いつか太陽に落ちてゆく日々 6




 ふと、幸村が振り返る。
 何かの気配を感じた気がした。それはどこか懐かしい感覚だ。
 感じる気配に不快なものはない。
「……いるのか?」
 ふと声をあげたが、反応はなかった。かわりに、風がそよそよ、と辺りの木々を揺らす。
 陽の光はずいぶん前に西へ落ちた。今はひんやりとした空気が肌を刺すようだった。昼間に感じた暖かさがどこかへひいていったような、しんとした空気の張り詰めた感覚。
 冬場ほどの辛さはない。幸村はこの空気は好きだった。
 曹魏の土地に来てすぐに、幸村と趙雲は己の槍を預けていた。だから今この場には己の手に馴染んだ得物はない。
 身体を動かして、少し緊張をほぐしたかったが―――。
「何をしている」
「!」
 振り返ったそこにいたのは、曹丕だった。三成の姿はない。
 昼間、趙雲に白い花を差し出した彼は、不快ならば捨てろと言ってその場を去った。しかし相手は曹魏の国一つを動かそうという男の息子である。
 何の意図があったにせよ、そう簡単に捨てられるものではない。不本意ながら。
「…曹丕殿こそ、ずいぶんと無防備ではございませんか」
「私が今、危険な目に遭うと言うならば、それは間違いなくおまえのせいだろうな」
「槍はございませんし、趙雲殿の立場を危うくする気はありません」
 幸村は苦笑しながら答えた。曹丕の淡々とした口調は一歩間違えば気分を害したものかと勘違いしそうなそれだったが、どことなく三成の口調とも似ている気がして、幸村はおかしくなった。
 ざわ、とまた風が木々を揺らす。
 しばらく二人は夜風に当たってお互い黙っていたが、どれほど経った頃か曹丕が口を開いた。
「趙子龍と、何故行動を共にした」
「恥ずかしながら、遠呂智軍が占拠していると信じて城を攻め込みました。その過ちを、趙雲殿が正して下さった」

―――さすが音にきく、真田幸村!

 そう言った趙雲の言葉や声は、はっきりとしていて清々しく、遠呂智に与しているとはとても思えなかった。とはいえその時の幸村は、何を信じるべきかもわからずにいたから、まだ信じきることは出来なかったが。
「それ以来、共に戦っております」
「劉備という男は、どういう男だ」
「…それは、私より曹丕殿の方が…」
「質問に答えろ」
「……。優しい方です。慕われるだけある、素晴らしい方だと…」
「真田幸村にとって、その男を救う意味はあったのか」
「当然です」
「理由は」
「遠呂智に虐げられているならば、お救いせねば。趙雲殿が、信じる方です。間違いは…」
「おまえには自分の意思はないのか」
「………」
「蜀の人間が劉備を救うのはわかる。しかし貴様はわからん」
「私は、私の意志で劉備殿を救おうと」
「違うな。それは趙雲たちがそう言っていたからだ。おまえは過ちを詫びるために蜀の人間と行動を共にした」
「…何を言いたいのですか」
「ならば今、まだ行動を共にする理由はあるのか。趙雲がついてきた理由は何だ。あの男は五虎大将の一人。曹魏に来る理由は他にもあるのではないのか」
「それは、何だというのですか」
「貴様の監視だ」
「……そんなことは、ありえません」
「言い切れる理由があるか」
「あります」
「真田幸村。…三成から聞いている。戦場にひとたび立てば、焔の如く突進し勝利をおさめる。兵士たちは真田軍の軍旗を見て士気をあげ、戦功を立てる」
「…三成殿には、叱られてばかりでしたが」
「私ならば、貴様を完全に懐柔し我が軍門に降らせる。その為ならば、五虎大将の一人を監視につけ、完全に信じ込ませることなどわけもない」
 そう言った曹丕の眼光は鋭く、幸村に嘘などつかせる隙を与えぬような威圧感があった。とはいえ、幸村にしてみれば曹丕の言い分の方がよほど不自然だ。
「それは、そうまで私を評価してくださっている、と考えてよろしいのですか。曹丕殿」
「三成があそこまで他人を褒めるのは珍しい。ならば相応の者なのだと判断した」
 ざわ、と風が木々を揺らす。その音が幸村の耳に不快なほどに不自然に響いた。視線だけをそちらにやる。
「蜀が瓦解したのは劉備が死んだという噂があったからだ。趙子龍も捕らえられた。その間、蜀の人間はそれなりに纏まってはいたが烏合の衆にも等しい状態。ようやく奴が逃げ出し、反乱軍として戦い出したのはずいぶん経ってからだ。実質、蜀を纏めたのはあの男。そんな奴を、劉備はあっさりと外へ出す。劉備という男が考えていなかったとしても、諸葛亮は考えていただろう」
「………」
「もう一度聞く。可能性はないのか」
「ありません」
 幸村の様子は断固としていて揺るがない。曹丕の鋭い眼光にも怯まず、じっとその目を見つめ返した。
「少なくとも、趙雲殿にそのようなことはありません」
「随分信頼したものだ」
 淡々としてはいたが、曹丕にそれ以上問いただす気がないのはわかった。
 わざわざこうして一人になるのを待っていたのだろうか、この人は。
 そう思い、口を開こうとした時だった。
 また、ざわ、と風が木々を揺らす。
「三成と話は出来たのか」
「…いえ」
 幸村が寂しげに笑う。三成とはまともにまだ口をきいていない。
 この土地を訪れた際に、部屋へ案内されてそれっきりだ。後は避けるように三成が姿を消す。そうまでされては、まともに声をかけるのも難しかった。
 曹魏の人々もこちらに気を遣ってくれているのか、よく顔を出して様子を見にきてくれる。それが幸村にとっては嬉しいことではあったが、うまく三成に話を聞く機会を得られずにいるのだった。
「あの男は存外愚かだな」
「何かお考えがあるのではないでしょうか。…私などには、わかりかねますが」
「…寝込みでも襲うのだな。さすがにそうまでされては逃げられまい」
「そのような」
 曹丕は薄く笑う。
「私が甄にやった花を、三成も手折っている。誰にやるものだろうな」
 ざわ、とまた風が木々を鳴らした。
 それを合図にしたように、曹丕は先ほどから不自然なほど吹いていく風を睨むように空を見上げると、踵を返した。
 幸村はその背に慌てて声をかける。
「あ、あの!」
「おまえがいると、三成が面白い。なんならこのまま曹魏に居ついても構わん」
 その言葉を最後に曹丕は振り返ることなく真っ直ぐにもと来た道を戻っていった。わざわざ幸村が一人になったのを見計らってここまで来だろう。
 そうして一人になってから、考える。
(考えたこともなかった)
 趙雲が同行してくれたことは、単純な好意だと思っていた。考えてみれば曹魏に蜀の五虎大将の一人がいることは、なんともいえない奇異な状況だ。
 そう考えて、曹丕の言ったことも別段おかしなことではないと知る。
(私の行動を、諸葛亮殿が考えていた?)
 もしもそうなのだとしたら、それはそのまま、この天下三分されたその時の、その歯車に乗ったということか。

―――あの方はいつも大局を見られるお方。

 月英が、自分に言い聞かせるようにして諸葛亮のことを話していたのを思い出す。先の先まで見通して、これから起こる何もかもを知るように。知っているように。
 もしそうならば。
(あの人は知っていただろうか、遠呂智が倒れても世界が元に戻らないこと)
 いつ元に戻るのか、どこに帰るのか。
 この世界はこれからどうなるのか。
 幸村は、ふと顔を上げた。風に揺れる木々は夜の闇に紛れてよく見えない。
 ただ、時折不自然に揺れる木々に幸村は独り言のように呟いた。
「気づかれていたぞ。…くのいち」

 趙雲はふと人の気配に気がついた。誰かがいる。なんだろう、と眠りに落ちかけていた神経が唐突に研ぎ澄まされた。
(一人)
 敵だろうか。それにしても殺意ともなんとも言いがたい妙な殺気を放っていて気にかかる。第一、暗殺目的ならばこんなにあからさまな気配を残したりしないだろう。
 暗殺ではないなら、なんだ。曹魏の人々とは一通り話をしている。夏侯淵を筆頭に、あらゆる人々がこの数日のうちに幸村と趙雲とに挨拶をしていた。
 そして名目上、曹子桓の客分、として扱われていることはわかった。
 わざわざそういう根回しをしてくれたかどうか知らないが、邪険に扱われず、かといって今回の訪れたことの目的を探るような人々に、相応の対応だな、と思っていた趙雲は今この部屋のそばで感じる妙な殺気には首を傾げるばかりだ。
(殺気、のような気がするが…違うのだろうか)
 今にも戦場で名乗りをあげそうな気配なのだが。そう感じていた趙雲はふと一人、思い当たって立ち上がった。
 この部屋に用事があるのならば、外にいる人物は趙雲か幸村が目当てだろう。殺気といえばそうかもしれず、変に気負っているだけだと言われればそうかもしれない。
 趙雲にはこの曹魏にそういった風に接する人はいない。ならば、幸村か。 そうなると、おのずとその人物は絞られた。
「……」
 そこまで答えを導けば、確かめてもいないのにそうとしか思えなくなった。部屋の前をうろつく人物は行ったり来たりを繰り返している。この数日間の中で、唯一きちんと二人の前に現れていないのは今ではもう一人しかいない。
(…教えるべきだろうか)
 幸村は夜もだいぶ更けてから、一人部屋を抜け出している。
 気配は感じていた。おそらく眠れなかったのだろう。ここ数日、幸村はあまり眠っていない。口には出さないし、表情にも出さないが、あからさまに親友に避けられているのはわかっているのだし。
 意を決して、趙雲が部屋を出る。こちらが動いたことで、相手は慌てて身をひそめたようだった。
 そこまでする理由がわからないが、勢いよく外へ飛び出した手前、さてどうしようかとしばし腕を組んで考える。
 こうして、ここにいてどうするべきか悩みに悩む。
 殺気と勘違いされるほどだった相手だ。どう考えたところで、彼は逢いたくてここに来たはずだった。
(よし)
 幸村が無理をして笑っているのは知っている。趙雲はここに来てからずっとそれを気にしていた。
 だからこそ。
(私が何とかしてみせる!)
 妙な気合をいれて、趙雲はまず少し芝居がかった動きで周囲を見渡した。
 それから、あからさまに聞こえるように、しかし声はひそめたままで呼んでみる。
「幸村殿ー…」
 わかりやすいくらいわかりやすい気配が、一瞬反応したような気がした。
 見えないだろうから、思わず苦笑してしまう。そんな風に反応するなら、最初から面と向かって話をすればいいものを。
 幸村を探すふりをしながら、趙雲は幸村が気に入っている庭の方へ歩みをすすめた。しばらく歩けば、やはりそこには幸村がいて。
 そして曹丕がいた。
(…おや)
 すでに話は終わっていたのか、曹丕はすぐにその場を離れた。一人残された幸村は、しばし物思いに耽っていたようだったが、そのうち庭にある大きな木へ声をかける。まるで、誰かがそこにいるように。

「気づかれていたぞ。…くのいち」

 ざ、と木々が揺れる。風か、と思ったが頬を撫でる風は決して強くはない。不自然だった。
 そして次の瞬間、幸村の目の前に一人の女性が降り立った。
 あの身のこなしはおそらく忍者―――。
「いいんですよぅ、気づかせるためだったんですからぁ〜」
「何かあったのか。そなたにはずっと単独で行動させていたが…」
「そうですよ〜。大変だったんですから!幸村様、顔合わせても他人のふりをしろなんていうからぁ」
「遠呂智にあまり私の手の内を知られたくなかったのだ。そなたには悪かったと…」
「はいはいっ。いいんですよぅ、影であたしがどれだけ大変だったかなんて幸村様は知らなくていいんですっ」
 泣き真似をしている女は幸村の配下だろうか。その会話に趙雲は出る機会を逃して、さてどうしたものかと考える。趙雲の目的は後ろをついてきているあの男を幸村の元まで連れていくことだ。
 このままでは立ち聞きしてしまうことになるな、と思えば後味が悪い。
 声をかけようか、と口を開きかけた瞬間だった。
「にゃはん、立ち聞きしてる人みーつけた!」
「!」
 趙雲が動くより早く、至近距離に例の女がこちらを覗き込むようにして立っていた。動きが見えなかった。その無遠慮な距離と、その身のこなしの速さに息を呑む。
「くのいち!」
「はいはぁ〜い!」
 幸村の叱咤が飛べば、すぐに女は幸村のもとに戻った。その足取りの軽さから、やはり忍びであることを知る。名前が本当にくのいちなのか、それとも違うのかは趙雲には判断できなかった。
「申し訳ございません、趙雲殿」
「いや…凄いな」
「しのびたるもの、これくらいはできませんと〜」
「…そうか」
 真田軍には影で暗躍する忍びの集団がいる、というまことしやかな噂はあった。ただ、趙雲がそれをまともに見たのはこれがはじめてだ。しかもこれだけ若い女がいたとは。
「報告があるのだろう?わざとらしく気配などさせて…」
「いいんですよぅ、ここ、敵地なんですから!」
「私は曹丕殿に客分として扱われている!理由なくそのようなことを」
「理由、なくはないんですよねぇ〜」
 幸村がこんな風に強めの口調で誰かと話すのは珍しい。蜀の人間といた時の幸村は、戦場に立てばこそ武将らしく兵の士気を高め、自ら先陣切って突撃していくが、ひとたび戦場からひけば大人しい男だ。
 配下の人間だからかもしれないが、それ以上に遠慮のない関係にも見えて、趙雲は何故だか酷く安堵した。
 幸村に、そういう相手がいないのではないかと思っていたのだ。
 石田三成はあの態度だし、幸村は不安をあまり表立って見せないがそれでも伝わってくるものがある。
 だから単純に嬉しかった。
「いいですか、二人とも!ここは曹魏!ただで泊めてやるのもただで帰すのも惜しいって思ってる、戦功を立てたい人はいっぱいいるんですよん?」
「標的は私だろう?」
 趙雲が肩を竦めてくのいちに問いかける。くのいちがまさにその通り、というように頷く。
「…やはり、趙雲殿…」
 幸村の顔色が曇ったが、すぐにそれを制した。
「大丈夫。さすがに手は出さないはずだ」
「でもきっかけさえあればってやつですよねぇ」
「作らせないさ」
 趙雲が笑えば、くのいちはヒュー!と口笛を吹いた。はやし立てるような行動に幸村は眉をひそめかけたが、趙雲の言葉にやはり感心したようだ。
「さすが趙雲殿…」
「あ、それからですねぇ。お館様から言伝でーす」
「お館様からか!」
「直江兼続が幸村様のところに向かってますよぅ」
「兼続殿が!?」
「以上、お知らせでした!では退散するのだ〜」
どろん!と一声かけて、また目にも留まらぬ速さでくのいちが姿を消す。とはいえ、おそらく近くに潜んでいるのだろうが。
 思わず姿が見えなくなったことも手伝って、つい率直な感想がもれた。
「明るい」
「あまり忍びらしくなく…」
「あの年の女性があまり忍びらしくあっては、寂しい」
「…はい」
 はにかむように笑う幸村に、趙雲も笑う。そしてそこでようやく思い出した。
(しまった…)
 今の会話はさほど声をおさえていなかった。少し離れたところで聞いていれば筒抜けだったかもしれない。趙雲のことを見抜いたくのいちが、趙雲を追ってきていたはずのあの男に気づかないはずがないが。
「…幸村殿」
「はい?」
「いや…」
 気配がない。
 逃げられたか、今のを聞かれて立ち去られたか。それとも今は機ではないと戻ったか。とにかく結果は同じで、あれだけはっきりしていた気配が、もうない。
「…一つ、聞きたいのだがいいかな」
「はい、何でしょう」
「幸村殿と、三成殿は親友、でいいのだろうか」
「…は」
 間抜けなことを聞いた、とは思ったが、すまない、と言おうとした幸村の表情が意外で目を瞠る。
「…どう、でしょう、ね」
(…これは)
 幸村は笑っていた。
 笑っているのだけれども。

 なんだか、泣いているようにも見えたのだ。



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三国の人が難しすぎてたまらん。