「どうするのだ、孟徳」 庭先でそんなことが起こっているとは露とも知らぬ夏侯惇が、黙りこんでいる男に声をかける。 「まだ動かん」 「やりようはいくらでもあるぞ」 周囲には彼ら以外の誰もいない。外の光は眩しいほど眩しいが、彼ら二人には届かない。 「今は機ではない」 彼が思い浮かべるのは蜀の五虎大将の趙子龍。彼が真田幸村を連れてこの曹魏の中心にやってきた。いくら友人が元の世界の親友を訪ねたいと言ったとはいえ、それで何も考えずにここまで来るようなお気楽な人間ではないだろう。 ただでさえ蜀は遠呂智に劉備を捕えられ、瓦解し、国を失っていた。 劉備が解放されたという噂はすでにこの曹魏にいても聞こえてくる話だから、彼を慕う民が蜀に戻っていった可能性も大いにある。 曹魏にしても、孟徳が死んだという噂が流布し、曹丕が遠呂智と同盟を組み、多くの者が去っていった。 今は疲弊し膿んだ状態だが、やがてまた曹魏の、彼の覇道の為に立ち上がらねばならない。 だからこそ。 「これが何を狙ったものかは知らん。が、奴らをここで討てば泥沼だ」 劉備は民を見捨てない。それと同じく、将の一人だとしても見捨てないだろう。たとえばここで趙雲を討ったとして、果たしてそれがどう動くか。歯車はどう廻るか。 たしかに、五虎大将であるあの男を討つには今が最高の機ではある。 が。 「ふん、随分と良い時期に訪れたものだな」 夏侯惇が舌打ちするのに、孟徳自身もわからないでもない。 民は疲弊し、兵士たちも、将軍と呼ばれる者たちですら同じく。曹魏は戦の中に長い間、身を置きすぎた。それでも曹丕の策はそんな中で一番合理的であったとも思う。 彼が遠呂智のもと、同盟を組みひそかに力をたくわえていたおかげで孟徳自身は傷を癒し潜伏していることが出来た。息子である曹丕は期待以上の動きを見せた。真正面から戦うばかりが国を守ることではない。 だからこそ。 (我が息子がこの覇道を継ぎ、頂に立つのを早く見たいのだがな) 曹丕にはそれだけの力がある。そう思っている。 「孟徳。ならばあの男はどうだ」 「…真田幸村か?」 「あの男は蜀の人間ではない。劉備の配下でもなければ、趙子龍の配下でもない。遠呂智を倒す中で手を組んでいただけだ」 「…確かにな」 「正直この機会をみすみす逃していいものなのか、俺にはわからん。蜀の将を討つことは出来ずとも、瓦解する芽は残してもいいはずだ」 「…焦っているな、夏侯惇よ」 「……そうかもしれん」 夏侯惇がたびたび戦場に姿を現した時、孟徳とよく似た男がいた。 ―――織田信長。彼の不気味な噂は数多くある。亡者を見るな、生者を見よと促したのもあの男だった。孟徳とよく似た男だが、彼は自身を第六天魔王と呼び、実際目に見えぬ力を持っているようにすら見えた。 夏侯惇からしてみれば、遠呂智が魔王と名乗るよりよほど魔王らしい男だった、と思う。 この歪んだ世界、これがこのまま続くのならば。 織田信長は確実に三つに分かれた元の国を呑みこむ力がある。 「直接的に何かを成すのは許さん。今あの二人は子桓の客分。子桓の立場が揺るがない方法があるならば、止めん」 「………難しい注文だ」 「当然だ。期待しているぞ」 孟徳が、言葉にせずとも息子のことに愛情を持っていることは知っている。 息子の曹丕は決して他人に甘えることをしない。それは父親にしても同じこと。そういう息子であればこそ、表立って見せることは出来ないが。 「孟徳、ずいぶんと息子思いではないか」 「あれが生まれた時からそうだが?」 二人は苦笑した。結局どうするのか、この機を逃すのか。やすやすと決めることが出来ない。 孟徳だとて、おそらくは真田幸村をはじめとする武将たちの名前は知っているだろう。彼が傷を癒し、潜伏している間、彼は情報収集も怠らなかった。 曹丕と共に遠呂智軍に与し、時には曹丕の監視役だった石田三成も、元はといえば彼等の時代に生きている人間ではない。 彼等が一体どういう人物であるのか、それを知るために。 (遠呂智に抵抗した中で目立っていたのは…武田、上杉、そして織田か…) その誰もが、蜀や呉の人間に劣らぬ人物であることは、わかっている。 (奴等は、どう出る) 必要な最初の一手は、何だ。 夏侯惇は、見えない何かを睨むように、隻眼の目で前を見据えた。 謙信に願い出て、少しの間この世界を見てまわりたいという兼続の意思は通った。謙信は相変わらず無口だったが、軽く頷いた。一人か、と問われたので「はい」と答える。 どうなるかわからない以上、一人で行った方が気楽だ。 「まずは幸村か三成を探そうと思います」 慶次の所在が一番気がかりではあった。遠呂智に対して同情以上に何かを感じていたように見える彼は、元の世界にいるよりも、輝きが薄れていなかったか。彼はもっと大口開けて笑って、喧嘩と戦は派手にやろうぜ、と。 (それとも私の知っている慶次が、偽であったか) とにかく慶次の居場所を知るためには情報を得なければならない。 まずは幸村に逢う。そして如何様にも説得して、三成のところへ共に行く。 遠呂智軍にいた三成ならば、何か知っているかもしれない。 (とはいえ、曹魏は途中遠呂智軍から離反したのだったな) 兼続の元の世界の記憶は、幸村が上田で徳川軍の足止めをし、兼続が家康に対して書状をしたため、それぞれが別々に挙兵をした。そこまでだ。 もしあのまま遠呂智が現れず、世界を歪めることがなかったら、実際どうなっていたのだろう。 この世界に来て、謙信も信玄も生きていることに驚くよりも喜びを見出した己は。 「では、いってまいります!」 遠呂智の歪めたこの世界。これがどのようなからくりでどうなっていくのか、それを知りたい。 僅かな情報でもいい。ほんの少しでも知れる可能性があるならば、それを知りたい。 (そういえば山犬も遠呂智軍だったな…) また不義に与するか、と思ったものだったが、多少なりとも雰囲気が違ったように思う。 あの男もまた、遠呂智をよく知る一人。 一体何故そうなったのか。どこで遠呂智を知る機会を得たのか。それは元の世界の繋がりを失ってもいいと思うほどの存在であったのか。 わからないことだらけだ。 考え考え厩にたどり着き、馬に乗ろうとした瞬間だった。 「兼続殿!」 呼ばれた兼続が振り返れば、そこには織田軍にいた関平が立っていた。息が上がっている。何か慌ててここに来たような印象を受けた。 「どうした?何かあったのか」 「旅をされると聞きました!」 「早いな。どこで聞いた?」 「信玄公です。信長様は拙者にこれから好きにしろと仰せで」 「?」 「お願いがあります、連れていっていただけませんか!」 「……目的は蜀の人々か?」 「拙者は…これからどうするかまだ考えが纏まっておりません。ただ、遠呂智が倒れた今。拙者は逢いたい人がいます」 「…どういう人だ?」 「え、ええとですね。拙者はその…想う人が」 しどろもどろになりながら、顔を赤らめて言う関平の様子は、確かに真剣に想う相手がいることを想像させた。 誰だとは聞く気にならなかったが、兼続が遠呂智の足跡を辿り、ひいては慶次や三成たちに会うという目的と彼のそれも似たようなものだ。 「そうだな、関平殿ならば心強いことだ」 「…!ありがとうございます!」 嬉しそうに言う関平に、ふと幸村を思い出す。たしか幸村は真田の一族で軍を率いていたはず。どういう経緯でそうなったのかは知らないが、それが趙雲と行動を共にするようになった、という噂は聞いていた。 残念ながら、兼続はその幸村を目の当たりにすることは一度もなかったが。 幸村もこんな風に素直な奴だった。 三成の氷のような態度もあっさり溶かすほどの素直さで。 思わずそれを思い出して口許に笑みがこぼれた。 「準備はいいのか?」 「大丈夫です!すぐに出られます!」 元々さしたる準備などありませんから、と笑う関平に兼続も頷いた。 関平はこの世界が出来た時、おそらく一番の被害を受けた蜀の人間だ。 己の手に馴染んだ得物と、旅をするに必要な路銀さえあれば十分。 「そうか、では…」 いこうか、と口を開きかけたところで、今度は甲高い声がかかった。 馬に乗ろうとしていた関平はその声に驚いて思わず落馬しかける。慌てて兼続が手を伸ばそうとしたところに現れたのは凌統と阿国だった。 「平ちゃん、どこいかれはるんどす?」 「お、阿国殿!」 先程の兼続の問いに対するよりもしどろもどろになった関平が、阿国の問いに答えられずに困っているのを見て、兼続が口を開いた。 「遠呂智の足跡を辿るのだ。世界は元に戻るのか、それを確認する」 「へぇ。そいつは俺も興味あるね。けど見つかるかい?」 兼続の言葉に興味を持ったのは凌統だった。軽い雰囲気の彼も、その目は真剣だ。今後のこの世界に興味がない人間などいないだろう。 「慶次に逢おうと思う」 途端に阿国は少し勢いをおさめた。今にも関平を馬からひきずり下ろしそうに見えたが、ふと考えるような色が浮かぶ。 兼続はそれを見逃さなかったが、言葉にすることもなかった。 「…そうどすかぁ…。なら、見つけはったんなら、伝えとくれやす」 「何を?」 「迷うたんなら、連れていきますえ」 「誰に伝える言葉だ?慶次…いや、遠呂智か、それとも」 「兼続さまに、お任せします」 ふわりと微笑むと、阿国は踵を返した。阿国は関平がこの地を離れるのを嫌がっているように見えた気がしたが、遠呂智の名が出た途端に勢いがおさまった。 「…何か、知っているのか?阿国殿」 「さぁ、どうでっしゃろ」 (言う気は、ない…か) 阿国が慶次に惚れているのは知っている。恋多き女だという阿国は、それこそ幸村や三成、左近にだって迫ったものだ。ただ、彼女のそれはどちらかといえば無邪気そのもので、直接的な感情ではないように思えた。 彼女が良いと思えたものを、ただ彼女の言葉で表せばああなるのだと。 兼続はそう思っている。 だからこの世界に来て、阿国は慶次と逢った時どんな言葉を交わしただろうか。あの光を失ったような慶次を見ただろうか。行くべき道に迷わぬふりで迷っている、そんな慶次を見て。 「…うけたまわった。伝えよう」 「よろしゅう頼みます。さ、凌統さま、いきまひょ」 「え?いいのかい?」 凌統がちらりとこちらを見る。しかし振り返らない阿国も放っておけなかったのか、一瞬迷ったあとに兼続に向けて懐から取り出した何かを放り投げた。 慌ててにそれを受け取ってみれば、袋の中にはいくらかの路銀が入っているようで。 「凌統殿!」 「呉の奴らにもしも会えたら伝えてくれよ。俺は元気だって。んじゃ、頼んだ!」 それだけ告げると、凌統は阿国を追って厩を出た。 ということは、凌統はもうしばらくはこの地にいるということか。もしくは、織田信長を新たな主として仕えるのか。 どちらかは戻ってくる頃には知れるだろう。 「…行こうか、関平殿」 「はい!」 わからないことばかりだ。 阿国や慶次や、そして伊達が見たのは一体なんだったのか。 遠呂智とはそれほどまでに彼らを魅了してやまないような、そんな存在だったのか。 兼続にとって、そういう存在はすでに在り、常に何事においてもその人が中心にいる。 (遠呂智よ) 魔王と自らを呼ぶ者。人と違う力を持ち、一度は全てを破壊した者。 (おまえは謙信公を越える何かを持つ者なのか) ずっと、考えている。
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