三成は、じっと幸村の鉢巻を見つめていた。 鉢金の部分に、六文銭の連なっているそれは、真田家の戦への姿勢を窺わせるものだ。それは三途の河、渡し守に渡すとされているもので。いつだってそれを渡せるぞという、戦への死を恐れぬ気概が込められている。 真田家の旗印はその六文銭。 幸村自身も、死を恐れぬ戦いぶりを見せることがままあった。 そして今。 (幸村…っ) ぐ、と力を込めた。握り締める手が震えている。 ―――我が君のかわりに、…死出の旅に出れば、我が君を助けると言われて…幸村殿は。 錯乱している甄姫から聞いた話。 曹丕は妲己とどこかへ行った―――おそらくその段階で操られでもしていたのか。あの曹丕がそんな風に簡単に操られるなど想像できなかったが、つけこまれるだけの何かがあったのかもしれない。 妲己が、何故曹丕を選んだのか。どうしてその身代わりに幸村を選んだのか。三成には何もわからない。妲己とは遠呂智軍にいた頃に行動を共にする機会は多かったが、こんな時の「どうして」に答えられるほど、三成は完全に彼女を理解などしていなかった。 どうすればいいのかわからない。 妲己を待つのか。曹丕が戻るのを待つか。そんな風で、いいのだろうか。 そうしている間にも、幸村は戻れなくなるのではないか。曹丕の身代わりになって、あっさりと。 考えれば考えるほど恐ろしい。震えが止まらない。 このまま戻ることがなかったら、どうなる。 ―――遠呂智の力を手にした。片目の色と引き換えに。 前田慶次が言う通りならば、この目の色は、この世界に希望を見出した証。この世界が、元に戻らなくていいと思った人間に灯るもの。 だけれども。 (幸村がいなくなったらどうなる。幸村がいないのに、この世界にいていいなどと…) そんなこと、どうして思えるというのだ。 それくらいなら、元の世界に戻って、あの戦に負けてしまう方がよっぽどましだ。この世界で、幸村がいないまま、なんて。 (駄目だ…そんなのは、駄目だ…!) この世界に放り込まれて、その世界がたった一人の男が創った世界であると知った時。 負け戦の大将だった自分を、哀れまれたような気がした。もう一度夢を見せてやると言われたような気がした。 どんな理の中でこの世界が生まれ、自分たちが選ばれてこの世界へ来たのか。 そして何故、あの時間、あの瞬間を切り取られてここへ来たのか。 それを、知りたかった。だから遠呂智軍についた。結局知ることなど出来なかったが、それでも新しい仲間を得た。同じような考えを持ち、時を待っている男。皆が不満を抱えていても、自分の考えを曲げず、ただひたすらに時を待った。 ―――曹丕。 考え方がどことなく似ている男だった。 幸村や兼続や、そういった元の世界での仲間たちとは離れ離れだったが、それぞれが無事なのは知っていた。妲己の元にいれば、そういう情報はいくらでも入ってきていたからだ。 幸村が、趙雲たちと一戦交えた後、誤解があったことを知り協力する事になったのも。 謙信と信玄が手を組み、また秘密裏に信長と手を組んでいることも。特に合議を持たずとも、その三人は互いの役割を汲み取って、それぞれの方法で勝利にこじつけたことも。 そしてその謙信の元で、兼続が戦っているということ。 ―――全部、知っている。 だから、気にせずにいられた。遠呂智を倒しても戻らない世界に、困惑はあったけれど、ならばここでどうするべきか、それを考える必要があるかもしれないと、そう思っていた。 ただ、どこかで誰もが同じように、いつか戻れると思っていたのかもしれない。 戻ったらどうなるのか。 そう考えている頃に、幸村が趙雲を連れて三成に逢いにきた。驚いて、嬉しいと思う半面、もしも戻ることになった時、自分がどうなるかわからないうちに。 城が攻め込まれ、その中で三成の入る余地のないような、趙雲と幸村の関係を知って、こんなにも自分が嫉妬深い人間だったのかと思うほど嫉妬した。 それもこれも、幸村がいたからだ。 幸村がいないなら意味がない。 (…幸村…) こんな力はいらない。 元々望んだわけではない。だから。 ―――幸村。
趙雲はずっと、腕組みして考えていた。 曹丕が連れていかれたのと、幸村がその曹丕の身代わりになれば、と言い出した、そのどちらもが妲己が関係している。 では妲己は今どこにいるのかといえば、趙雲や三成にはわかるわけもない。 甄姫の話では、幸村を連れていった妲己は幸村と共に消えたという。よほど呼び出す術でもない限り、それではどうやって幸村と曹丕のもとへ行けばいいのか。これでは助けることも出来ない。 甄姫は先ほどからずっと笛を吹いている。その音色がまた哀しくて、自然こぼれるため息に趙雲は頭を掻いた。 これではまるきり葬式だ。 なんとか、どうにかこの現状を打破できないだろうか。そう考えて、はたとある事に気づいた。 (…そうだ。諸葛亮殿…) 渡されていた錦の袋のことを思い出す。慌てて懐の中からそれを取り出した。小さなその袋の中には、「困った時に見てほしい」と言われていた。私の策が入っている、と言っていた諸葛亮のことを思い出す。それは頼もしい、と喜んで受け取ったものだ。 これまで、こういうどうしようもない状況にならなかったから、一度も確認することがなかったが。 一体何が書いてあるというのか。おそるおそる趙雲はそれを紐解いた。 そして。 「…………」 思わずがくり、と肩を落とした。 (…諸葛亮殿…っ!) 袋の中に後生大事にしまわれていた、諸葛亮の策。どんな時でもいい、趙雲が危機に陥って進退窮まった時に、使ってくれと。 言われたそれに書いてあったのは。
『深呼吸をして周囲をよく見ること』 それだけだった。 少し考えてみればわかることだ。趙雲がどんな状況に出くわし、どんな目に遭うかなど、その場にならないとわからない。そして諸葛亮は同行はしない。そうとなったら、言えることなどさほどない。 ―――にしても、これは。 いや、もういっそ他にやる事などないのだ。そう思い、趙雲はやけくそ気味に大きく深呼吸を数度繰り返した。周囲をよく見ろといわれても、ここは甄姫と曹丕にあてがわれた部屋で、そこにいるのは趙雲以外に二人だけ。 甄姫と、三成。 甄姫は哀しい音色を奏で続けているし、三成は三成で、幸村の鉢巻を握り締めて思いつめた様子だ。慶次いわく三成にとって幸村は特別なのだろうから、そう思いつめるのも仕方のないことではある。 ふと。 そういえばこの人は遠呂智の力を得ているのだと気がついた。 政宗と同じように。 この世界を創り上げ、趙雲や幸村たちを呼び寄せた遠呂智の力。 「…三成殿」 「……」 趙雲が呼びかけても、三成は返事をしない。顔を上げようともしなかった。ただじっと、幸村の鉢巻を握っている。それだけだ。 「三成殿、あなたは遠呂智の力を得ているのではないですか?」 「……」 「だとしたら、何とかなりませんか。その力で」 三成は答えない。だが趙雲は構わず言った。すると、しばらく黙っていた三成が、怒りを滲ませた声で反論する。 「……出来るものならとっくにしている…!」 反応があったことに、趙雲は拳を握った。三成は幸村を助けたいと思っている。それは間違いない。だからこそ、畳み掛けるように言い募る。 「試されたのですか?試してないでしょう?試してみませんか」 「俺は遠呂智ではない!」 「だがその力を得ているではないですか!」 「こんな力、何の役に立つ!!」 「だから今、役立つかもしれないと言っているのです!」 「簡単に言うな!」 「他に方法がないのだからしょうがないではないですか!」 「出来るわけが…っ!」 ない、とそう言おうとする三成を、趙雲は遮った。普段ならこんなに矢継ぎ早に叫ぶことなどない。いつかどこかで、誰かを必死に止めようとしたことはあった気がするが―――それは、今はどうでもいいことだった。 「そう決め付けているだけでしょう?あなたは幸村殿を助けたくないのですか?曹丕殿と親しくしていたのではないのですか?義の誓いというのはそんな程度のものなのですか?」 「うるさい…!!」 ―――頼むぜ、俺の望みはそれだけだ。 そう言った慶次のことを思い出す。その時に言われた。 ―――石田三成をな、その気にさせてやってくれないかい。 慶次が望んでいたのはこういうことではないだろうか。三成を戦う気にさせるとは。 その真意は、よくわからない。だが今の三成は、始まる前から打ちひしがれてしまっていて、立ち上がろうとしない。ならば、と趙雲はさらに言った。 「あなたはこの世界を望んだのでしょう?それはこんな世界なのですか。幸村殿が死んでもいいと…」 「いいわけない!!」 一際大声で、三成が怒鳴った。その声に驚いて、甄姫の笛の音が止む。 「いいわけがない!幸村がいなくて、それでどうしろと言うのだ!!」 「ならば、助ける為の、細い綱でもなんでも、掴みましょう。あなたの力は、その為のものだと、そう思うことは出来ないのですか」 「俺は…っ」 「私だったらそうします。守るべき人がそこにいるなら、たとえ敵軍一万の中でもかいくぐってみせる。あなたはどうです。幸村殿の為に、持てる力を全て使おうとは思いませんか」 「……っ」 「幸村殿なら、やりますよ。あなたの為に」 そうだ。曹丕の為に身代わりになると言い、また知りもしない劉備を助け出す手助けをしてくれた。そういう人ならば。 幸村を引き合いに出し、三成の反応を待つ。それは予想以上に三成の感情を昂ぶらせたようだった。 「…幸村に…」 「……」 「俺は、ここに来る前は戦場にいた。関が原だ。家康と戦っていた。俺が負けるわけがないと思っていたが、どんどん劣勢に追い込まれる。その時に、俺が…俺が、どう思っていたか…」 三成の声が引き攣っている。顔を覆っているのでわからないが、もしかしたら泣いているのかもしれなかった。 「幸村がここにいてくれればと何度思ったか知れん。あの声で、あの笑顔で、大丈夫だと言ってくれればこんな戦、と…っ」 その声に。 幸村への感情が痛いほど滲んでいて、普段だったらこんな声でそんな風に言われてしまったら、聞いてはいけないものを聞いてしまった、と思いそうだった。それくらい、三成の声は切羽詰っている。 だが今は、退けなかった。 「三成殿」 「助けられるのか。俺が…っ幸村に、こんな…こんな想いまで抱いていて!」 「だからこそ、助けるのですよ。あなたが」 「………」 「特別なのでしょう。必要なのでしょう?なら、それでいい。助けましょう」 趙雲の言葉に、三成が顔を上げた。その表情に、趙雲は酷く驚いた。 人形のような面立ち、とそう思っていたものが。 こんなにも人間らしい顔をしている。こんなにも、幸村を焦がれている。 「幸村…っ」 その時だった。 強い光が、部屋を覆った。咄嗟のことで、何が起こったかわからず、その場にいた三人は視界が白く灼かれていくのを感じながら耐えるしかなかった。 ―――どれほど経った頃だったか。 その光がようやく力を失った頃。 「我が君…!!」 甄姫が、叫んだ。
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