いつか太陽に落ちてゆく日々 42




 死ぬかもしれない、と思ったのは―――はじめは長篠だった。
 気がつけば妲己はいなかった。そして、幸村は一人立ちつくす。ぽつぽつと身体に当たるのは大粒の雨。そして。
 遠くに見える、馬坊柵。鉄砲隊。
 幸村は眩暈がするのを堪えた。必死に踏ん張ろうとする。ここはどこだ。自分は妲己にどこへ連れてこられたのだ。
 何故ここは、あの地獄をそのまま思い出させる?
 あの地獄―――長篠を。
 そうしていると、号令がかかり、武田菱のついた旗が、そして馬たちが走り出す。どどど、と地鳴りがする。馬たちも、そして誰もが、戦国最強という気持ちのまま。真っ直ぐに。何の策もなく。
「―――っ」
 待て、と叫ぼうとした。が、それはできなかった。気がついたのだ。先陣を走る姿。青い外套。黒髪が腰まで伸びて―――あれは。
「…っ曹丕殿!!」
―――曹丕さんのかわりに、あなたが行くなら、連れ戻してあげる。
 幸村はまるで自分用に用意されていた馬に飛び乗った。そして、猛烈な勢いで馬を駆りたて、走り出す。
 武田菱がついていようが、関係がなかった。ここは現実の世界ではない。現実の世界に、曹丕などいるわけがない。武田菱がついていようと、それらは全て幸村を惑わすものに他ならない。歯を食いしばり、槍を振るった。炎が灯ったように、猛烈な勢いで周囲の武士たちを吹き飛ばす。
 まだ鉄砲の発射はない。幸村は行く先を阻む全てを薙ぎ払いながら、曹丕に向かった。
 視界の隅で、鉄砲隊が構えているのが見える。
「曹丕殿!!」
 叫ぼうとも、曹丕は振り返らない。馬もまた、勢いを緩めない。
 幸村もまた馬を急がせた。そして、ついに曹丕の横につける事に成功する。
「曹丕殿!」
 もう一度呼びかける。が、やはり反応はなかった。幸村は手を伸ばす。手綱をとろうとするが、そうそううまくいくはずがない。そうしているうちに、ついに鉄砲隊の号令が、何故だかはわからないが幸村の耳にはっきりと聞こえた。
「撃てー!!」
「……っ!!」
 途端、手綱を掴むことに成功した。勢いよくその手綱をひいて、手を離す。馬が嘶き、興奮した様子で足を止めた。自然、先頭に立ったのは幸村一人。
 そして。
 どん、という鈍い音がした。
 幸村はその衝撃に、一瞬言葉を失った。
 そして、馬上から転げ落ちる。
 泥にまみれた。落ちた衝撃で、槍は手放した。少し離れたところに落ちている。
 曹丕はどうなったか。今の幸村からでは見ることが出来なかった。肩のあたりに受けた鉄砲の傷が、ぱっくりと開いてどくどくと血を流していく。幸村はそれを感じていたが、それでも。
 曹丕を確認しなければ、と立ち上がろうとした。
 視界の先には、相変わらず鉄砲隊が、馬坊柵の向こうから射撃準備をしている。
(同じ、だ…)
 幸村は必死に、泥に塗れた手で地面を引っかく。起き上がろうと何度でも、何度でも。
 甄姫に約束したのだ。大丈夫。必ず無事に連れ戻すと。
 立ち上がらなければならない。何としても。
 しかし力が入らなかった。視界も霞む。
(…三成、どの)
 名を呼ぼうとして、口が開き。
 ぷつり、と意識が途切れた。





 曹丕は、戦の濃い気配にはっとした。
 馬に乗っていることにも驚いたが、見たこともない戦場にいることも、戸惑うに足るものだった。
 ここがどこだかわからない。
 ―――が。
 唐突に背後で鉄砲の音がして、はっとした。振り返れば、その視界の先には累々と続く屍の山。
 鉄砲隊にやられたもののようだった。一体何事か、と向きをかえれば。
 ふと、視界の隅に赤い鎧が見えた気がした。
「…?」
 それが見覚えのあるもののような気がして、じっと目を細めてそれを見定めようとする。
 あれは、何だ?
 何故見覚えがある?
 そして唐突に。
「…真田幸村…!?」
 地に倒れ伏しているその姿を見つけて、曹丕はぞっとした。これは何だ。 一体、何の騒ぎだというのだ。
 そうしていれば、ごく近い位置で聞こえてくる、聞き覚えのある女の声。
「気がついた?曹丕さん」
「―――…妲己」
「ふふ。いい趣向でしょう?ここ、長篠っていうのよ。幸村さんが、仕えていた家が、ここで負けちゃうの」
 長篠。
 ではこれは幸村の記憶の再現なのか。あそこに倒れているのは、本物の幸村なのか。そうならば、早く助けなければいけない気がする。
「…ふん、さすがだな。趣味が悪い」
「そうかなぁ?」
「一体何故こんなところにいる」
 妲己は遠呂智と共に倒したはずだった。生きているのはある程度予想の出来たことだ。だが、一体何故こんな大掛かりなことをするのか。
「だって、遠呂智様がいないんだもの」
「…意味がわからんな」
「私には、遠呂智様のところにしか居場所がないの」
「…だから、なんだ」
「遠呂智様の想いがこの世界を創ったのよ。残してちゃ、駄目なのよ」
 妲己の言葉に、はじめて宿る寂しげな色。残していては駄目、とはどういう意味だ。さらに問おうとした曹丕の目に、酷く切ない表情を浮かべる妲己がうつる。
「…それは…」
「遠呂智様、ちゃんと…殺してあげて」
「どういう意味だ」
「…遠呂智様は、怖いのよ。何度でも何度でも、戻ってこれる。人の、想いがある限り」
「………」
 ―――人の、想い?
「人の想いは強いから。…死んだって残る、そういう想いもあるから…」
「妲己」
「終わりなんかない。始まりもない。だから、せめて、この世界だけは絶対に壊してあげないと」
「……」
 遠呂智は、では人の想いが作り出したものだというのか。それが、世界を歪め、魔王を作り出したとでも?確かに、三成が曹操に報告した話はこれによく似ていた。
 この世界に、希望を見出した人間が、遠呂智の力を得る。この世界に、欲を持った人間が。
 この世界を創った者、それ自体が人の想いで形成されているというならば、納得が出来る気がした。
「ここだけじゃないのよ、他にもたくさん、同じようなことが起こってる。私は、この世界を終わらせる義務がある」
「…義務?」
「私は、遠呂智様のものだもの」
「……」
「ねぇ、だからあの人を助け出せる人を、連れてきてくれない?」
 妲己にしては殊勝なお願いだった。敵―――ではないからなのか。遠呂智がいた頃のような状況ではないからか。
「……それでいいのか」
「だからあなたをここに連れてきたのよ」
「…三成が助けるからか?」
 あの男を。―――幸村を。
「先導する人も、来てるしね」
 先導?と首を傾げた曹丕だったが、妲己はそれにこたえる気はないようだった。
「何故あの男を助けるのが、この世界を壊すのに必要なのだ」
「だって、三成さんは遠呂智様の毒、持ってるから」
「…他にもいるはずだが?」
 曹丕が知る限りで、前田慶次。もしかしたらそれ以外にもいるのかもしれない。
「いるわよ。言ったでしょ。同じようなことがあちこちで起こってるの」
「なるほど。忙しいことだな、妲己」
「そうよ」
「…遠呂智は…」
「私が、連れていくわ」
 はっきりとした意志を秘めた眼差し。世界を終わらせるとか、遠呂智の毒だとか。普段ならば妲己の言うことなど、何一つ信用できないはず。だが、曹丕は頷いた。その眼差しに嘘はない。
 そう思ったからだ。
「…わかった。ようやく貴様と利害が一致したな」
「そうねぇ。ほんっと、出来ればそんな状況になってほしくなかったんだけどなぁ!」
 途端に明るい声音に戻って、妲己が笑う。曹丕はちらりと幸村を見遣った。ぴくりとも動かないその姿は、まるで死んでいる者のようだ。
 そしてふと、耳に届く笛の音。
「…甄」
 目覚めたのか、と呟くと曹丕は笛の音がする方向へ、歩みを進めた。
 それに導かれるように歩む曹丕の背を見つめて、妲己は小さく呟いた。

「じゃあね」

 しかし小さすぎて、その声はついに曹丕の耳には届かなかった。




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