すぎているのでしょう」
 三成の内心とはうらはらに、幸村は苦い表情でそう言った。
 夢を見ているだけだ、と。
 そう言った幸村の表情は、暗い。いつも太陽の光を浴びて笑っている幸村からは想像もつかない闇だ。
 ああ、なんとか出来たらいい。自分のこの手で、幸村を救えたらいい。
「…それは違う」
「…私は何もできませぬ。兵一人の力では、三成殿の役には」
「役に立つから幸村を好いたわけではない!」
「…っ」
「損得などこの感情には関係ない…!俺は、ただ…っ」
 ただ、特別に想っているのだ、と。
 しかしそこで言い淀んだ三成に、幸村は暗い表情のまま顔を上げた。生々しい視線だった。
「―――…ならば、本当に出来るのですか?」
「何?」
「私を、…抱くことが出来るのですか?」
「…っ、じ、自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
 そんな反応が返ってくるとは思いもよらなかった。幸村の反応はどう見ても自棄にしか見えない。冗談にしても性質が悪い。三成は己の気持ちをきちんと伝えているのだから。
「はい」
「…自棄はやめろ」
 何故こんなことを言いだすのか。三成には幸村の考えていることがわからない。どうして。一体何故。…何故だか、嫌な予感がした。
「…どうしても、わからぬのです」
「……」
 幸村の声は静かだ。落ち付いている。雨の音にかき消されそうなほど、静かな声だ。
「私は三成殿の言うことを信じて良いのですか?」
「…どういう、意味だ」
「私は…三成殿を信じたい」
「…幸村…?」
 どういう意味だ。
 わからずに、三成は困惑した。信じたい?
「……俺は…嘘は、つかん」
「…はい」
 幸村は。
 いつだったか左近が言っていた。幸村は信玄を尊敬していた。今も生きていたら、出会いは違うものだっただろうし、幸村への第一印象だって違ったに違いない。それくらい、武田の時代の幸村は明るくて元気だった。
「信じることが出来れば、この身体など三成殿に…」
 幸村は。
 その頃のように、無条件に信じられる相手を探している。
 盲信出来る相手を探している。
 武田なき今、幸村はずっとその相手を探していた。だから。
(…だから、俺を?)
 そしてその白羽の矢がたったのが三成だった、と。
 ならば信じる相手が求めるならどんなことでもやったと言うのだろうか。考えたくもない話だが、たとえば信玄がそれを望んだら、そうしたのか。
 眩暈がした。
 幸村は、抱きたいと言えば己の身体を差し出すと言っている。信じる相手だから、と。
 だがそれは、三成の望む形ではない。幸村を抱いたとしても、それはあまりにも一方通行の感情だ。こちらが欲しいと言っているのは、盲信の結果の供物とは違うのだ。
「……」
 そんなものはほしくない。
 あんなにも、夢に見るほど幸村を抱きたいと思っていたというのに、まるで熱が冷めたようだった。
 いや、本当は抱きたい気持ちに変わりはない。だが、そうしたところで意味がないと気付いた以上、どうすることも出来ないだけだ。
―――痛い。
 もともと、かなうべくもない望みだった。知っている。ならば墓まで持っていけばよかった。ついその場に流されて口走ってしまった。独占欲の果てに、幸村に言いたくなかっただろう過去を思い出させた。
 これがその報いか。
「三成殿?」
「……」
 虚しい。
 欲しいと思ったのが間違いだった。
 友の立場を崩さなければよかった。
「…すまぬ、幸村。忘れてくれ」
 ただ。
 こんな風に幸村の求めるものを知った今でも、この感情は変わらない。
 望む形があまりにも違いすぎて、抱きたいなどと言えない。それを言ったら最後、幸村は従うのだろうから。
 それくらいだったら、怖がられて嫌悪されて、その方が余程いい。
 雨は相変わらず雨足を緩める気配がなかった。もういっそこの雨の中を駆けだしてしまおうか。幸村を一人にして、ここから走って逃げだしてしまえばいいのだろうか。
「………しばらく、逢わぬ」
「………」
 そうしないと、自分の感情を制御出来る気がしなかった。
 だから、自分に言い聞かせるようにそう言った。逢いに来てもしばらくは顔も見られない。幸村は、何も言わなかった。


 それから一月あまり、本当に幸村とは顔を合わせずに日々を過ごした。
 少し手を加えれば、政務は山ほどある。それに没頭すれば、どれほど逢わずにいても寂しいとか逢いたいとか、そんな生易しい気持ちは浮かんでこない。
 疲れきってしまえば、夢も見ない。
 だから三成は、日々をそうして過ごした。幸村がどうしているかは、一切聞かないようにした。左近などはひっきりなしに幸村のことを語ろうとしていたが、全て忙しい、と後に回してきた。
 それでいい。
 だから兼続が何の用事もなしに屋敷に訪れた時には、三成はすっかり疲れた顔をしていた。取り繕うのも面倒だった。それに、兼続だったらいいか、という感情もあった。
「おお、これは幽霊もかくやという顔色だな」
「…兼続」
「大丈夫か」
 こちらの深刻な状態にでも気付いたか、兼続は神妙に尋ねる。大丈夫と問われたら、はたしてどうなのか。三成にはわからない。自分の状態が、はたしてどれくらい深刻なのかも。
 もしかしたら、左近から話がいったのかもしれない。だからこうして、何の用事もないというのにやってきたのだ。
「………」
「ここのところ、ずっと酷い雨続きだな。あちこちで水害が起こっていて忙しかろう」
「……あぁ」
 おかげで幸村とも逢わないでこれた。
 あの雨の日以来、雨は数日おきに降り続いている。雨足の強い日もあれば、小雨がしとしとと降り続ける日もあった。おかげで、作物にも悪い影響が出ているし、川などは早急に手だてを考えなければいつ氾濫するか。だからこそ、日々を忙しく過ごせた。この雨には、感謝したいくらいだ。
「眠る間を惜しんでの考え事など効率が悪い」
「…寝ている」
 兼続の言葉に、力なく否定した。普段より眠りにつく時間は短いが、夜を徹して何かをすることはない。だが兼続は、首を傾げた。
「そうか?酷い顔色だったから、何かずっと難しいことを考えているのかと思ったぞ。…たとえば、そうだな。好いた者の事とか、な」
「―――何の話だ」
 こいつも幸村の話をしようとしている。そう気がついて、三成の中で一番触れたくなかった部分が尖った反応を示した。胸がざわつく。だがそんな三成の様子など気にも留めず、兼続はいつものように雄弁に語る。
「三成。私は政事は国の大事だと思っている。心してかかるべきだともな。だからこそ、政事を三成にとっての一番の問題から逃げる為のだしにしてしまって、それでまともな判断など出来るか?少なくとも、政事を預かる身、民を飢えさせて殺すも戦にやって殺すも全てその判断一つだ。…ちゃんと、向き合うべきだ」
 兼続の言うことは何も間違っていない。だが、どうしても聞いていられなかった。一番の問題に向き合え、というのはすなわち、幸村とちゃんと話しあえということだ。思わず叫んでいた。
「…っうるさい!」
「……」
 こちらが声を荒げても、兼続は視線をそらさずこちらを見つめていた。驚いた素振りもない。空回っている。落ち付け。心のどこかで己を制する声がする。だが、感情が昂ぶりすぎて、堪えることが出来なかった。
「俺は別に何も…っ何も望んでなどいない!幸村が俺を誰の身代わりと考えようが構わん。だが人形のように俺に従う幸村など見たくもない!俺は…っ」
「三成」
「俺は、ただ…っ」
 ただ。
「幸村が好きなだけだ…!」
 出来ることなら、幸村にも三成を。石田三成という人を選んでほしいというだけだ。それが、どれくらい贅沢な望みなのかということもわかっている。見返りなど求めるべき感情でないのも理解している。何も望んでいないと口ではいいながら。だが、どうしても期待してしまう。
 幸村が笑うたび、気にかけてくれるたびに、この感情が報われる日が来るかもしれない、とそう思っていた。
 だけれども、たぶん幸村は。
 こちらの好意などいつも見て見ぬふりをされる。
「…そうか、よくぞ言ってくれたな」
「……、すまん」
「いや、いいさ。おまえがようやく幸村を好いているとその口で私に言ったのだ。これでようやく大々的におまえの味方をしてやれるというものだ」
 兼続はそう言って、優しく笑った。肩を組まれても、嫌な気分はしなかった。それどころか、兼続の腕の重みに安堵する。
「…兼続」
「辛いか、三成」
「……」
「溜めこむのはよくない。大声で泣いてしまえ。なに、どうせもうすぐまた大雨だ。一足先に、この屋敷に雨が来たと思うことにするよ」
 そうは言ったが、その日の空は晴れ渡っていた。雨の気配もない。それを指摘しようとして、出来なかった。笑い飛ばしてしまうこともできなかった。
「…痛い」
「そうか」
「辛い」
「そうだろうな」
「苦しい…」
「ああ」
「幸村に、言ってしまった」
 己の力を信じられない幸村に、ならば抱いてみせろと言われた。そこまで評価されるいわれがない。信じたい。だが信じたい相手は、女を抱くように幸村をそうしたいと言った。そういう感情があると。
 そうして、かえってきた言葉は三成の肝を冷やすに十分だった。
 信じられる相手ならいい、と。
 そんな風に心の伴わないものなどいらないのに。
 盲信してほしいわけではない。そんな形で幸村に触れたいわけじゃない。
 たとえ幸村がそれを、その形を望んでいるのだとしても。
 胸が痛い。
 いつまでこんな痛みを抱えていかなければならないのか。そう思うと、人を好きになどなるのではなかったとつくづく思う。
 だが、幸村に出逢えなかったらと思うと、それも胸が押しつぶされそうになる。
 もっと、ちゃんと向かい合いたい。
 だがそうするには時間がかかりそうだった。何よりも、自分の感情に決着をつけるのが怖い。
 つくづく、自分という人間の器の小ささに嫌になった。



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お題ものです。「雨だれ 十題」より「身体の何処かが軋みを上げる」
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