育花雨ころに。1



―――雨。
 三成はふとその音に顔を上げた。気がつけば空には暗雲が立ち込めて、すっかり薄暗くなっていた。今の三成の気持ちを重くさせるに十分なその空に、溜息をつく。
 ここ数日、この雨期の季節には珍しく晴れが続いていた。今抱えている分の政務が片付いたら少し外へ出よう、その時には幸村を誘ってみよう。そう思って励んでいた心は、ぽっきり折られてしまった。実に間の悪いことだった。
 恨めしげに空を睨んだまま、三成は廊下へ出た。足取りは重い。いつもはどちらかといえば雨は好きだったのだが、今となってはあまり好きになれそうもなかった。
(いつもこうだ)
 次の区切りがついたら、今度こそ幸村に言おう。そう思うたび、何かがあってそれが出来ずに来た。次の戦が終わったら、次の政務が終わったら。大体決めた先からそれはうまくいかずに終わってしまう。今もそうだったのだ。外へ行かぬかと誘って、少し遠乗りをして、そこで言おう、と。ずっと抱えていたこの想いをきちんと告げよう、と。
 それとも、見抜かれているのだろうか。天に。どうせ言えるほどの度胸もないくせにと。
 幸村にそういった感情を向けるようになったのはいつ頃からだったか。
 自分の身辺にはあまりいない、武一辺倒。そういった者は自分のような、武力以外のところで認められた者をあまり好まない。しかし世が平穏になればなるほど、武力が必要になるところは限られていく。それ以外が必要になっていくのだ。
 いつの事だったか、戦のあとに三成が忙しくしていた時。
 幸村は少し休まれては、と進言してきた。やっと戦が終わったのです。三成殿も、と。だがその時の三成は気がたっていた。
―――悪いが、俺の仕事はここからだ。戦が終わればそれで終わりではないのだ。
 言われた幸村は、酷く驚いた様子だった。その様子に、ああしまった、と思った。胸が痛まないわけもなく、ずきずきと痛んだ。とりあえずこれで、また友が減っただろう。そもそも知りあってそう日が経っているわけでもない。お互いのことをあまり知らない。だから、その程度の人間が一人減ったところで何ともない。そう思いながら政務をこなした。
 それなのに。
 全て終わって、ようやく一息ついた頃。
―――三成殿。
 もう話しかけられたりする事もないだろうと思っていた相手から声をかけられて、その事に驚いた。何を言われるのかと相手からの言葉を待てば、お疲れ様です、と言われた。
 それだけか?と聞けば、はい、と答えた。
 今思い出しても、不思議な気持ちになる。幸村はとても静かに微笑んでいて、とても穏やかだった。どう見ても裏のない笑顔で、三成はどう対応すればいいかわからなくなって。
 柄にもなく、「ありがとう」と言った。
 言ってすぐに幸村の横を通り抜けた。自分の顔は真っ赤になっていた。思わずこぼれ落ちた言葉に恥ずかしくて走りだして逃げたい気持ちを必死に抑え、一人になった途端に思わず膝をついた。
 なんで言ってしまった事にあんなに後悔したのか。
 どうして話しかけられたことにあんなに動揺したのか。
 かけられた言葉に、我を忘れてまっすぐに礼を言えたのか。
 そこからはもう、済し崩しに理解した。させられた。自分の抱えていたものの名前を。
 好きだったのだと気付いて、次に好きの重みに気付いた。戦に出ては彼の武功に目が行くし、戦う姿を頼もしいとも思うし、それ以上に不安にも思う。
 一度気になりだしたら止まらない。だから。
 ―――だから、言おうと思った。何度も何度も。何かにつけて、理由を必要として、言える機会を窺い続けた。
(女々しいな、俺も)
 そもそも告げたところでどうなるわけでもない。期待できるわけもない。 友人としての関係は微妙なものになるだろう。それをしてまで、この感情を伝えたいのか、と言えばそれもやはり複雑で恐ろしい。
 相変わらず、雨は降り続いている。これだとおそらく夜になっても続くだろう。仕方なしに部屋へ戻ろうとした時だった。
「三成殿!」
「!」
 びくり、と身体が固まった。振り返れば、予想もしていなかった相手がいた。
「…ゆ、幸村…。この雨の中、どうしたんだ」
「ここへ来る途中降られてしまいまして…」
「…そうだったのか」
「はい」
「あ、ああ。よく来たな。しかしずいぶん濡れて…」
 髪から水滴が落ちていく。ぽたりぽたり。木目の上に染みを作るその様子に、三成ははたと気がついた。そうだ。政務が終わったら幸村を誘って、外へ行こうと思っていた。雨でそれはかなわないと思ったが―――。
「…何か、俺に用があったのか?こんな、雨の中…」
「お会いしたかったので来ました。ご迷惑でしたか?」
「…っ。い、いや!それはない!」
 そうだ。それはない。そして気付かされた。雨だろうと幸村のもとへ行き、誘うことも出来たはずだ。それをしないで、やれ雨が降ったからなしだと取りやめて次の機会を待つばかり。それは単に、伝えたいと思うよりも怖いと思う気持ちの方が強かったということだ。
 それに比べて、気持ちに嘘のない幸村のまっすぐなこと。
 なんだか恥ずかしくなって、三成は思わずうつむいた。やはり自分はただの意気地なしだ。
「良かった。帰れと言われるかと少し緊張しておりました」
「…俺は、雨の中来てくれた相手を雨の中帰すほど、酷い男ではないぞ」
「はは、そうですね」
 ぽたり、ぽたり。
 短い髪の先からこぼれていく水滴が、木目の上、肩の上、濡らしていく。
 幸村から向けられている信頼の重みを感じて、三成は自分の抱えているものの後ろめたさに視線を逸らす。改めて緊張した。幸村の髪から滴り落ちていくものを俯いたまま見つめているうちに、息苦しさすら感じられるほど。
「…そ、そうだ。そんなに濡れていては風邪をひく。今、誰かに替えの着物を…」
 幾分か上ずった声になったことに、三成は自分自身で驚いた。だが幸村は特に気にしなかったようだ。
「ありがとうございます」
 普段通りの声音。視線。振る舞い。当たり前だった。
 ぽたり、ぽたり。
 雨の音と違う音。幸村の髪から落ちていく雨粒。雨は相変わらず降り止む気配がない。だから幸村は、しばらくはここに留まるだろう。
―――これはきっと、今こそその時だ、と。
 政務が片付いたら幸村を誘おうと思っていた。遠乗りでもなんでもいい。誘って、そしてこの想いをきっちり伝えようと思っていた。どんな反応でもいい。拒絶される可能性だってある。だけれども、まずは伝えなければ何も始まらない。ずっとそう思ってきた。だから、何とかしようとした。
 だがどうだ。本人を目の前にしてこの動揺ぶり。まだ何も言っていないのに、今から緊張してしまってどうにもならない。指先は冷えて、それを誤魔化すのに拳を握れば力を込めすぎて爪が食い込んだ。
 考えてみれば、何も考えていなかった。言おうとはしていたけれど、それをどんな時に、どんな言葉で?
「…っ、幸村!」
「は、はい!」
 勢いこんで名を呼べば、唐突なことに驚いたらしい幸村の肩が揺れた。
 だがその先が続かない。
 言葉には不自由な方だという自覚がある。言いたいことがうまく言えず、言わなくていいことは好き放題、辛辣な言葉になって出てくる。今まで何度、それで敵を作り、周囲から人が減っただろうか。三成の前には秀吉がいて、人づきあいと人心の掌握のいい見本になる人もいる。だが、それらは自分には到底出来る芸当ではないと、すっかり諦めていて。
 もし言ったら、もし拒絶されたら、今度こそ親しく思う人が減ってしまう。全幅の信頼を寄せられる相手がまた一人、減ってしまう。
「あ、あの…?」
「…いや、何でもない」
 今更そんなことに怖がる心があるなど思いもよらなかった。
 自分の言葉一つに惑わされて憤慨して消えていく人物などたくさんいた。 そのたびに落ち込むほど、他人に心を割いてやれる時間はなかった。そんなことでいちいち落ち込んだりしていたら、政務に差しさわりが出てしまう。そんなことで、秀吉に迷惑はかけたくなかった。
―――今までは、そうやって政務を言い訳にして傷つかないふりをしていた。
 だが幸村は違う。こちらの言い分も、立場も、理解してくれる。だからそれも言い訳には出来ない。
 だから、ただ。
(…俺はどこまでも情けないな…)
 怖くて言えない。
 もしそれで幸村からの反応が、自分を拒絶するものだったら、それこそ。
 今まであれこれと庇って目を逸らしていた傷が、全部開いてしまう。
 それくらい、はっきりとした決意が必要なのだ。この気持ちを伝えるには。
 それが出来ないなら、それが怖いなら。
(墓場まで持っていくしかない)
 言いたくて仕方がないとずっと思っていたのに、幸村を前にしてその一言が言えない。
 期待などしていなかったはず。最初から、受け入れてもらえる感情だとは思っていなかったはず。なのに。
 欲しいと、思ってしまうのだから。
 たとえば今この季節に陽の暖かさを焦がれるように。この心に、光が欲しい。


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タイトルは「いくかう」とお読みくだされ。
お題ものです。「雨だれ 十題」より「ぽたり、ぽたり、」
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