いつか太陽に落ちてゆく日々 9




 趙雲がその名を呼んだ時、すでに三成は怪我をしていた。
 その腕を庇うようにしている。幸運なのは利き手でないことか。
「怪我を」
「別に大した怪我ではない」
 三成は不機嫌にそう呟いた。とはいえ痛くないわけはないし、その痛みのせいで動きが鈍るのは当然のことだ。
 趙雲はどうしたものかと周囲をぐるりと見渡した。きりがない。
「三成殿はどこにいたのですか」
「軍議が終わって戻るところだった」
 なるほど、その軍義には曹丕もいただろう。時間にあわせて甄姫が花を飾って部屋を出たわけだ。そしてため息をついている趙雲と出くわした。この庭の先に行けば、確かに広間にたどり着く。
「我が君は一緒ではなかったのですか」
 三成の言葉にすかさず甄姫がそう問うた。三成と曹丕は、趙雲たちがここに来てからでもわかるくらいに共に過ごす時間が長い。
 きっと甄姫は今まで三成と曹丕は一緒にいて、この場を凌いでいるだろうと思っていたのだろう。
「知らん」
「そんな…!我が君…」
「知らんが、弱い奴ではあるまい」
 一瞬取り乱しかけた甄姫が、その言葉で頷いた。しかし不安がその胸の中を渦巻いているのはわかる。趙雲は前を見据えたまま舌打ちした。
 その時だった。
 趙雲はふと何かを感じて振り返った。
 視線の先には、先ほど三成が現れたのとは逆の通路が見える。先は暗くて見えないが、その向こうから誰か来る。
 理屈ではない何かが、そう感じさせた。
「…向こうへ!」
「えっ」
「いいから!向こうに仲間がいる。急ぎましょう!」
 その時だった。上空へ高く、ドオン、という空砲が響いた。
 甄姫がそれを見て、合図だと叫ぶ。が、趙雲は見向きもせずに走った。三成が舌打ちしてそれに続く。甄姫は仕方なしに二人に続いた。先頭に立つ趙雲は修羅のような勢いで周囲の遠呂智軍をなぎ倒していく。

 そうして、みえたのは。

「幸村殿!」

 幸村と、曹丕の二人が走ってくる姿だった。


 空砲が鳴った瞬間、曹丕は空を見上げた。無表情だったその面に一瞬だけ刻まれた表情に、幸村は今の空砲がいい合図ではないと知る。
「何か…」
「城を捨てる」
「…え?」
「城を捨てる合図だ。父がやったものだろう。逃げるぞ」
 幸村は戸惑ったように空を見上げた。曹丕の落ち着きぶりから見るに、もともと決まっていたことなのだろう。
「し、しかし」
「これだけの遠呂智軍が侵入している今、それ以外にあるまい」
「しかし、まだ甄姫殿も…」
「建前はいい。三成が見つかっておらんと言いたいのだろう」
「……っ」
「あいつは引き際をわきまえている。下らぬことにこだわるな。行くぞ」
(曹丕殿は…三成殿を、よく知っておいでだ)
 おそらくは、この地に立った時からずっと共にいたからだろう。だからこそそうして三成を信頼できる。
(…私は)
 それにひきかえ。
 信じていないわけではない。だけれども、酷く不安になるのだ。
 こうも遠呂智軍に城内への侵入を許した今、城を手放すのが最善の策だろう。
 わかっている。だけれども。

―――下らぬことにこだわるな

 曹丕の言い分はわかる。なのに。
 なのに、どうしてこんなに。
 その時だった。
 何かを感じて振り返る。向こうに誰かいる、と知って幸村は強く己の槍を握った。何故そう感じたかはわからない。ただ、本能のようなものがそれを告げた。
「曹丕殿!」
「なんだ」
「行きましょう。誰か、いる!」
「…!?」
 今の今まで動けずにいた幸村が、その声と共に走り出した。曹丕は眉を顰めたが、その理由を一瞬後に知る。

「趙雲殿!」

 向こうからも、幸村殿、と叫ぶ声があった。それは趙雲と、甄姫と三成だった。


 城は落ちた。それぞれあの合図でそれを曹孟徳が決意したと知り、散り散りになった。
 趙雲と幸村が先頭に立ち、遠呂智軍を蹴散らし道を作りながらようやく城を抜け出してしばらくした時だった。
「子桓よ」
 走っていた彼らの前に馬に乗って現れたのは、曹孟徳その人だった。背後には、夏侯惇たちがいる。
 この分だと魏の将たちは誰一人として欠けることなく落ち延びているようだ。
「父か」
「無事であったか」
「無論」
 そこまでお互いは親子でありながら無表情だった。事務的にお互いの無事を確認する。趙雲などは劉備のような、表情豊かな人についていたせいだろうか。そんな親子の会話に冷え冷えとしたものを感じるのだが、甄姫などは全くそんな様子もない。そんなものか、とため息をついた。
「ならば良い。話があって、おまえたちを探していたのだ」
「話」
「そうだ。…真田幸村、話がある。少し良いか」
 唐突に話の矛先が自分に向いて、幸村は驚いたように背筋を伸ばした。
「…私、ですか」
「子桓と共に来るがいい。他はここに残れ。いくぞ夏侯惇」
「おう」
「…一体何事だ?」
 趙雲の言葉に三成は何も返せなかった。現状で幸村に話があるとは一体どういうことか、その時は三成もわからなかったのだ。
 どちらにせよ、今はこの場で休息となる。三成は近くの木の幹に腰かけると、乱暴に傷の箇所に止血を施そうとした。片手ではうまくいかずに悪戦苦闘する。
「ずいぶん乱暴な」
「……」
 それを見ていた趙雲が肩を竦めた。貸してください、と手を伸ばすとなれた手つきで布を巻きなおした。
「…何か言いたそうですね」
 趙雲の言葉に、三成は不服そうに眉を顰めた。それから、酷く小さな声で言った。
「…何故わかった」
「え?」
 聞こえない、というように首を傾げた趙雲に、三成はついカッとなって声を荒げた。甄姫なども驚いたように三成たちを振り返る。その視線に晒されて、三成は居心地が悪そうに舌打ちする。
「何故、幸村があちらから来るとわかったのだ!」
「ああ…。さて、何故でしょうね」
「ふざけ…」
「感じたんですよ。幸村殿を」
「…何?」
「どういう理由か、理屈かと問われても困ります。ただ、いると思った。私と幸村殿は、よくそういう事があります」
 そう言った趙雲の表情は、ごく自然な笑顔を浮かべていて三成は言葉を詰まらせた。理由もなく、ただ幸村がいると感じられる。そんな存在だと笑う趙雲に。
「……」
「彼が、どう動くかわかる事がある。幸村殿はどうかわかりませんが」
「…もう、いい」
 嫉妬だ、と思った。
「似ている、と言ったのは三成殿でしょう。だからではないですか」
 たしかに戦場で趙雲をはじめて見た時、三成は趙雲と幸村を似ていると思った。雰囲気か、それとも真っ直ぐにものを見据えるその双眸か。とにかくわからないが、似ていた。知らず呟いた言葉に、趙雲が言った言葉も、覚えている。
(こんな、奴に…)
 あの時、幸村は感じたのだろうか。趙雲がいると。そして幸村も同じように笑うのか。趙雲がそこにいると感じたと、そんなことを言うのか。
 答えは聞かなくてもよかった。同じように感じただろう。あの時、互いに名を呼んだ瞬間は、幸村の目に三成の姿はなかった。
 少なくとも、三成自身はそう感じた。
 そうして、思ったのだ。

―――なんだ、幸せなんじゃないのか。

 幸村がこの曹魏の地に来た時は驚いた。どう接すべきかわからずに、ただ慌てて部屋へ押し込んだ。その後は態度を決められずにずっと逃げ回っていた。
 記憶にある、関が原の光景。
 負け戦の記憶。
 負けてしまったら兼続や幸村はどうなる、と思った。負けるはずのない戦だったはずだ。だが、今ならばわかる。負けるはずがないなどありえない話なのだ。あの時の自分は、何を思いあがっていたのだと。
 だけれども。
 幸村はこの遠呂智に歪められた世界で、趙雲という人間と出会った。
 彼自身とよく似たその男は幸村がどこにいるかわかるという。彼がどう動くかわかるという。
 そういう誰かと出会えたとしたら、それは幸せだろう。
 ならば、それでいいのではないか。
 幸村は新しい道を見つけた。遠呂智の世界で見つけた新たな友は、三成とは違って負ける戦を仕掛けたりはしない。
(そうだ。…だから俺の、こんな感情は捨ててしまえ)
 幸村に逢いたい、その声を聞きたい。そうずっと感じていた思いなど。
 たぶん、この感情は幸村を引きずりこむ。何故だかわからないが、この世界に来てずっとそう感じていた。この感情一つ、幸村に晒してしまえば、それだけで幸村は引きずられる。
 友に向けるにはあまりにも欲の強い想いなど。
 捨てて、忘れて、新しい道を作った方がいい。


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趙雲と幸村はそういう関係だといいなぁっていう妄想です。理屈じゃないんですよ…(笑)。