育花雨ころに。2



 夢を見た。
 起きてまずやったのは、周囲の確認だった。
 幸村はいない。自分は夜着を着ているし、乱れてもいない。
 そうして、まず夢だったことに安堵する。それからすぐに、あんな夢を見たことを後悔する。不義極まりない自分に、どうすればいいのかわからなくなる。あんな夢を見るなどもう末期的症状だ。
 心臓はまだ跳ねるようにどくどくと音を立てている。首筋のあたりにじんわりと嫌な汗も感じる。最悪だ。
 夢の中の幸村はずいぶん従順だった。自分の夢の話だから当然だ。だから余計に自分に嫌気がさす。そもそもまず自分の気持ちすら伝えていない。伝えていない事に対して、それなりの申し訳なさはある。何せ向こうが友情の念で近寄ってきても、こちらはいちいち好いた相手を見つめる熱を自分の中に感じるのだから。触れたいとか、触れるのが怖いとか、そんなことばかり。
(…だからか)
 三成は小さくため息をついた。
 現実にするのは怖い。現実にそういう状況になった時には、こちらの感情は伝わっているはずだ。万が一にも本当にそういう状況が訪れたとして、それははたして合意の上のことなのか。
 あまりそういう想像も出来ない。やはりどうしても、自分がこの想いを幸村に伝えられるとも思えないのだ。
 言いたいことは大体いつも我慢しない方だった。言わねばならないと思えばいつでも口に出した。それでどれだけ相手の不評を買おうが関係ない。
 そういう生き方だったというのに。
 幸村の槍さばきは素晴らしい。さすがだ、と口にすれば周囲は一様に驚いた。それもそうか。左近あたりによく考えてくださいよ、と笑われたことを思い出す。他の人間にはそんな言葉をかけたことはほとんどない。せいぜい、左近と秀吉と…それくらいだ。
 兼続だって言っていた。少しはそれくらい褒めてみろと。褒めたからといってそれに心がこもっていなければ意味はない。だからそれについては丁重に断った。兼続に対してそんなことをしてもやれ不義だのなんだのと罵られるだけだ。兼続には嘘はいらないし、幸村を相手にしている時のような不安はない。あれはあれで、あけっぴろげに相手に出来る唯一の親友だ。
 そこまで考えて、ふと思い出す。
 昨夜は酒宴だった。とはいっても内々の、ごく親しい人間だけのものだ。兼続とはいつものように議論をかわしたりもした。酒の席で無粋だと言ったのは前田慶次だっただろうか。それを言われて、その隣にいた幸村はどう思っているのかが気になった。幸村はどう思っているだろう。そう思っていれば、幸村は笑って言った。
「私はお二人がそうして話しているのを聞くのが好きですので」
 だからどうぞ、と微笑まれて三成はああやはり幸村は凄い、とそんなことを考えていた。普通なら慶次の反応だ。間違いない。それなのに幸村はそんなことを言った。なんなんだ。どうしてそんなことが言えるんだ。そもそも議論の内容だとて実に馬鹿馬鹿しいことだというのに。
「幸村は信玄公の頃もそんな風だったな」
 左近が笑っていた。昔を懐かしむ様子に、少しばかり悔しく思った。幸村との関係は信玄に師事していたことのある左近の方が、長い。長くは居着かなかったというが、それでも互いのことを覚えている程度に過去は共有している。そんな小さなことすら羨ましいと感じた。
「…人の話を聞くのは楽しいですよ。世界が広くなるのを感じます」
「ああ、わかるぞ幸村。私も謙信公の話を聞くのは好きだった!」
 幸村の言葉にすかさず兼続が食いつく。謙信がいかに素晴らしい人であったかという話になって、負けずと幸村も信玄の話でついていった。時に左近と慶次の横槍が入りながら、それでもその場は実に和やかだ。
 秀吉については、語る必要はないと思ったから三成は黙っていた。そもそもそういったことを高らかに語れる性質でもない。他人を褒めることに関しては、特に恥ずかしいと思う心が強くて難しいのだ。
 そう思っていれば、当然ながら水を向けられた。
「こら三成、おまえも秀吉公の話でもしてついてこい!」
「…いや、俺はいい」
「なんと!己の主に対して何も言えんと言うのか!?それはあまりにも不義ではないか。あの左近ですら三成のことを語れるはずだぞ!」
「なんか聞き捨てならないですよ兼続さん」
 酔っているからか、左近の嘆きともつかない言葉も苦笑まじりで柔らかだ。
 とはいえ、やはりそういった話については気恥ずかしくて駄目だ。それに、兼続や幸村のように熱く語れるわけでもない。自分は常に淡々としていて、それはあまりこういった場の雰囲気では歓迎されるものでもないだろう。
「なんだ三成。てっきりおまえも変わったのかと思ったのだがな」
「変わった?俺が?」
 何も変わっていないぞ、と抗議すれば、兼続は僅かに赤らんだ頬をにやりと笑みで歪めた。ひとの心を見透かすような嫌な笑顔に見えたのは気のせいだろうか。気のせいだと思いたい。そう思っていたが、実にあっさり予感は確信に変わった。
「そうではないか!幸村のことばかりあんなに手放しで褒めるというのに!」
 呑んでいた酒を盛大に吹きかけて、慌てて嚥下した。ついでに噎せた。今のはあまりにも、あまりにも唐突だった。予想外にもほどがあった。慌てて何を、と問おうとして、幸村と視線があう。顔に火がついたように赤くなったのがわかった。自分が、だ。
「ち、ちが…違うぞ、兼続!」
「違わん!嘘をつくな三成!不義だぞ!いつから不義の狐になった!」
 兼続の声は実によく通る。時に良い声だとも思う。が、今はその通る声が実に忌々しく感じられた。勢いの良い兼続の声はいっそ凶器だ。もっと控え目にしろと叫びたい。実に繊細な問題だというのに!
「ふ、不義の狐とはなんだ!」
「そうではないか!幸村のことを褒めているのを私はいつも聞かされているぞ!」
 馬鹿な、そんな話していない、と叫びかけて、それを遮られた。

「本当ですか?」

 幸村の、実にまっすぐな問いに、三成は言葉を紡げなくなった。普段さほど日に焼けない自分の肌が、今は真っ赤になっているだろうことがわかる。
「本当だ!」
 三成が答えるより先に兼続が答えた。二の句も継げずにいれば、幸村がにっこりと笑った。
「嬉しいです」

(…期待、してしまったのだろうか。俺は)
 雨の中、わざわざ出向いてくれたことや、酒宴でのあの笑顔や、そういったことが重なって、それが嬉しくて、もしかしたら幸村も、などと安易なことを考えたのだろうか。だとしたら、実に短絡的で悲しいほど即物的だ。いっそ悲しくなる。
 布団から這い出して、そのまま廊下へ出た。ひんやりとした空気に、三成の身体が一瞬震える。見上げた空には雲はなく、月が煌々と輝いている。星がかすんで見えるほどの月灯りだった。
 いっそ雨でも降っていればこの気持ちも多少まぎれたかもしれないのに、その気持ちを裏切って晴れていた。夜の闇であっても、晴れていれば空は高い。
 墓まで持っていくしかないと思っていたこの感情は、ひっそりと、誰にもわからないところで自分を不義に落としていくから嫌いだ。
 ならば言うべきだろうか。幸村に、自分の気持ちを包み隠さず。
―――包み隠さず、好きだとか、抱きたいとか、そんな夢を見たこともある、とか?
「……どちらも不義、か」
 ではどうすればいいのだろうか?
 もうすっかりわからなくなって、三成は薄く笑った。そうしてふと、自分が泣いているのに気がついた。
 苦しい。辛い。言いたい。言えない。怖い。触れたい。抱きたい。知りたい。見てほしい。知ってほしい。―――醜い。
 八方塞がりだ。
 雨が降って、それに打たれれば少しはその熱も冷めるかもしれない。
 だが雨の降る気配はない空は、月灯りが眩しくて見上げても苦しいばかりだった。




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お題ものです。「雨だれ 十題」より「心に染みが広がっていく」
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