育花雨ころに。3




 幸村の夢を見てから数日後。
 ついに顔を合わせなければならない日が来た。政務で会うのだから仕方がない。私事で会うならばどんな理由をつけてでもなんとか出来たかもしれないが、さすがに政務では避けようもなかった。
 時が経つにつれて、三成はこれまでになく気が重くなるのがわかった。これまで幸村に対してこんな風に逢いたくないと考えたことはない。それだけに、あの夢がどれだけ自分にとって衝撃的で、幸村に対して後ろめたいかを表しているようだった。
 そもそも、どんな顔をすればいいのかがわからない。
 見た夢の内容が、そもそも悪い。何せ触れるとか触れないとか、その程度ではなくて、完全に幸村の身体を暴いていたのだ。触れたこともないくせに。だからだろうけれども、夢の中での幸村の肌の感触も、声の雰囲気もよくは覚えていない。だから余計に恥ずかしかった。知りもしないものを夢想して、幸村を汚してしまった。
「殿、どうしました」
「…別に何もない」
 三成の様子がおかしいと気付かれたのはもはや数人目だった。一人目はねね。二人目は秀吉。三人目が左近だ。こんな風に会う人会う人に不審に思われているというのに、その上幸村に会ったらどうなってしまうのやら。
 自分で自分がわからない。
 とにかく気を確かに持って、幸村が来ても無表情に徹すればいい。そうすれば、少なくともこちらの動揺は伝わるまい。不機嫌だと思われるかもしれないが、だとしたら少し距離を置いてくれればいい。
「何もないって顔色でもないですがねぇ。初陣前の若武者みたいな顔ですよ」
「ふざけるな」
 三成に鋭く睨まれて、左近はそそくさと逃げていった。その足音を聞きながら、いっそ自分自身もここから逃げてしまえれば、と思う。
 たとえば、誰も知らないところまで行ってしまえばどうなるだろう。知っている者に逢わないよう、幸村の噂が届かないほど遠くまで、逃げて逃げて逃げて。
(…俺は逃げることばかり考えているのだな…)
 ふと自分の思考回路に嫌気がさした。夢の中では積極的なくせに、現実ではこうも二の足を踏んで、関係に少しのヒビも入れられない。
 関係が変わることに怯えるくせに、己の感情を受け入れてほしいとも思うし、だけどそれが受け入れてもらえるとは思えないから逃げをうつことしか考えられない。
 自分の器の小ささに、嫌気がさす。
 もっと、もっと普通の相手だったら違ったかもしれない。友だとか、義の誓いだとか、そんなものを交わした相手でなければ。
 そうしているうちに、幸村が到着したと報告があった。思わず強く握った拳に、じんわりと汗ばんでいた。緊張しすぎの己に苦笑いが浮かぶ。
―――大丈夫、自分は今まで無表情の鉄面皮で相手をやり過ごせた。
 政務を手早く終わらせれば、幸村との面会もさほど長引くことはないだろう。多少のやり取りがあったら、それで終わりだ。
「真田幸村、参りました」
 襖の向こうから聞きたかった、だが聞きたくなかった声がして、三成は背筋を伸ばした。
 逃げたい、と内心は叫んでいたが、なんとか、なんとか自分を落ち着かせた。
「入れ」
 その声に、入ってきた幸村はいつもの通りだった。健康的な肌の色。おそらく日々の鍛練を怠っていないのだろう。
「よく来たな」
「…三成殿は、少しお疲れのご様子ですね?」
「―――っ」
 幸村は苦笑している。思わず息を呑んでしまったせいで否定も出来ない。疲れているのは政務ではなくて、幸村のことを思い悩みすぎたからだ、とはとても言えない。
「実はここへ来るまでに、おねね様にお逢いしたのです」
 ねね、と言われて心臓が高鳴った。そういえばねねにも秀吉にも、そして左近にも自分の様子がおかしいことは見抜かれている。幸村に優しくしていることなども知れている。だから、誰かしらと顔を合わせることがあったなら何か吹きこまれているかもしれない。
「…何か言われたのか」
「心配されていらっしゃいましたよ。指摘されると余計頑なになると」
「………」
 予想通りだ。放っておいてほしい。顔にも出ていたかもしれない。ふと気付くと幸村がこちらの様子を窺うように見ていた。
「それで、その…おねね様にはお許しをいただいたのですが」
「なんだ」
「このあと、一緒に少し城下へまいりませぬか」
 思ってもみなかった誘いに、三成は何と答えればいいのかわからなくなってしまった。いや、何もおかしなことなどない。幸村とは親しくつきあっているのだ。友として、こちらを気遣ってくれたのだろう。
 だけれども。
「…幸村、」
「見世物が来ているらしいのです。一人で行くには気がひけましたので、もし三成殿のご都合がよろしければ…」
「……あ、あぁ」
 駄目だ。
 期待したくなる。
「よかった!」
 こんな些細なことで嬉しくなる。期待してしまう。あの雨の日だってそうだった。幸村が雨の中、来てくれたことを嬉しく思った。まさかの来訪に驚いて、でも嬉しくて。
「………」
 でも、逃げだしたくもなる。
「…幸村」
「はい」
 言いたい。言って楽になりたい。でも言って壊したくない。なくしたくない。嫌われたくない。
 何度この問答を続けてきただろうか。
「…気を遣わせて、すまぬ」
「そのような。我らは友ではありませぬか」
 友―――。
 胸が痛い。
 ずきずきと痛む。
 どうしてこんな風に辛いんだろうか。どうしたらもとに戻れるだろうか。こんな風に他人の顔色をうかがうような自分は全くらしくない。
「………」
 逃げ出したい。逃げれば楽になれるだろうか。何もかもから逃げて、忘れて、それで元に戻れるならそうしたい。
 もうずっと考えている。
「ああ、そうだな。…そうだった」
 後ろめたい気持ちを抱かずにいたい。
 この恋情を、忘れることが出来る日がくればいいのに。


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お題ものです。「雨だれ 十題」より「雲隠れ」
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