死ぬかもしれない、と思ったのは―――はじめは長篠だった。 気がつけば妲己はいなかった。そして、幸村は一人立ちつくす。ぽつぽつと身体に当たるのは大粒の雨。そして。 遠くに見える、馬坊柵。鉄砲隊。 幸村は眩暈がするのを堪えた。必死に踏ん張ろうとする。ここはどこだ。自分は妲己にどこへ連れてこられたのだ。 何故ここは、あの地獄をそのまま思い出させる? あの地獄―――長篠を。 そうしていると、号令がかかり、武田菱のついた旗が、そして馬たちが走り出す。どどど、と地鳴りがする。馬たちも、そして誰もが、戦国最強という気持ちのまま。真っ直ぐに。何の策もなく。 「―――っ」 待て、と叫ぼうとした。が、それはできなかった。気がついたのだ。先陣を走る姿。青い外套。黒髪が腰まで伸びて―――あれは。 「…っ曹丕殿!!」 ―――曹丕さんのかわりに、あなたが行くなら、連れ戻してあげる。 幸村はまるで自分用に用意されていた馬に飛び乗った。そして、猛烈な勢いで馬を駆りたて、走り出す。 武田菱がついていようが、関係がなかった。ここは現実の世界ではない。現実の世界に、曹丕などいるわけがない。武田菱がついていようと、それらは全て幸村を惑わすものに他ならない。歯を食いしばり、槍を振るった。炎が灯ったように、猛烈な勢いで周囲の武士たちを吹き飛ばす。 まだ鉄砲の発射はない。幸村は行く先を阻む全てを薙ぎ払いながら、曹丕に向かった。 視界の隅で、鉄砲隊が構えているのが見える。 「曹丕殿!!」 叫ぼうとも、曹丕は振り返らない。馬もまた、勢いを緩めない。 幸村もまた馬を急がせた。そして、ついに曹丕の横につける事に成功する。 「曹丕殿!」 もう一度呼びかける。が、やはり反応はなかった。幸村は手を伸ばす。手綱をとろうとするが、そうそううまくいくはずがない。そうしているうちに、ついに鉄砲隊の号令が、何故だかはわからないが幸村の耳にはっきりと聞こえた。 「撃てー!!」 「……っ!!」 途端、手綱を掴むことに成功した。勢いよくその手綱をひいて、手を離す。馬が嘶き、興奮した様子で足を止めた。自然、先頭に立ったのは幸村一人。 そして。 どん、という鈍い音がした。 幸村はその衝撃に、一瞬言葉を失った。 そして、馬上から転げ落ちる。 泥にまみれた。落ちた衝撃で、槍は手放した。少し離れたところに落ちている。 曹丕はどうなったか。今の幸村からでは見ることが出来なかった。肩のあたりに受けた鉄砲の傷が、ぱっくりと開いてどくどくと血を流していく。幸村はそれを感じていたが、それでも。 曹丕を確認しなければ、と立ち上がろうとした。 視界の先には、相変わらず鉄砲隊が、馬坊柵の向こうから射撃準備をしている。 (同じ、だ…) 幸村は必死に、泥に塗れた手で地面を引っかく。起き上がろうと何度でも、何度でも。 甄姫に約束したのだ。大丈夫。必ず無事に連れ戻すと。 立ち上がらなければならない。何としても。 しかし力が入らなかった。視界も霞む。 (…三成、どの) 名を呼ぼうとして、口が開き。 ぷつり、と意識が途切れた。
曹丕は、戦の濃い気配にはっとした。 馬に乗っていることにも驚いたが、見たこともない戦場にいることも、戸惑うに足るものだった。 ここがどこだかわからない。 ―――が。 唐突に背後で鉄砲の音がして、はっとした。振り返れば、その視界の先には累々と続く屍の山。 鉄砲隊にやられたもののようだった。一体何事か、と向きをかえれば。 ふと、視界の隅に赤い鎧が見えた気がした。 「…?」 それが見覚えのあるもののような気がして、じっと目を細めてそれを見定めようとする。 あれは、何だ? 何故見覚えがある? そして唐突に。 「…真田幸村…!?」 地に倒れ伏しているその姿を見つけて、曹丕はぞっとした。これは何だ。 一体、何の騒ぎだというのだ。 そうしていれば、ごく近い位置で聞こえてくる、聞き覚えのある女の声。 「気がついた?曹丕さん」 「―――…妲己」 「ふふ。いい趣向でしょう?ここ、長篠っていうのよ。幸村さんが、仕えていた家が、ここで負けちゃうの」 長篠。 ではこれは幸村の記憶の再現なのか。あそこに倒れているのは、本物の幸村なのか。そうならば、早く助けなければいけない気がする。 「…ふん、さすがだな。趣味が悪い」 「そうかなぁ?」 「一体何故こんなところにいる」 妲己は遠呂智と共に倒したはずだった。生きているのはある程度予想の出来たことだ。だが、一体何故こんな大掛かりなことをするのか。 「だって、遠呂智様がいないんだもの」 「…意味がわからんな」 「私には、遠呂智様のところにしか居場所がないの」 「…だから、なんだ」 「遠呂智様の想いがこの世界を創ったのよ。残してちゃ、駄目なのよ」 妲己の言葉に、はじめて宿る寂しげな色。残していては駄目、とはどういう意味だ。さらに問おうとした曹丕の目に、酷く切ない表情を浮かべる妲己がうつる。 「…それは…」 「遠呂智様、ちゃんと…殺してあげて」 「どういう意味だ」 「…遠呂智様は、怖いのよ。何度でも何度でも、戻ってこれる。人の、想いがある限り」 「………」 ―――人の、想い? 「人の想いは強いから。…死んだって残る、そういう想いもあるから…」 「妲己」 「終わりなんかない。始まりもない。だから、せめて、この世界だけは絶対に壊してあげないと」 「……」 遠呂智は、では人の想いが作り出したものだというのか。それが、世界を歪め、魔王を作り出したとでも?確かに、三成が曹操に報告した話はこれによく似ていた。 この世界に、希望を見出した人間が、遠呂智の力を得る。この世界に、欲を持った人間が。 この世界を創った者、それ自体が人の想いで形成されているというならば、納得が出来る気がした。 「ここだけじゃないのよ、他にもたくさん、同じようなことが起こってる。私は、この世界を終わらせる義務がある」 「…義務?」 「私は、遠呂智様のものだもの」 「……」 「ねぇ、だからあの人を助け出せる人を、連れてきてくれない?」 妲己にしては殊勝なお願いだった。敵―――ではないからなのか。遠呂智がいた頃のような状況ではないからか。 「……それでいいのか」 「だからあなたをここに連れてきたのよ」 「…三成が助けるからか?」 あの男を。―――幸村を。 「先導する人も、来てるしね」 先導?と首を傾げた曹丕だったが、妲己はそれにこたえる気はないようだった。 「何故あの男を助けるのが、この世界を壊すのに必要なのだ」 「だって、三成さんは遠呂智様の毒、持ってるから」 「…他にもいるはずだが?」 曹丕が知る限りで、前田慶次。もしかしたらそれ以外にもいるのかもしれない。 「いるわよ。言ったでしょ。同じようなことがあちこちで起こってるの」 「なるほど。忙しいことだな、妲己」 「そうよ」 「…遠呂智は…」 「私が、連れていくわ」 はっきりとした意志を秘めた眼差し。世界を終わらせるとか、遠呂智の毒だとか。普段ならば妲己の言うことなど、何一つ信用できないはず。だが、曹丕は頷いた。その眼差しに嘘はない。 そう思ったからだ。 「…わかった。ようやく貴様と利害が一致したな」 「そうねぇ。ほんっと、出来ればそんな状況になってほしくなかったんだけどなぁ!」 途端に明るい声音に戻って、妲己が笑う。曹丕はちらりと幸村を見遣った。ぴくりとも動かないその姿は、まるで死んでいる者のようだ。 そしてふと、耳に届く笛の音。 「…甄」 目覚めたのか、と呟くと曹丕は笛の音がする方向へ、歩みを進めた。 それに導かれるように歩む曹丕の背を見つめて、妲己は小さく呟いた。
「じゃあね」 しかし小さすぎて、その声はついに曹丕の耳には届かなかった。
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